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第十五話 ただいまって言うために

 ゲートの中ってのは、やっぱり好きになれない。


 狭い。暗い。前にしか行けない。後ろにも戻れない。


 人間どもは「ここで落ち着け」みたいな顔をしてるけど、落ち着けるわけがないだろうが。

 こっちは、次の一歩で運命が変わるかもしれねぇ場所に、尻を押し込まれてんだ。


 十二月の中山、芝千六。


 ターコイズステークス。牝馬限定、GⅢ。


 強い馬が集まるってことは、だいたい面倒くさいが集まるってことだ。


「うわ、初めて会うね、おばちゃん」


 右隣から、キンと高い声が飛んできた。


 いかにも“可愛いでしょ、アタシ”って感じの目をしてやがる。若い。


 更に外枠のクソガキも、可愛げのない声で続ける。


「引退だって?勝ち譲ってあげよっかー?」


 反対側からも細くて嫌味な声が飛ぶ。


「ねえ、ふらついてぶつかってこないでね。迷惑だから」


「おばちゃん、無理しないでさぁ、最後は綺麗に回ってくるだけにしときなよ」


 ゲートのあちこちで、くすくすと笑い声が広がる。


 舐めてくれるねぇ。


 実に若い。


 まあ、それはいい。


 競馬場ってのはそういう場所だ。優しいだけで走れるなら、誰も苦労しない。


 ただ――。


 ぽん、と首筋を叩く手。


「OK、OK。ケンカはあとでね」


 クロエだ。


 あたしの上に乗ってる、今日の人間。


 でも、軽いだけじゃない。あたしにはわかる。

 こいつの中には、ぴんと張った一本の芯がある。表に出さないだけだ。


 任せなさい。


 さっきこいつはそう言った。


 あれがただのハッタリじゃねぇことくらい、今の手でわかる。


 問題は、あたしがついていけるかどうかだ。


 やってやる、が半分。

 怖ぇ、が半分。


 ファンファーレが鳴っている。


 初めて聞く長さの曲だが、正直うるさい。


 空気が変わる。


 周りの馬も、ついさっきまで口を回していたくせに、今はみんな前を向いている。

 馬鹿にしてようが、笑ってようが、こうなれば意識を切り替える。

 それが出来ねぇやつは重賞にはいない。


 勝てるかどうかは、正直わからない。


 重賞で勝つコツなんてあるわけなかった。


 あたしは軽く前脚を踏み直す。


 クロエの手が、ほんの少しだけ手綱をしならせた。


「行こうか」


 ……。


 ガシャンッ!!


 世界が、一気に開いた。


 土でも砂でもない、柔らかな芝の感触が蹄の裏に広がる。


 反射より先に体が出た。


 いや、出たんじゃない。クロエが出した。

 ほんの一拍、手綱の先で、鞍の上で、全身の重心で、あたしの前脚より先に合図を飛ばした。


 行け。


 それは命令じゃなく、宣言だった。


 だったら行くしかないだろうが。


「ちょっ、おばちゃん速っ!?」


 右のガキが素っ頓狂な声を上げる。


「は!?なに、飛ばしすぎじゃない!?」


 構っている暇はない。


 最初の二歩で、あたしは前へ出た。


 前へ、前へ、前へ。


 クロエの重心が完全に前へ向いている。


 迷いがない。


 ああ、そうか。


 本当にやるんだな、コイツ。


「行くよ、ストーン!」


 言われなくてもわかってる。


 最初の二コーナーへ向かうまでにハナを取る?


