第十六話 桜井牧場
昨日のレースが終わって、一泊して、朝一で飛行機に乗って、バスに揺られて、昼過ぎにはもう静内に戻っていた。
自分でも意味がわからない。
つい昨日まで、中山競馬場のあの熱と人混みの中にいたはずなのに、いつもの牧場で、いつもの長靴を履いて、いつもどおり馬糞を片付けている。
空は広いし、風は冷たいし、土の匂いは同じだし、馬たちはうるさい。
「朔ー!なんか飛んでるー!」
「とりー!」
「たーこいず!!」
「朔ー!りんごー!!」
「朔!俺の写真映りは左と右どっちがいいかな!?」
いつも通りだ。
昨日、重賞を勝った牧場とは思えないくらい、いつも通りだった。
いや、まあ、思えないだけで、勝ったのは本当なんだけど。
母屋に飾った口取りの写真とクロエ騎手のサインがその証拠だ。
「……現実味ねぇなあ」
独り言みたいに呟いて、俺は干し草の束を肩から降ろした。
腕が少しだるい。移動疲れが普通に残ってる。
でも、牧場の仕事に「昨日遠征してました」みたいな情状酌量はない。
馬は人間の都合で腹を減らさないし、眠くもならないし、当たり前みたいに今日を生きている。
だから、俺も今日をやるしかない。
◇
日が傾き始めて、空気が一段冷たくなった頃だった。
遠くから、低くて大きいエンジン音が聞こえた。
ガラガラと、重い車体が砂利を踏む音。
「……来た」
馬運車だ。
見慣れているはずなのに、今日だけはやけに特別に見える。
ゆっくりと牧場の中に入ってきて、停まる。
母屋の方から爺さんも出てくる。いつもの無表情のままだけど、歩幅が少しだけ早い。
ドアが開く音。
人の気配。
それから――。
「おう、爺さんに坊主」
ストーンブレイクは、いつもの調子で鼻を鳴らした。
「ただいま」
俺は少しだけ喉が詰まりそうになって、それでも、なるべく普通に返した。
「おかえり」
ストーンはふふんと首を揺らした。
「どうだ、胸張って帰ってきただろ」
「そうだな」
「もっと感動しろよ」
「感動してるけど、ここで泣いたらお前絶対あとで馬鹿にするだろ」
「当たり前だ」
周りの馬たちが、わらわらと騒ぎ始めた。
「帰ってきたぞー!」
「おいおいマジかよ!」
「なんかすげぇ匂いする!」
「勝ちの匂いだ!」
「そんな匂いあるのか?」
あるのかもしれない。
爺さんが無言で近づいて、ストーンの首筋を軽く撫でた。
ごつくて、節くれだった手だ。
ストーンは一瞬だけ目を細めて、それから何でもないふうに言った。
「爺さん、あたし勝ったぞ」
爺さんには聞こえてない。
でも、わかるんだろう。
爺さんは何も言わず、ただ一度だけ大きくうなずいた。
「よし」
その一言だけだった。
でも、ストーンは満足そうだった。
その日の飯は、少しだけいいやつになった。
◇
夜。
厩舎の中は、いつもより少しだけ賑やかだった。
――いや、かなり賑やかだった。
「んでな!あたしがな!!」
案の定である。
ストーンがど真ん中で、完全に語り部になっていた。
「最初のな、二歩でな!もう前に出ててな!そしたら後ろのやつらがな!」
「うんうん……」
俺は通路に椅子を置いて座りながら、相槌を打つ。
もう何度目かわからない「そこから!」「それで!」「あのガキがな!」を聞いている気がするが、こいつ本人が楽しそうだからいいか、という気分になっていた。
周りには、他の馬たちと、当歳たち。
完全に報告会だ。
繁殖牝馬たちはストーンを生まれた頃から知っていることもあり、温かい目で見ている。
「ストーンの姉ちゃんかっこいい!!」
クラウンが目を輝かせて叫ぶ。
「だろう!」
ストーンが胸を張る。
「んでな!最後の坂でな!」
「じゅーしー!」
「おすしー!」
「たーこいずー!」
「おいしいー!」
当歳たちも楽しそうに叫ぶ。
