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第十六話 桜井牧場

 昨日のレースが終わって、一泊して、朝一で飛行機に乗って、バスに揺られて、昼過ぎにはもう静内に戻っていた。


 自分でも意味がわからない。


 つい昨日まで、中山競馬場のあの熱と人混みの中にいたはずなのに、いつもの牧場で、いつもの長靴を履いて、いつもどおり馬糞を片付けている。


 空は広いし、風は冷たいし、土の匂いは同じだし、馬たちはうるさい。


「朔ー!なんか飛んでるー!」

「とりー!」

「たーこいず!!」

「朔ー!りんごー!!」

「朔!俺の写真映りは左と右どっちがいいかな!?」


 いつも通りだ。


 昨日、重賞を勝った牧場とは思えないくらい、いつも通りだった。


 いや、まあ、思えないだけで、勝ったのは本当なんだけど。


 母屋に飾った口取りの写真とクロエ騎手のサインがその証拠だ。


「……現実味ねぇなあ」


 独り言みたいに呟いて、俺は干し草の束を肩から降ろした。


 腕が少しだるい。移動疲れが普通に残ってる。

 でも、牧場の仕事に「昨日遠征してました」みたいな情状酌量はない。


 馬は人間の都合で腹を減らさないし、眠くもならないし、当たり前みたいに今日を生きている。


 だから、俺も今日をやるしかない。



 日が傾き始めて、空気が一段冷たくなった頃だった。


 遠くから、低くて大きいエンジン音が聞こえた。


 ガラガラと、重い車体が砂利を踏む音。


「……来た」


 馬運車だ。


 見慣れているはずなのに、今日だけはやけに特別に見える。


 ゆっくりと牧場の中に入ってきて、停まる。


 母屋の方から爺さんも出てくる。いつもの無表情のままだけど、歩幅が少しだけ早い。


 ドアが開く音。


 人の気配。


 それから――。


「おう、爺さんに坊主」


 ストーンブレイクは、いつもの調子で鼻を鳴らした。


「ただいま」


 俺は少しだけ喉が詰まりそうになって、それでも、なるべく普通に返した。


「おかえり」


 ストーンはふふんと首を揺らした。


「どうだ、胸張って帰ってきただろ」


「そうだな」


「もっと感動しろよ」


「感動してるけど、ここで泣いたらお前絶対あとで馬鹿にするだろ」


「当たり前だ」


 周りの馬たちが、わらわらと騒ぎ始めた。


「帰ってきたぞー!」


「おいおいマジかよ!」


「なんかすげぇ匂いする!」


「勝ちの匂いだ!」


「そんな匂いあるのか?」


 あるのかもしれない。


 爺さんが無言で近づいて、ストーンの首筋を軽く撫でた。

 ごつくて、節くれだった手だ。


 ストーンは一瞬だけ目を細めて、それから何でもないふうに言った。


「爺さん、あたし勝ったぞ」


 爺さんには聞こえてない。


 でも、わかるんだろう。


 爺さんは何も言わず、ただ一度だけ大きくうなずいた。


「よし」


 その一言だけだった。


 でも、ストーンは満足そうだった。


 その日の飯は、少しだけいいやつになった。



 夜。


 厩舎の中は、いつもより少しだけ賑やかだった。


 ――いや、かなり賑やかだった。


「んでな!あたしがな!!」


 案の定である。


 ストーンがど真ん中で、完全に語り部になっていた。


「最初のな、二歩でな!もう前に出ててな!そしたら後ろのやつらがな!」


「うんうん……」


 俺は通路に椅子を置いて座りながら、相槌を打つ。


 もう何度目かわからない「そこから!」「それで!」「あのガキがな!」を聞いている気がするが、こいつ本人が楽しそうだからいいか、という気分になっていた。


 周りには、他の馬たちと、当歳たち。


 完全に報告会だ。

 繁殖牝馬たちはストーンを生まれた頃から知っていることもあり、温かい目で見ている。


「ストーンの姉ちゃんかっこいい!!」


 クラウンが目を輝かせて叫ぶ。


「だろう!」


 ストーンが胸を張る。


「んでな!最後の坂でな!」


「じゅーしー!」

「おすしー!」

「たーこいずー!」

「おいしいー!」


 当歳たちも楽しそうに叫ぶ。


