第十四話 サインください
中山競馬場という場所は、朝からずっと妙な熱を帯びていた。
寒い。十二月だし、普通に寒い。吐く息だって白い。
なのに、人は多いし、声はでかいし、新聞を握る手つきは異様に熱いし、なんなら競馬場そのものが「今日はやるぞ」みたいな顔をしている。
意味がわからない。
「よう、坊主。見に来たんだな」
前見に来た時と同じように、鞍を着けるタイミングで岡部さんに連れて来てもらった俺に対するストーンブレイクの第一声がそれだった。
「まあ、一応。どうだ、調子は?」
ストーンは鼻を鳴らした。
「前哨戦勝ったのも見てただろ? 絶好調さ」
「絶好調か」
「おう」
ストーンは得意げに首を揺らす。
その時、軽い足音と一緒に明るい声が聞こえてきた。
「おまたせー」
すらっとしていて、いかにも“乗れます”って感じの体をした人。
ぶっちゃけ、会うのを超楽しみにしていた。
岡部さんがにこにこしながら言う。
「紹介するね。今日乗ってくれるクロエさん」
「どうもー」
クロエさんは片手を軽く上げて、こっちに笑いかけてきた。
うわ、CMで見た顔だ。
多分、競馬かウマ娘に興味ある人なら誰でも知ってるレベルで有名な外国人の騎手さんだ。
「あの、クロエさん、CM見ました。後でいいのでサインもらえますか?」
いや、仕方ないだろ。だって本物だぞ。
クロエさんは一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。
「いいよー。あとで書くね、馬主ボーイ」
馬主ボーイ。
その呼ばれ方は初めてだな。
「ありがとうございます!!」
神か。
「朔くんもクロエさんのこと知ってたんだね。ちょっと頑張ってお願いしちゃった」
岡部さんが楽しそうに笑う。
ありがたい。
……ちょっとですむんだろうか。
「気合いの乗ってる馬だったしね」
クロエさんが軽く背を撫でるとストーンが鼻を鳴らす。
「ふん。見る目あるじゃん」
コイツ、ほんとにえらそうだな……。
みんなにはブヒンにしか聞こえてないんだろうけど。
クロエさんはそんなストーンを見てから、少しだけ声を落とした。
「で、二人に相談がある」
俺は一瞬、姿勢を正した。
クロエさんは、俺と岡部さんを交互に見た。
「今日、どう乗って欲しい?」
「……はい?」
思わず聞き返した。
どう乗って欲しいって、そんなの騎手が決めるもんじゃないのか。
あ、アレか!?
ゲーム的になぜか直前に作戦選べるアレ。
クロエさんは指を二本立てた。
「ひとつは、ハマれば一着。ハマらなければぼろ負けの乗り方」
「ぼろ負け」
「そう。もうひとつは、この子が僕の言うこと聞いてくれれば、三着か四着は取れる乗り方」
「…………」
急にすげぇこと言われたぞ。
俺は思わず岡部さんを見る。
助けて、の視線である。
岡部さんは、なんでか楽しそうだった。
「サクくんが決めていいよ」
「いやいやいやいや」
「だって馬主だし」
「急に責任が重い!」
俺は喉を鳴らした。
「怪我の危険は?」
これだけは最初に聞かなきゃと思った。
クロエさんはすぐに首を振る。
「ないよー。そういうのでは無い」
そこは即答だった。
頭の中で、色々よぎる。
三着四着でも十分すごい。
G3だぞ。
その中で三着四着なら、むしろ大健闘だ。
引退レースとしても綺麗かもしれない。
でも――。
「……ストーン、どうしたい?」
俺がそう聞くと、ストーンは呆れたようにこちらを見た。
「聞く意味あるのか、半人前坊主?」
「そうだな」
聞く前から、たぶんわかっていた。
「そうだな。クロエさん、決めました」
クロエさんが面白そうに目を細める。
「どっちにする?」
その問いに、俺とストーンの声はぴたりと重なった。
「当然、一着狙いで」
「当然、一着狙いで」
クロエさんが笑顔を見せる。
「いいね、面白いよ、ボーイ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃないよ。僕が面白くなっただけだから」
そのままクロエさんはストーンの首筋をぽんと叩いた。
「じゃあ、君。今日はちゃんと僕の話聞いてよ?」
ストーンが鼻を鳴らす。
「坊主、そこの騎手に伝えろ」
「ん?」
「アンタこそ振り落とされるんじゃないよ、ってな」
「おいおいおい、ストーン」
思わず声が大きくなる。
「この人は、日本で一、二を争うくらい上手い人なんだぞ」
「いいから言え」
「いやいやいや」
「言え」
「圧が強いな!」
でもストーンは一歩も引かない顔で俺を見ている。
こいつ、本気だ。
そしてこういう時、絶対に折れない。
仕方なく俺はクロエの方を向いた。
「ハァ……あの、クロエさん」
「なんだい、一番って断言してくれなかったボーイ?」
「ごめんなさい」
そこ拾うのか。
「えっとですね、ストーンがですね」
「うんうん」
クロエさん、絶対これ面白がってるな。
俺は観念して言った。
「『アンタこそ振り落とされるんじゃないよ』だそうです」
一瞬の静寂。
それから、クロエさんが腹を抱えるみたいに笑った。
「HAHAHAHA!!!」
めちゃくちゃ笑った。
周囲の関係者が何事かって顔でこっちを見たくらい笑った。
「イイね!!すっごい面白いね!!君たち!!」
よかった。
怒ってはいない。
岡部さんがちょっと困ったように頭を掻く。
「あー、クロエさん、あのね」
「いいよ、いいよ」
クロエは笑いながら手を振った。
「うん、馬が言ってるんだね、わかるよ」
俺は反射的に聞き返していた。
「わかるんですか!?」
クロエは首を傾げて、いたずらっぽく片目を細めた。
「なんとなーくね、たぶんみんなそうだよ」
え?
みんな?
「……だから、任せなさい」
その一言だけで、さっきまでの軽さが少し変わった。
ああ、この人本当にすごい騎手なんだな、と思った。
たぶん、馬の言葉が“聞こえる”わけじゃない。
でも、馬の気分とか、勢いとか、覚悟とか、そういうものを感じ取る力がずば抜けてるんだろう。
ストーンが、満足そうに鼻を鳴らした。
「いいな、コイツ」
俺は小さく笑って、頭を下げた。
「よろしく、おねがいします」
「うん。任された」
クロエさんはストーンの首筋をぽんと叩いた。
鞍がつけられ、クロエさんがひらりと跨る。
動作が軽い。何それ、重力ないの?
俺は一人と一頭が本馬場へ消えていくのを、しばらく黙って見送った。
クロエさんがちらっとだけ振り返って、軽く手を上げる。
ストーンは振り返らない。
振り返らないけど、たぶん今、顔はちょっと得意げだ。
「……さて」
俺は小さく息を吐いた。
サイン色紙買ってくればよかった。
でもまあ。
「勝ってから書いてもらった方が、縁起いいよな」




