第十八話 いってらっしゃい、ビクトリーロード
馬主パーティから数か月がたって春になった。
春というやつは、北海道だとだいぶ詐欺だと思う。
北海道に住んでない人向けに言うと、4月に雪が降ることがある。マジで。
大学時代は驚いてる奴もたくさんいた。
でもまあ、土の色が見える。放牧地の草も、くすんだ茶色の下から、うっすら新しい緑を押し上げてきている。
馬たちも、なんとなく浮ついている気がした。
いや、あいつらは年中わりと浮ついてるか。
「朔ー、今日なんか空気がウキウキしてるー」
「春かな」
「朔ー!春って何ー?」
「お前らが去年生まれた季節だよ」
「やったー!」
「朔ー、クラウンが放牧地でずっと変なポーズ取ってるー」
変なポーズ。
その情報だけで、俺は嫌な予感がした。
長靴で泥を踏みながら放牧地の方へ向かうと、案の定、ミスタークラウンが小さな盛り上がりの上に立っていた。
朝日に向かって胸を張り、首を高く掲げ、いかにも「俺、今、始まる男です」みたいな顔をしている。
「……何してんの、お前」
俺が声をかけると、クラウンはゆっくりとこちらを振り向いた。
「見てわからんか」
「見てもわからん」
「出陣前の英傑ポーズだ」
「言い切るな」
こいつは今年になってからますますうるさい。
いや、春になったからなのか、今日が特別なのか。
理由は簡単だ。今日、ミスタークラウンは入厩する。
つまり、岡部さんのところへ行く日だ。
競走馬として本格的に鍛えられ、デビューへ向けて進み始める日。クラウンにとっては大イベントである。
でも、こいつはそれを「伝説の始まり」くらいのテンションで受け止めている。
「ふっ」
「だから何なんだよ、その『ふっ』は」
「朔、今日の俺、顔つき違うだろ?」
「いつもより三割増しで調子に乗ってる顔してる」
「それを“風格”というんだよ」
「言わねぇよ」
周囲の馬たちも一歳になったことでクラウンの言っていることに簡単には騙されなくなってきた。
「クラウン、トレセンで迷惑かけないようにね」
「クラウンのにーちゃん、わがままばっかり言ったらだめだよ」
「お土産よろしくね」
「イケメンがいたら連絡先聞いておいてね♡」
「朔ー、おなかすいたー」
クラウンは一度咳払いみたいに鼻を鳴らしてから、さらに胸を張った。
「ここから始まる俺のビクトリーロード!!」
うわ、言った。
しかも、朝日に向かって。
「どれだけ早くても夏までレースないけどな」
俺が現実を差し込むと、クラウンは嫌そうな顔をした。
「朔、お前ほんとそういうとこだぞ」
「いや、だって事実だし」
「事実でも言わなくていいことってあるんだよ!」
繁殖牝馬たちの方からくすくすと笑い声がした。
「クラウン、朝から元気だねえ」
「若いっていいね」
「二歳馬って、みんなこの時期自分が三冠馬だと思ってるから」
「去年の子も去年そんな感じだったよ」
「誰の子が去年いたんだよ」
「誰だっけ?まあ適当に言っただけ」
適当かよ。
いや、でも、だいたいそういうものらしい。
いいことっちゃいいことなのかもしれない。
ストーンブレイクが、少し離れたところから半眼でこちらを見ていた。
引退して牧場に戻ってからのストーンは、以前にも増して偉そうだった。いや、重賞勝ち馬が引退して牧場に戻ってきたのだから、ある意味当然ではあるのだが。
「坊主ー」
「ん?」
「そのガキんちょ、今日から厩舎入りだろ?」
「ああ」
「ちゃんと人間の言うこと聞くように言っときな」
するとクラウンが即座に口を挟んだ。
「姉ちゃん!俺は元から従順だよ!?」
その場にいた馬たちの空気が、一瞬だけ静かになった。
それから、あちこちで堪えきれない笑いが漏れ始める。
「ぶっ……」
「誰が?」
「どの口が言うの?」
「朝から笑わせないでほしい」
「従順……?」
クラウンの耳がぴくぴく動いた。
「な、何がおかしい!」
「いや、お前昨日干し草の袋ひっくり返して遊んでただろ」
「放牧地の柵に片足かけて『王の見回り』とか言ってたし」
「あと、爺さんと朔の目盗んで隣の草食ってたよね」
「それは従順じゃなくて自由奔放って言うんだよ」