 違う。そんな可愛いもんじゃない。更に引き離す。あたし一頭だけ、別のレースを始めるみたいに前へ出る。


 後ろと観客席でどよめきが起きているのがわかる。


「は!? なにあれ!」


「バカじゃないの!?」


 逃げる。


 ただ逃げる。


 しかも、ふつうの逃げじゃない。


 大逃げ。


 クロエの手は「抑えろ」と言わない。


 行けと言う。


 それなら行く。


 風が真正面から顔へ叩きつけてくる。


「ちょ、待って待って、あいつ何あれ!」


「ほっとけほっとけ!」


「勝手に行かせとけ!」


「どうせ潰れる!」


 いいさ。


 それでいい。


 あたしを追うか、放っておくかで迷え。迷ってる間に、少しでも脚を使え。少しでも呼吸を乱せ。少しでも気持ちを削れ。


 クロエの声が落ちてくる。


「いいよ、そのまま」


 いいよ、だと。


 ふざけた人間だ。


 あたしがどれだけ脚使ってるかわかってんのか。


 いや、わかった上で乗ってる。たぶんあたしよりわかってる。


 あたしも知ってる。この差は永遠じゃない。


 前半で脚を使えば、あとで借金になる。借金は必ず返ってくる。レースってのはそういうもんだ。


 三コーナーに向かう。


 息が一段深くなる。


 まだ前。まだ一頭。後ろの気配は遠い。


 観客席から大きなざわめきが聞こえる。


 その時、遠く、観客席のざわめきの向こうに、ひとつだけ知ってる声が混じった気がした。


 坊主だ。


 幻聴かもしれねぇ。でも、あたしにはわかる。


 あいつは今、たぶん顔を引きつらせてる。


「え、え、行きすぎじゃね?」とか思いながら、それでも目を逸らせずに叫んでる。


 見とけ。


 ここからだ。


 ほんとうの地獄は、ここから始まる。


 三コーナーから四コーナーへ。


 中山のカーブは気持ち悪い。


 気持ちよく流してりゃ勝手に外へ膨らんでいきそうになる。


 そこを内へ、前へ、まっすぐ力を込める。


 脚が、少しだけ重い。


 来たな、と思う。


 ここからだ。


 ここまで飛ばしてきたツケは、必ず最後に来る。来ないわけがない。そういう作戦なんだから。


 クロエが、初めて少しだけあたしを起こした。


 手綱と腰で「もう一段持たせろ」と伝えてくる。


 できるか、ばか。


 と思ったが、やるしかない。


 直線。


 視界が開ける。


 その瞬間、背後の気配が一斉に濃くなった。


 来やがった。


 そりゃ来る。お前らだって重賞で勝つためにここにいるんだ。当たり前だ。


「捕まえろ!」


「前、止まる!」


「ここからだ!」


「なんだよあのおばちゃん!」


 知らねぇよ。


 抜けるもんなら抜いてみろ。


 中山の短い直線が、今日ばかりはやたら長く見えた。


 肺が焼ける。


 喉の奥が熱い。


 でも、まだ前にいる。


 まだ、あたしが先頭だ。


 残り三百。


 クロエの手が、ついにあたしへ本気で火を入れた。


「まだだ!」


 鞭が一発。


 痛みというより、合図だ。ここから先は誤魔化しの効かない勝負だぞ、っていう、最後の扉を蹴破るための一発。


 あたしは歯を食いしばるみたいに首を前へ出した。


 先頭。まだ先頭。


 でも差は詰まる。詰まる。詰まる。


 後ろから一頭、来る。


 末脚の鋭い音だ。


 さっきゲートで笑ってたやつかもしれない。もう顔なんて見てる余裕はない。


 外からも大きな気配が一つ。


 くそ、元気だな。


 残り二百。


 この先に坂だ。


 中山の坂が、目の前に壁みたいに立ちはだかる。


 くそ、知ってたよ。知ってたけど、実際来るとやっぱり嫌だ。このタイミングで上がるな。空気読め。


 脚が鈍る。明らかに鈍る。後ろの連中の勢いが増す。歓声も一段高くなる。


 捕まる。


 一瞬、そう思った。


 ここまでか、と。


 やっぱり重賞ってのは、オープンまで来たくらいのあたしが、勢いだけでどうにかできる場所じゃない。


「ストーン!」


 クロエの声が少しだけ強くなる。


 背中に合図。


 あたしは応える。


 応え、る。


 ……応えてるつもりだ。


 でも、脚が重い。


 重いどころじゃない。鉛だ。地面に釘で打たれてるみたいだ。肺が裂ける。視界の端が白く揺れる。


 やっぱり無理か。


 そう思った瞬間、後ろから声がした。


「捕まえた!」


「これで終わりだ!」


 終わり?


 誰が?


 あたしが?


 ここで?


