第十七話 馬主パーティって、たぶん場違いな人も一人くらいはいる
翌朝。
俺は、朝っぱらから猛烈に後悔していた。
厩舎の通路で寝るなんて、どう考えてもテンションでやることじゃない。
「いっっっっっった……」
背中が痛い。腰も痛い。首も変な方向に固まっている。
床からの冷気と、薄い布団と、夜中に何度か顔へかかった馬の鼻息のコンボは、二十二歳の若者の身体にも普通に効く。
いや、馬の鼻息って地味に重いんだよな。
湿ってるし。
「坊主ー、起きたー?」
「起きたなら飯ー」
「朔、寝顔変だった」
「朔ー、いびきうるさかったー」
「うるせぇな……」
目を擦りながら起き上がると、馬房のあちこちから好き放題言われた。
昨日は勝利の余韻に浸っていたが、今日は普通に通常営業である。
朝飯をやり、水を替え、馬房を掃除し、当歳のどうでもいい喧嘩を仲裁し、クラウンの無駄に偉そうな演説を聞き流し、ストーンの武勇伝再放送に適当に相槌を打つ。
そんな、いつも通りなのに少しだけ浮ついた朝を過ごしていた、その時だった。
母屋の方から、固定電話のベルが鳴った。
ジリリリリリ。
俺は、嫌な予感がした。
嫌な予感というか、こういう時の固定電話って、だいたい「なんかちゃんとした用事」である。
つまり、面倒くさい。
俺が母屋に戻るより先に、じいちゃんが受話器を取ったらしい。
しばらくして、玄関からぬっと顔を出した。
「朔」
「ん?」
「代われ」
「え、俺?」
「お前だ」
なんか嫌だなー、と思いながら受話器を受け取る。
「はい、桜井牧場です」
『ああ、朔くんかね』
聞き覚えのある、落ち着いた声。
「あ、天山さん」
話し方は柔らかいのに、なんか全体的に圧がすごい人。
『急にすまないね』
「いえ、大丈夫です」
『よければ、馬主の集まりに一度来てみないかい?』
「……はい?」
思わず素で聞き返した。
馬主の集まり?
なにそれ。
競馬界の上流階級パーティ的なやつか?
「えっと、馬主なのはじいさんなんですけど」
『うむ、説明したら「本人が行くと言えば好きにしてください」と言っていたよ』
「……言ったの?」
思わず受話器を押さえて振り返ると、爺さんは湯呑みを手にしたまま、知らん顔で座っていた。
おい。
そこで目を逸らすな。
『もちろん無理にとは言わない。だが、若い人間が少ない世界だからね。一度見ておくのも経験になると思うのだよ』
「はあ……」
『東京だ。来週の夜。交通費はこちらで持とう』
うわ、逃げ道を潰してくる。
しかも「経験になる」とか言われると、断りづらい。
俺はしばらく黙った。
馬主の集まり。
東京。
絶対すごい人たちがいる。
絶対場違いだ。
でも、少しだけ気になる。
というか、めちゃくちゃ気になる。
「……じゃあ、せっかくなので?」
『うんうん。それでいい。詳細は後で書面でも送ろう』
「はい……」
『気楽に来なさい』
電話が切れる。
受話器を置くと、爺さんがこっちを見た。
「行くのか」
「行く流れになった」
「そうか」
「爺さん、なんで勝手に『好きにしてください』とか言ったの?」
「お前が行きたくなきゃ断るだろ」
「まあそうだけど」
「ならいい」
いいのか。
いいらしい。
◇
数日後。
東京某所。
会場は、某ホテルの上の方だった。
「うわ……」
広い。
床がピカピカしてる。
シャンデリアがある。
スタッフの人がみんな姿勢いい。
そしてなにより――
人間が、全員、金持ちっぽい。
男も女もスーツやドレスがいちいち高そうで、笑い声すら高級感がある。
何を食えばそういう笑い方になるんだ。
テーブルの上には、見たことない料理が並んでいる。
小さくて丸い何か。
葉っぱの上にちょこんと乗った何か。
透明なのに食べ物っぽい何か。
俺が会場の端で完全に挙動不審になっていると、向こうから天山さんが歩いてきた。
相変わらず、良いスーツだ。
「ようこそ。よく来てくれたね」
「いや、どうも……」
「そんなに緊張しなくていい。大丈夫、皆も歓迎するだろう」
歓迎、ねえ。
まあ、食事は美味そうだ。
そこは歓迎したい。
◇
結果から言うと、割と構ってもらえた。
若い人が珍しいらしい。
「へえ、君が桜井牧場の」
「若いねえ」
「でもいいことだね、こういう若い人が興味を持ってくれるのは」
「牧場経営は大変だろう?」
「そうですね。かなり」
「それでも続けようと思えるのは偉いことだよ」
その口調は優しい。
