第十三話 勝つコツなんてあるわけない
トレセンの夜は、妙に静かだ。
いや、正しく言うなら、人間どもが「静かにさせよう」と頑張ってるだけで、馬房の中はわりと騒がしい。
「腹減ったー」
「あのクソ野郎、明日こそ振り落としてやる」
「ねーねー、今日めっちゃ鞭入れられたんだけど、ケツ腫れてない?」
「腫れててもケツがでかすぎてわからねーよ」
で、そんな中。
「あー、寝れねぇ」
あたし――ストーンブレイクは、馬房の中でぐるっと半歩だけ回って、また止まった。
寝藁はちゃんとある。腹も減ってない。脚だって今のところ問題ない。
でも寝れねぇ。
向かいの馬房から、にやにやした声が飛んできた。
「おいおい、どーしたよ、ストーン。引退レースだからって緊張する柄か?」
さらに隣からも笑い混じりの声。
「にあわねーな、ストーン」
「うっせ!」
似合わねーのはわかってるが、あたしは耳を伏せて一喝した。
「うっせ!」
あたしは耳だけそっちに向けて吐き捨てる。
「なんだよ、珍しくそわそわしてんな」
「減量失敗したか?」
「それだといつも通りじゃね?」
「殺すぞ」
あたしが低く唸ると、向こうでブヒヒと笑い声がした。
「……なあ」
「んー?」
「……重賞で勝つコツ知ってるやついるか?」
一瞬、馬房の並びが静かになった。
それから、隣も向かいも奥も、あちこちから吹き出すような声が上がった。
「んなもんあるかよ!」
「あったら、俺達も苦労してねーよ!」
「“重賞で勝つコツ教えてください”って、競馬学校のポスターに書いとけよ」
「そしたら人間が先に覚えるわ」
「だよなぁ……」
わかってたよ。わかってたけど聞いてみただけだよ。
くそ、恥ずかしい。
あたしが前脚で床をコツンと鳴らした、その時だった。
「……あるぞ」
低くて、妙に落ち着いた声が、暗がりの奥から転がってきた。
空気が変わる。
さっきまでゲラゲラ笑ってた連中が、ぴたりと黙った。
「……あ、あんたは!」
「か、カスタードのアニキ!」
「あ、あんたほどの馬が言うなら……」
馬房の奥、一番広い区画で、宵闇を纏ったような黒鹿毛の馬がゆっくり首を上げた。
カスタード。
今年だけでGⅠを二つも勝って、トレセン中の人間どもが「カスタードは別格」だの「さすがゴールドファームの最高傑作」だの勝手に盛り上がってる、あの馬だ。
カスタードは、ゆっくりとあたしの方を見た。
「……ある。が、そもそもストーンのババア。テメエはどうしてそこまで勝ちてぇんだ?」
「誰がババアだ、ぶっ飛ばすぞ」
反射で言い返したものの、カスタードはまるで動じない。
GⅠ馬ってのはみんなこうなのか?いや、たぶんこいつが変なだけだな。
「答えろ」
くそ、こいつこういうとこ腹立つな。
でも、聞かれたからには答えるしかない。
あたしは鼻を鳴らして、少しだけ首をそらした。
「……そうだね。オマエらが信じるかどうかは別にして」
周りの連中が面白そうだと身を乗り出す気配がした。
「今のうちの牧場を継いだ坊主は、あたしたちの言葉が聞こえるんだ」
一拍。
それから予想通り、あちこちから笑い声が漏れた。
「んなわけねーだろ」
「人間に馬語がわかるかよ」
「それが本当なら、俺と騎手のケンカもっと減ってるわ」
「ストーン、ダイエットでおかしくなった?」
「うるせぇ!だから信じるかどうかは別にしてっつっただろ!」
蹴る真似をすると、向こうで笑いが散る。
でも、カスタードだけは黙っていた。
じっと、こっちを見ている。
あたしは続きを吐き出すしかなかった。
「だから、あたしは決めたんだ」
あたしがそう言うと、周囲のざわつきが少しだけ弱まった。
「あいつが、あたしたちの言葉を通訳してくれた時にバカにされないようにしてやるって」
「…………」
また沈黙。
さっきまで笑ってた連中も、今度はさすがに少しだけ口を閉じた。
まあ、そうだろう。
あたしだって自分で言ってて、ちょっと青くせぇと思う。
でもしょうがねぇ。
それが本音だ。
「……それだけか?」
カスタードが問う。
「あ?」
「坊主のため、だけかって聞いてる」
こいつ、面倒くせぇな。
でも、ここで見栄張っても仕方ねぇか。