 ストーンはそんなちびどもも気にせず、さらに身を乗り出した。


「坊主!これで、坊主の言うこと聞くやつ増えたよな!?」


 俺は一瞬だけ言葉に詰まる。


「…………ああ、そうだな」


 ゆっくり頷く。


 ストーンは満足そうに笑った。


 クラウンがぱちぱちと瞬きをする。


「姉ちゃん! それどういうこと!?」


 ストーンは、いかにも「しょうがないねえ」と言わんばかりに偉そうな顔をした。


「いいかい、ガキんちょ」


「俺はガキんちょじゃない。ミスタークラウンだ」


「うるさい、ガキんちょで十分だ」


 クラウンが少しむっとする。でも、聞きたい気持ちの方が勝ってるのか、言い返さない。


 ストーンは鼻を鳴らした。


「あたしらがな! 勝てば勝つほど、坊主の言うこと聞く人間も増えるってことさ!」


「すごーい」

「おいしいごはん?」

「りんごー」

「ぼく、りんごきらーい」


「そうさ!」


 当歳たちの言葉にストーンは勢いよく頷く。


「好き嫌い言ったり、ケガとか病気とかの話ちゃんと聞いてもらえるんだ!」


「すごーい」

「ぼくりんごきらいなのー」

「ぼく、しゅくめりる食べたーい」


「さすがにそれは無理」


 即答した。


 シュクメルリて。


 どこで覚えた。


 厩舎の中に、笑いが広がる。


 なんでもない夜。


 でも、少しだけ特別な夜。


 外は寒いはずなのに、この場所だけ妙にあったかい。


 ストーンはまた話し始める。


 同じ話を何回もしているのに、誰も止めない。


 むしろ、聞きたいんだろう。


 その中に、自分たちの未来が少しだけ混ざっているから。


 俺はその様子をぼんやり見ながら、母屋から布団を持ってきた。


 自分でも何をやっているんだと思うが、今日はなんだか、母屋に戻る気になれなかったのだ。


 古い布団を一組持ってきて、通路の端の、馬房から馬房まで全部見渡せる場所に敷く。


「坊主、何してんだい」


 ストーンが不思議そうに言う。


「今日はここで寝る」


「風邪ひくよ」


「お前がそれ言うのか」


「重賞馬様は優しいんだよ」


「へえ」


「その態度ムカつくな」


 クラウンが嬉しそうに顔を出す。


「朔、一緒に寝るのか?」


「一緒にっていうか、俺が勝手に通路で寝るだけだ」


「楽しそう!」


「そうか?」


「うん!」


 当歳どももわらわらと反応する。


「朔ここでねるのー?」

「なんでー?」

「さみしいのー?」

「こわいのー?」

「どっちも違う」


 どっちも違う……と思う。たぶん。


 布団に潜り込むと、床から冷気はくる。でも、上からは干し草の匂いと馬たちの吐息が落ちてくる。時々、藁のかさっと鳴る音がして、誰かが鼻を鳴らす。


 妙に落ち着く。


「坊主ー」


「んー?」


「……ありがとな」


 小さな声だった。


 聞こえないふりをしようか迷ったけど、やめた。


「こっちこそ」


 それだけ返す。


 それで十分だった。


 気づけば、目が閉じかけていた。


 疲れが一気に来る。


 まだストーンの声がしている。


 クラウンが笑っている。


 当歳が意味のわからないことを言っている。


 それを聞きながら、意識がゆっくり沈んでいく。


 たぶん今の俺は、大学生の頃の俺が想像してた社会人とも、牧場主とも全然違う。


 就職先は消えたし、予定してた人生はどっかへ行った。


 なのに、妙に、今の方がちゃんと生きてる感じがする。


 そんなことを思いながら、そのまま眠りに落ちた。



 少しだけ開いた扉の隙間から、厩舎の中を覗く。


 いい加減に寝ろと様子を見に来たのだが。


 孫が、何か楽しそうに馬たちと話している、ように見える。


 何を話しているのかは、わからない。


 でも、馬たちがやけに楽しそうにしていることと、真ん中で孫が一緒になって笑っていることだけは、よくわかった。


「……」


 少しは、牧場主らしくなったな。


 そんなこと言うつもりはないが。


「…………牧場を潰さずにやってきた甲斐はあったみたいだぞ、婆さん」


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