でも、優しいのと同時に、完全に“若い子にかける言葉”でもある。
「いや、でも本当に大変で。朝早いし」
「あっはっは、それはそうだ!」
笑いが起こる。
そんな感じで、入れ替わり立ち替わり話しかけられる。
可愛がられている、と言えば聞こえはいい。
でも、ぶっちゃけ、“若い人が来てるから優しくしてあげよう”みたいな空気だ。
丁寧に相手してもらっているが、言い換えると、だいぶ舐められている。
まあ、当然だろう。
俺だって逆の立場ならそう思う。
だから、別に気にしない。
というか、正直、それどころじゃない。
「……これ何」
白い皿の上に乗ってる、よくわからん肉っぽいやつを口に入れる。
うまい。
なんでかわからんが、うまい。
酒も高そうだった。
うまい。
そんなことを思いながら、なるべく無難に会話をこなしていたら、背後からやや切迫した声がした。
「……君」
振り向くと、金持だった。
こそこそ、という擬音がよく似合う感じで近寄ってきている。
「何さ」
あ、この生ハムみたいなの美味しい。
「君、舐められてるぞ!?」
金持が小声で、しかし必死に言ってくる。
俺は口の中の料理を飲み込んでから答えた。
「当然だろ」
「いや、当然なんだけどさ!?」
金持がものすごくもどかしそうな顔をした。
「もっとこう、なんかあるだろ!対等に見られたいとか、見返したいとか!」
「いや別に」
「ないのかね!?」
「だって、実際まだ対等じゃないし」
俺が素直に言うと、金持は一瞬だけ黙った。
「君ね、もっとこう、見返してやるくらいの気概はないのかい!?」
「いや、別に。いきなり来た若造がすげぇ顔してても変だろ」
「それはそうなんだけど!」
その時、近くにいた少し恰幅のいい馬主さんが、にこにこしながら口を挟んできた。
「まあまあ、気負わなくていいんだよ。最初は皆そんなものだ」
「そうだねえ。若いうちは可愛がられておくのも才能だから」
「うちなんか孫が競馬に興味なくてねぇ、羨ましいくらいだよ」
ありがたい。
そして金持が、なぜか俺より悔しそうな顔をしている。
「君がなんで平然としてるのか、本気でわからん……」
「ご飯うまいし」
「そこかね!?」
「あと酒も高そう」
「飲んでるのかね!?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけでその顔になるか!」
たしかにちょっと顔が熱い気もする。
でも大丈夫だ。
まだ理性はある。
たぶん。
「いやー、でもさ」
俺はグラスを軽く揺らしながら言う。
「こういうの、来ないとわかんないなって」
金持が眉をひそめる。
「何がだね?」
「なんか、みんなすげぇちゃんとしてるじゃん」
「そりゃそうだろう」
「でも、ちゃんとしてるだけじゃなくて、わりと普通に馬好きなんだなって」
一瞬、金持が黙る。
そのあと、少しだけ目を細めた。
「……そりゃそうだろう。好きでもなきゃ、ここまで金も時間も気力も使えない」
「だよな」
「君こそ、少しはこの空気に飲まれたらどうだね」
「いや、美味い飯と高そうな酒で十分飲まれてる」
「ダメな意味でだよ!」
◇
会も終盤に近づいた頃、俺はちょっとだけ窓際に逃げた。
高いところから見る東京の夜景は、普通に綺麗だった。
すげぇな。
「疲れたかい」
隣に来たのは、天山さんだった。
「いや、まあ、ちょっとだけ」
「だろうね。慣れない場所だ」
「でも、来てよかったです」
「うん?」
「なんか、思ってたより、普通でした」
「普通?」
「もっとこう、みんなバチバチしてるのかと」
天山さんは少しだけ目を細める。
「バチバチしてるよ」
「してるんですか」
「してる。にこやかに、静かに、ずっとしてる」
「怖」
「でも、それをわざわざ表に出すほど皆若くない」
「もっと怖いです」
天山さんは笑った。
「今のうちにたくさん可愛がられておくといい」
「天山さんはどうだったんですか」
「若い頃は、もっと腹を立てていたよ」
「意外です」
イメージできない。
「でもね、怒ったところで腹は減るだけだ」
「それはちょっとわかります」
「だから、美味しいものを食べる方がいい」
「めっちゃわかります」
美味いごはんはやはり正義。
「どうせそのうち、可愛がる側になるんだから」
その言葉に、俺は少しだけ考えた。
可愛がる側。
俺が?
そんな日が来るのかね。
来るとしても、だいぶ先だろう。
でも、その頃まで牧場が続いていれば、ちょっと面白いかもしれない。