「ちっ」
舌打ちしやがった。
でもまあ、こいつが入厩先でちゃんとやれるのかという不安は、正直かなりある。
◇
出発は昼前だった。
遠くから低いエンジン音が聞こえてくる。
馬運車だ。
「お」
クラウンの耳がぴんと立つ。
周囲の馬たちもざわつく。
「来たぞー」
「行くのかー」
「ちゃんとやれよー」
「無茶すんなよー」
「帰ってきたら土産話なー」
こいつらも、なんだかんだ優しいんだよな。
あれだな。
この牧場、いちいち不器用なんだよな。
クラウンはずっと大口を叩いているけど、さっきから耳の動きが落ち着かない。
緊張してるんだな、とわかる。
わかるけど、「緊張してる?」とは聞かない。
聞いたらこいつは絶対「してねぇ!」って言うから。
ストーンブレイクが馬房の中から、いかにも面白そうに声を飛ばしてきた。
「クラウン」
「ん?」
クラウンがそっちを向く。
ストーンは、いつものように偉そうに顎を上げた。
「向こう行ったらな」
「おう」
「最初はだいたい、思ったよりうまくいかねぇぞ」
クラウンが少しだけ目を丸くする。
珍しく、ストーンが茶化していない。
姉御面で笑うでもなく、本当に普通の声で言っていた。
「周り全部知らねぇやつばっかりだ。飯も水も寝藁も、匂いも音も、全部違う」
ふむ。まあ、人間でも引っ越した後って大変だよな。
ゲームだと『入厩』ボタン一つで済むけど、現実ではそうはいかない。
「でもな」
ストーンは鼻を鳴らした。
「そこで『こんなはずじゃない』って腐るのと、『こんなもんか』って開き直るのとじゃ、あとが全然違う」
「……」
クラウンは、さっきまでの軽口を少しだけ引っ込めて、ちゃんと聞いていた。
「だから先に言っとく。最初に凹んでも、別に終わりじゃない。普通だ」
ストーンのその言葉に、周りの馬たちも静かになる。
春の風が、放牧地の端の乾いた草を揺らした。
「……ストーンの姉ちゃん」
「ん?」
「ありがとな」
クラウンがそう言うと、ストーンはわざとらしく顔をそむけた。
「礼は勝ってからにしな」
「じゃあ最初の新馬戦で勝ってくる」
うん、元気になったな。
「ちゃんと真面目に岡部さんの言うこと聞けよ?」
俺がそう言うと、クラウンはふんと鼻を鳴らした。
「新馬戦からそのまま無敗で三冠馬!!」
「あまりわがまま言うなよ?」
「そしてそのまま翌年は年間無敗で春秋古馬三冠!!」
「んなこと出来たらこのオンボロ厩舎立て替えてやるわ」
「マジで!?」
「マジで。できたらな」
クラウンは一瞬だけ本気で考え込んだような顔をして、それからぶんぶんと首を振った。
「いや、やる。やるに決まってる」
「うんうん」
「その時は風通しのいい馬房と、でっかい放牧地と、ブラッシング部屋と、あと毎日りんごが出る福利厚生を」
「お前ら、福利厚生好きだな」
「大事だろ」
「大事だけど」
「ケガしないようにな」
そこだけは、少し真面目に言った。
「……うん、行ってくる」
さっきより、少しだけ素直な声だった。
俺は少しだけ拍子抜けした。
もっとこう、「任せろ! 凱旋門賞まで一直線!」とか言うと思ったのに。
でも、そうか。
こいつも一応、不安なんだな。
「おう。行ってこい」
馬運車に乗り込む時、クラウンは一回だけ振り返った。
それから、いかにも「俺は平気ですけど?」みたいな顔をして中へ入っていく。
ほんと、最後まで変な見栄張りだな。
クラウンのビクトリーロードが、本当に無敗三冠になるかどうかは知らない。
たぶん無理だろう。
かなり無理だ。
でも、まあ。
あいつがどんなふうに頑張って、どんなふうに凹んで、どんなふうに帰ってくるのか。
それを見るのは、少し楽しみだった。
「俺ももうちょい勉強するか」
馬のこと。
レースのこと。
配合のこと。
あと、馬主パーティの時に出てた、透明なのに食い物っぽかった何かのこと。
あれは一体なんだったんだ。
気になる。よくわからんがうまかった。
「朔ー!クラウンいなくなったから、次のボス俺でいい!?」
「みんなで話し合って決めなさい」
「えー!」
平和だなあ、と思った。