ストーンはそんなちびどもも気にせず、さらに身を乗り出した。
「坊主!これで、坊主の言うこと聞くやつ増えたよな!?」
俺は一瞬だけ言葉に詰まる。
「…………ああ、そうだな」
ゆっくり頷く。
ストーンは満足そうに笑った。
クラウンがぱちぱちと瞬きをする。
「姉ちゃん! それどういうこと!?」
ストーンは、いかにも「しょうがないねえ」と言わんばかりに偉そうな顔をした。
「いいかい、ガキんちょ」
「俺はガキんちょじゃない。ミスタークラウンだ」
「うるさい、ガキんちょで十分だ」
クラウンが少しむっとする。でも、聞きたい気持ちの方が勝ってるのか、言い返さない。
ストーンは鼻を鳴らした。
「あたしらがな! 勝てば勝つほど、坊主の言うこと聞く人間も増えるってことさ!」
「すごーい」
「おいしいごはん?」
「りんごー」
「ぼく、りんごきらーい」
「そうさ!」
当歳たちの言葉にストーンは勢いよく頷く。
「好き嫌い言ったり、ケガとか病気とかの話ちゃんと聞いてもらえるんだ!」
「すごーい」
「ぼくりんごきらいなのー」
「ぼく、しゅくめりる食べたーい」
「さすがにそれは無理」
即答した。
シュクメルリて。
どこで覚えた。
厩舎の中に、笑いが広がる。
なんでもない夜。
でも、少しだけ特別な夜。
外は寒いはずなのに、この場所だけ妙にあったかい。
ストーンはまた話し始める。
同じ話を何回もしているのに、誰も止めない。
むしろ、聞きたいんだろう。
その中に、自分たちの未来が少しだけ混ざっているから。
俺はその様子をぼんやり見ながら、母屋から布団を持ってきた。
自分でも何をやっているんだと思うが、今日はなんだか、母屋に戻る気になれなかったのだ。
古い布団を一組持ってきて、通路の端の、馬房から馬房まで全部見渡せる場所に敷く。
「坊主、何してんだい」
ストーンが不思議そうに言う。
「今日はここで寝る」
「風邪ひくよ」
「お前がそれ言うのか」
「重賞馬様は優しいんだよ」
「へえ」
「その態度ムカつくな」
クラウンが嬉しそうに顔を出す。
「朔、一緒に寝るのか?」
「一緒にっていうか、俺が勝手に通路で寝るだけだ」
「楽しそう!」
「そうか?」
「うん!」
当歳どももわらわらと反応する。
「朔ここでねるのー?」
「なんでー?」
「さみしいのー?」
「こわいのー?」
「どっちも違う」
どっちも違う……と思う。たぶん。
布団に潜り込むと、床から冷気はくる。でも、上からは干し草の匂いと馬たちの吐息が落ちてくる。時々、藁のかさっと鳴る音がして、誰かが鼻を鳴らす。
妙に落ち着く。
「坊主ー」
「んー?」
「……ありがとな」
小さな声だった。
聞こえないふりをしようか迷ったけど、やめた。
「こっちこそ」
それだけ返す。
それで十分だった。
気づけば、目が閉じかけていた。
疲れが一気に来る。
まだストーンの声がしている。
クラウンが笑っている。
当歳が意味のわからないことを言っている。
それを聞きながら、意識がゆっくり沈んでいく。
たぶん今の俺は、大学生の頃の俺が想像してた社会人とも、牧場主とも全然違う。
就職先は消えたし、予定してた人生はどっかへ行った。
なのに、妙に、今の方がちゃんと生きてる感じがする。
そんなことを思いながら、そのまま眠りに落ちた。
◇
少しだけ開いた扉の隙間から、厩舎の中を覗く。
いい加減に寝ろと様子を見に来たのだが。
孫が、何か楽しそうに馬たちと話している、ように見える。
何を話しているのかは、わからない。
でも、馬たちがやけに楽しそうにしていることと、真ん中で孫が一緒になって笑っていることだけは、よくわかった。
「……」
少しは、牧場主らしくなったな。
そんなこと言うつもりはないが。
「…………牧場を潰さずにやってきた甲斐はあったみたいだぞ、婆さん」




