第五話 ストーンブレイク
ゲートの中ってのは、何度入っても嫌なもんだ。
狭い、暗い、落ち着かない。
隣の馬がガタガタ騒いでやがる。
「おい、静かにしな。心臓の音がうるさいよ」
あたしは隣の若造に一喝してやった。
今日は札幌競馬場、芝1200メートル。
あたしたち馬にとって、ここは「職場」であり「戦場」だ。
「……だってよー、ストーンの姉御。今日、客席のヤジが怖くて」
「うるせえ。客なんか見てんじゃねえ。お前を引っ張ってたジジイの顔を思い出せ。あいつ、さっきお前の脚を念入りにさすってただろ?」
「……あ」
ブヒンと一喝してやると、若造が黙る。そうだ、それでいい。
あたしたちは走るために生まれてきた。
理屈じゃない、本能と、ほんの少しの「義理」で動いてる。
……たまに、それ以外の馬もいるけどな。
「落ち着け、ストーン」
鞍の上の騎手が、あたしの首筋を軽く叩いた。
あーあ、全く。あたしだって緊張してんだ。でも、今はそれどころじゃない。
さっきの坊主……朔の顔。
せっかくあたしたちの声を信じて、勇気を出して人間に話しかけたのに、鼻で笑われやがって。
「……よし、いい子だストーン。行こうぜ」
騎手が優しく声をかけてくる。
気合を入れなおしたあたしを、落ち着いたと判断したらしい。
こいつはあたしの言葉は分からない。
でも、いい勘をしてる。
ファンファーレの音。
この音、でっかいレースだともっと豪勢で長くなるらしいけど、正直うるさい。
音楽が止まり、静かになる。
別に重賞でもなんでもないレースだ、大きな歓声なんて上がらない。
でも。
……。
ガシャンッ!!
ゲートが開き、視界が開ける。
蹴立てる音。風が耳元を叩く。
一気に体中の血が沸点まで上がる。これがレースだ。
「どけ!そこはあたしの進路だよ!」
「うわっ、ストーン!速いって!」
前を行く先行集団のケツを睨みながら、あたしは中団につけた。
4コーナーを回るまでが勝負だ。
ふと横を見ると、さっきの8番――左脚が痛いって言ってたアイツが、無理に脚を伸ばそうとして顔を歪めていた。
かわいそうに。人間が鞭を入れりゃ、馬は走るしかない。
でも、あたしたち馬ってのの身体は大切にされている。
牧場の爺さんの愛情。坊主が毎日せっせと運んできた干し草。
調教師のおっさんの厳しい訓練。
それらが全部、今のあたしの筋肉の「燃料」になってる。
第4コーナー。外側に膨らもうとする他馬を、肩で押し返す。
「そこをどきな!」
「くっ……なんだよお前、なんでそんなやる気出してんだよ……!」
「たかがこんなレース真面目にやってんじゃねーよ」
その程度の気合の奴らに返す言葉はない。
直線。目の前が開けた。
ターフの向こうに、あの坊主が、朔が見ているはずだ。
あたしは肺が弾けそうなほど息を吸い込んだ。
脚が重い。地面が泥のようにまとわりつく。
でも、後ろから来る馬たちの気配が、あたしのプライドを突き動かす。
ゴールドファームの馬か?知るかよ。
「……あたしを誰だと思ってんだ」
あたしの背中には、桜井牧場の看板が乗ってんだ。
あのボロい厩舎と、不器用なじいさんと、働くとこもねぇ情けない孫の希望が乗ってんだよ!
無駄に優しい調教師のおっさんが、毎日毎日磨き上げたこの馬体を、甘く見るな!!
「どけぇぇぇぇ!!!」
嘶きにならない叫びが漏れる。
「行け!ストーン!」
騎手があたしの身体をグイグイ押してくる。
いいぞ!あんたはいい騎手だ!!
一歩ごとに、景色が後ろに飛んでいく。
先頭を走っていた馬が、ゆっくり後退していくように見える。
残り100。
あたしの願いに応えるように、背中に一発、魂の入ったムチが飛んだ。
隣で必死に食らいついてくる馬が、驚いたような声を上げた。
「マジかよ……どこにそんな力が……!」
「意地だよ、意地!あんたも覚えときな!」
あたしは馬だ。
血統がどうとか、賞金がどうとか、そんな小難しいことは知らねえ。
ただ、一つだけ確かなことがある。
あの牧場に戻ったとき、爺さんと坊主に「おかえり」って言ってほしいんだ。
歓声が聞こえる。
でも、あたしの耳にはもっとはっきりした声が聞こえていた。
幻聴じゃねえ。
観客席で、喉を枯らして叫んでいる坊主の声だ。
ゴール板が、スローモーションのように通り過ぎる。
突き抜けた。
……。
……。
……。
止まらない勢いのまま、あたしは首を振って汗を飛ばした。
肩で息をしながら、ゆっくりと歩調を緩める。
あー、疲れた。
でも、気分は最高だ。
騎手があたしの首筋をポンポンと叩いた。
「……よくやった。お前、今日は凄い気迫だったぞ」
あんたも良い騎乗だったよ、という思いを込めてブヒンと鳴いてやるが、多分伝わってない。
検量室の方へ戻っていく道すがら、さっきの8番がとぼとぼと歩いているのが見えた。
「脚は大丈夫だったかい?」
「ああ、相変わらず違和感はあるけど、たぶん大丈夫だ」
「それならよかった、ちゃんと診てもらうんだよ」
会話をしながら検量室へ歩いていく。
多分、この会話も騎手二人には、何言ってるかわかってない。
「この二頭、仲いいですね」
「んー、前見た時、特にそんなことなかったんだけどなー」
「なんかあったんですよ、きっと」
ほら、わかってない。
間抜けな顔でこっちを見ている坊主の姿があった。
「……見たかい、坊主」
あたしは誇らしげに鼻を鳴らした。
「馬の言葉を聞けるなら、次はあたしの勝利宣言も、ちゃんと通訳しなよ?」
「さすがに無茶言うな」
もちろん、周りの奴らには、あたしたちが何を話しているかなんて分かりゃしねえ。
でも、あたしは決めた。
この坊主の言うことを周りが信じるように手伝ってやる。
あたし程度じゃ、どこまで勝てるかなんて知らん。
「もっともっと勝ってやるからな、表彰式出たかったら来るんだよ」
「毎回来てたら、交通費で破産するわ」
ケチくせぇ坊主だ。
わざと鼻息をぶっかけてやる。
ちょっとよろけている。
面白い。
「まだまだだな」
あたしの心臓はまだ、誇らしく鳴り響いていた。




