第十九話 初めての種付けは、なんかちょっと気まずい
クラウンの入厩で少ししんみり……する暇はなかった。
春というのは、牧場にとってだいたい忙しい。
いや、春じゃなくても忙しいんだけど、春はなんというか、休んでる場合じゃなくなる。
夜中に叩き起こされて新しい仔馬を取り上げて、うるさくなると同時に、
新しい種付けの準備もしなければならないからだ。
そんな春のある朝、爺さんが朝飯前から俺を捕まえた。
「おい」
「ん?」
「今日は勉強だ」
勉強、と言われるとなんか嫌な予感がする。
「ストーンの種付け、今日だ」
「……あー」
ついに来たか、と思った。
重賞を勝って引退して、帰ってきて、少し休んで、春。
繁殖牝馬としてのストーンが始まる。
つまり、お母さん馬である。
言葉にすると簡単だが、現場は全然簡単そうじゃなかった。
つまり、ほぼ何も知らない。
「えーと……」
「なんだ」
「見せるって、どこまで?」
爺さんはじろりとこっちを見た。
「馬鹿なこと言うな。段取り全部だ」
「あ、はい」
そこはさすがにそうか。
俺が変なこと考えたみたいじゃないか。
いや、ちょっとは考えたけど。
「いいか、種付けは牧場の根幹だ」
爺さんは、真剣な顔で腕を組んだまま言った。
「走る馬を作る前に、生まれなきゃ話にならん。配合もそうだが、相手先との付き合いもある。牝馬の体調もある。発情のタイミングもある。失敗したら一年飛ぶ」
「はい」
この辺のことは、まだ完全に爺さん主導だ。
ゲームで言うところの、まだ“チュートリアル段階”だ。
「今日はその最初から最後まで見ろ。いずれはお前がやる」
その一言で、急に現実感が増した。
ああ、そうか。
これも、そのうち俺が決める側になるのか。
配合だけじゃない。
段取りも、タイミングも、全部。
うーん。
牧場主って思ったよりもずっとやること多いな。
いや、今さらだけど。
◇
何より、当のストーンがまったく落ち着いていなかった。
「……なあ、坊主」
「ん?」
「初めてなんだけど」
「だろうな」
「なんかこう……もっと、雰囲気とかないのかい」
「雰囲気?」
「ほら、花とか」
「いるか?」
「いらないと思う」
即答だった。
なら最初から聞くな。
すると、隣で干し草をもしゃもしゃやっていた年上の繁殖牝馬が、のんびり口を挟んできた。
「初めての種付けなんて、だいたいみんなあんなもんだよ」
「そういうもんなんですか」
「そういうもん。人間だって初めては緊張するでしょ?」
「何の初めてを想定して言ってるんだよ」
「さあ?」
こいつら、たまに人間の地雷原をスキップで走るよな。
あ、聞こえてるの俺だけだから関係ないのか。
◇
馬運車にストーンを乗せて、向かった先は、少し離れたところにある種牡馬繋養施設だった。
ゴールドファームみたいな、何もかもデカいところではない。
でも、うちみたいな小さい牧場からすると、やっぱりちゃんとしてる感じがある。
人間も慣れてる顔をしている。
「こんにちは」
爺さんが挨拶すると、向こうの人も自然に頭を下げた。
「はい、お待ちしてました」
こういうやり取り、やっぱり“仕事”って感じがするな。
「こちらへどうぞ」
ストーンが馬運車から降ろされて、案内された先で、少し待つ。
相手の種牡馬は準備中らしい。
その間に、繁殖牝馬用の区画なのか、近くの馬房から妙に生温かい視線……いや、視線というか声が飛んできた。
「へえ、今日が初めてなの?」
「緊張してる?」
「痛くはないよ、たぶん」
「初めての子だもんねぇ」
「初々しい」
ストーンが耳をぴくぴくさせる。
「おい坊主、帰っていいか?」
「帰らん」
「なんか急に嫌になってきた」
「今さらだな」
ベテランっぽい繁殖牝馬たちは完全に面白がってる。
「大丈夫大丈夫、最初はみんなそんなもん」
「変に力入れると疲れるよ」
「終わったら草が美味いから」
「何の慰めにもなってねぇな!?」
ストーンが珍しく本気で声を荒げていて、俺はちょっと面白かった。
重賞勝った時ですらここまで狼狽えてなかっただろ。
「……あんまり見んなよ、坊主」
「いや、まだ何も見てない」
「見そうな顔してる」
「どんな顔だよ」
「田舎の高校生男子が保健体育のビデオ流された時の顔」
「最悪な例えやめろ」
でもちょっとわかるのが悔しい。
その時だった。
通路の奥の方から、のそのそした声が聞こえてきた。
「おー、今日の相手この子ー?」
妙にのんびりした声だった。
視線を向けると、向こうの馬房に、立派な鹿毛の牡馬がいた。
でかい。
いや、馬ってだいたいでかいんだけど、その中でも「お前はその筋肉をどういう気持ちで持ってるんだ」ってくらいでかい。
「初めましてー」
なんか、声が想像より軽い。
もっとこう、歴戦の大種牡馬みたいな、渋くて重い声かと思っていた。
ストーンも少しだけ目を瞬かせた。
「……あんたが今日の相手かい」
「そーそー。よろしくねー。緊張してるー?」
「してない」
「そっかー。俺はちょっとしてる」
「なんであんたが!?」
「いやー、初めての子ってやっぱり気ぃ使うじゃん」
なんか、思ったよりまともなことを言っている。
いや、まともというのも変だが。
爺さんや周りのスタッフさんたちは、当然そんな機微は一切わからないので、淡々と話を進めていた。
「今日は様子見ながらで」
「ええ、もちろんです」
「この子は初めてなんで」
「承知してます」
…………今気づいたが、声が聞こえて一番困るの、この仕事では?