 ――ふざけんな。


 あたしは帰るんだ。


 ただいまって言うんだ。


 胸張って。


 負け犬みたいな顔じゃなくて、ちゃんと前向いて。


「……あたしを、誰だと思ってんだ……!」


 喉の奥から、ほとんど悲鳴みたいな声が漏れた。


 その瞬間、背中に鞭が飛んだ。


 一発。


 鋭く、でも深くない。痛みというより、火花みたいな衝撃。


 クロエだ。


 あたしの“もう無理”を、無理やり捲り上げる一発。


「行け!」


 短い。


 でもそれだけで十分だ。


 あたしの身体のどこか、もう終わったはずの場所から、ほんの少しだけ力が湧いた。


 残り百五十。


 脚が、まだ出る。


 どこに残ってたのかわからない力が、最後の最後で蹄の先から湧いた。


 クロエが驚いたように、一瞬だけ呼吸を弾ませるのがわかった。


 お前、そこで驚くなよ。


 でもその次の瞬間、クロエは笑った気がした。


「OK、OK、そう来るか!」


 もう一発、鞭。


 背中越しに、完全に勝ちに来る人間の気配。


 残り百。


 右に誰かが、鼻先ひとつまで迫ってくる。


「もらったぁっ!!」


 やらねぇよ。


 前だけは見えてる。


 ゴール板だけは、はっきり見える。


 そこまで行けば終わる。


 そこまで行けば帰れる。


 爺さんと坊主に美味いもん食わせてやれる。


 残り五十。


 左からも来る。


 視界の両端が埋まる。


 脚色は向こうが上。格も向こうが上。誰が見ても、普通なら終わりだ。


 ああ、これが重賞か。


 でも。


 苦しい顔してるのは、みんな同じだ。


 だったら、最後は意地だ。


「どけぇぇぇぇぇ!!」


 声にならない叫びと一緒に、首を低く伸ばす。脚はもう残ってない。


 意地で肩を前へ出す。意地で鼻先を伸ばす。意地で地面を掻く。


 隣のどっちかが、驚いたように声を上げた。


「まだ来るのかよ!?」


 行くんだよ。


 今日だけは。


 今日だけは行くんだよ!


 三頭横並びみたいな形になる。


 歓声が凄まじい。何言ってるかもう聞こえない。


「うおおおおおおおおっ!!」


 誰が叫んだかわからない。


 人間かもしれないし、あたしかもしれないし、隣の馬かもしれない。


 でも、全部まとめて前へ吹っ飛んだ。


 そして。


 ゴール板が、視界から消えた。


 抜けた。


 通り過ぎた。


 終わった。


 その瞬間、世界から一気に力が抜ける。


 脚はまだ動いてる。止まれない。レースの勢いのまま、しばらく走る。だけどもう、勝負の線は越えた。


 勝ったのか。


 負けたのか。


 正直、わからない。


 あまりにギリギリすぎて、自分でもわからない。


 ただ、クロエの手が、首筋を何度も叩いた。


「うわっ、すごい!すごいよ君!!」


 その声は、本気で弾んでいた。


 ああ。


 そういうことか。


 あたしは、やったんだな。


 息が荒い。胸が苦しい。脚も痛い。もう一歩たりとも走りたくない。


 でも気分は、最悪に近いくらい最高だった。


 ゆっくり歩調を落としながら、あたしは肩で大きく息をした。


 後ろから、さっきのクソガキが追いついてくる。


「……マジかよ、おばちゃん」


 隣はお前だったのか。


 声が掠れてる。そりゃそうだ、お前もギリギリまで来てたもんな。


「勝ち譲ってくれるんじゃなかったのかい」


 あたしが笑って言うと、そいつはげんなりしたように耳を伏せた。


「最悪……」


「驚かせるような作戦で悪かったね」


「ほんとだよ……でも」


 そいつは少しだけ笑った気がした。


「かっこよかった」


 あたしは鼻を鳴らした。


「たりめーだ」


 検量室の方へ引き上げていく途中で、電光掲示板が見えた。


 一着――。


 そこに、自分の番号があった。


 ギリのギリギリ。


 本当に。


 あー、もう二度と勝てる気しない。


 でも一着は一着だ。


 クロエが、嬉しそうに笑っていた。


「だから言ったでしょ。面白い方で行こうって」


 言ってねぇよ、と思ったけど、まあいいか。


 あまり声も出ねぇけど、小さく鳴いて「サイン忘れんなよ」と伝えてやる。


 あの坊主、本気で欲しそうだったぞ。


「わかってるよ、色紙も僕たちは持ってるから」


 ……は?

 本気で伝わってるの?


「なんとなーく、ね」


 ウインクしてくる。


 超一流ってやつはすげぇな。


「おばちゃん、やるじゃん!」

「おばちゃん、脚大丈夫!?」

「おばちゃん、引退前にもっかい走ろうよ!」

「ねえ、おばちゃんに乗ってる人!今度は私に乗らない!?」


 一緒に走った連中が周囲で好き放題言ってくる。


 手のひら返しに思えるが、馬の世界ってのは、実力主義だ。

 誰も気にしちゃいない。


 ――でも。


「おばちゃんって言うんじゃないよ!一つか二つしか変わらないだろ!」


 ワーッとガキどもが笑いながら散っていく。

 ったく、当歳となんも変わらないじゃないか。

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