気まずい。
いや、本当に勉強にはなる。
なるけど、精神的にはかなりくる。
俺は遠くの空を見ていた。
春の空だなぁと思っていた。
雲がゆっくり流れていた。
「坊主」
ストーンが俺に話しかけてくる。
「ん?」
「お前、完全に目逸らしてるね」
「見てるよ。空を」
「見ろよこっちを!」
「無理だろ!」
相手の種牡馬は、そういう空気の中でも妙に落ち着いていた。
「君の付き添いの男の子、面白いね」
「うるさい!」
「いやほんとに。こういう時に一番挙動不審なの、だいたい人間の男なんだよね」
その情報は知りたくなかった。
向こうのベテラン牝馬たちが笑っている。
「あるある」
「わかるわあ」
「男ってそういうとこあるよねえ」
馬社会でもそういう認識なんだ……。
――で。
まあ、無事に終わった。
詳細は省く。
ストーンの名誉のためにも、その辺は省く。
「……終わった……」
終わった直後のストーンが、妙に疲れた顔をしていた。
いや、疲れた顔というか、色々な感情を一度に処理しきれてない顔だった。
わかる。
そこでさっきの種牡馬が、のんびり声をかけてきた。
「だいたい種付けってこんなもんだよー。人間は勝手に神秘っぽくしてるけどー」
「お前、ほんとに種牡馬か」
「種牡馬だよー。超売れっ子ってわけじゃないけど、毎年ちゃんと呼ばれてるしー」
「そこはもう少し誇れよ」
「誇ってるよー。でも、気楽な方がモテるしー」
「モテの方向性が終始軽いな」
ストーンとの掛け合いが見ていて面白い。
でも、こいつみたいなタイプだから、ストーンも少し気が楽だったのかもしれない。
少なくとも、今、ストーンは思ったより落ち着いている。
いや、落ち着いてるというか、呆れて緊張がどっかいった感じか。
「坊主」
「ん?」
「なんか、変に緊張してた自分が馬鹿みたいだ」
「まあ、初めてってそんなもんだろ」
「お前も緊張してた?」
「した」
「今度詳しく教えろよ」
「絶対ヤダよ!?」
「お前だけ見てズルいだろ!!」
元気が戻ってきたな。
よかったよかった。
でも、今後やたら興奮してる種牡馬とか来た時、俺は冷静な顔で仕事出来るか自信がない。
◇
牧場に戻ると、案の定、留守番してたが寄ってきた。
「どうだったー!?」
「さくー、おなかすいたー!」
「おかえりー!」
「すとーんねえちゃん、おかあさんになるのー?」
「たねつけっておいしかったー?」
最後のやつは本当にどういう教育受けてるんだ。
ストーンは馬運車から降りるなり、わざとらしくため息をついた。
「お前らねぇ、いちいちうるさいよ」
繁殖牝馬たちも珍しく盛り上がっている。
「で、どうだったの?」
「痛かった?」
「怖かった?」
「イケメンだった?」
質問が女子会なんだよな。
ストーンは、しばらくもったいぶったあと、ふっと鼻を鳴らした。
「……仕事は仕事だよ」
「えー」
「つまんなーい」
「もっとなんかないのー?」
ストーンの返事が、妙に余裕ぶっていて少し笑ってしまった。