あたしは鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「あと、ほら、その、な?」
言葉にすると急にダサくなるな、これ。
でももう引っ込みはつかない。
「あたしの牧場、ちっちぇし、ボロっちいから稼がないと潰れちまうんだよ!ただいまっていう場所なくなったら寂しいだろうが!!」
勢いで言い切ると、馬房の並びに何とも言えない沈黙が落ちた。
向かいの馬が小さく鼻を鳴らす。
「……まあ、それはなぁ」
「帰る場所なくなるのは、ちょっとやだな」
「俺も最初の牧場なくなった時は、なんか変な気分だったわ」
「飯の匂いとか、寝藁の感触とか、覚えてるもんな」
なんだよ。
お前らもそういうのあるんじゃねぇか。
カスタードは少しだけ目を細めた。
「……悪くない。なら教えてやろう」
「ほんとか!?」
あたしが思わず前のめりになると、周りも一気にざわついた。
「うおおお!アニキの勝ち方講座だ!」
「メモ!メモねぇけどメモ!」
「俺、今から賢くなる準備できてる!」
カスタードはそういう周りを完全に無視して、ゆっくりと言った。
「勝つためには、レースに強くなることだ」
「……は?」
馬房の並び全体が、同じ顔をした気配がした。
いや、たしかにそうだろうけど。
そうだけど、そういう話じゃなくない?
「速い馬、強い馬、運のいい馬。なんでもいい。誰よりもスピードがあるでもいい、底知れないスタミナで他馬をすり潰してもいい、とてつもない頭の良さでレースを支配してもいい」
カスタードは平然と続ける。
その声音は、冗談を言ってる感じじゃない。
「そ、そんなの!」
あたしが思わず言い返すと、カスタードはあっさり頷いた。
「ああ、当たり前だ。そして、そのために俺たちは今まで進化してきてる」
夜の厩舎が、妙に静かになる。
周りの馬たちも笑わない。
GIを二つ勝ってるやつが言うと、冗談にならない。
くそ、腹立つくらい説得力あるな。
「……だったら」
あたしは低く唸るように言った。
「だったら、どうしようもねぇってことじゃねぇか」
「そうだな」
カスタードはあっさり頷いた。
そこに情けも慰めもない。
「でも、ありがたいことに子ども達に繋げる世界にはなってる。そうだろう?」
「……」
子ども達に繋げる。
その言葉が、藁みたいに軽く胸に引っかかった。
あたしは今まで、自分が走ることしか考えてこなかった。
いや、今だってそうだ。
でも同時に、牧場じゃ当歳どもがぎゃあぎゃあ騒いでるし、来年にはまた別のガキが生まれて、爺さんが「お前ら静かにしろ!」って叫ぶんだろう。
そういうのを、少しだけ想像した。
カスタードはそこで、ふっと鼻で笑った。
「ババァは精々、晩飯代のためにがんばるんだな」
「なんだとコラ」
さっきまで少ししんみりしかけた空気が一瞬で台無しだ。
周りからも笑いが漏れる。
「アニキ、容赦ねぇな」
「でも飯代って大事だよな」
「俺たちの飯代は人間の財布から出てる」
「リアルすぎて嫌だわ」
あたしはむくれて耳を伏せた。
重賞で勝つコツなんて、やっぱりそんな便利なもんじゃねぇ。 重賞で勝つコツなんて、やっぱりそんな便利なもんじゃねぇ。
「じゃあ、アンタはなんで走ってんだよ」
つい聞いてしまった。
カスタードみたいな奴には、さぞかし立派な理由があるんだろう。
ゴールドファームの誇りだとか、日本競馬の未来だとか、血統の頂だとか。
カスタードは少し顎を上げた。
「……俺か?まあ、ゴールドファームのじじいどもへの恩もあるし、勝つのが楽しいというのもあるな」
「泣ける!」
「惚れる!」
「GI馬の言葉は重みが違う!」
周囲が一気に盛り上がった。
やっぱりこいつはこういうとこがあるんだな。
品格ってやつか。
でもカスタードは、その次の瞬間、全部ぶち壊した。
「そして何よりも種牡馬入りするためだな!」
……は?
全員が固まった。
さっきまでの渋い空気が、見事に死んだ。
カスタードは続ける。
「いい成績残したら、良い牝馬選びたい放題らしいからな!芦毛の可愛い子とたくさんヤリまくるぜ!!」
「…………え?」
「…………」
「……うわぁ」
隣の若い牡馬が、心底引いた声で呟いた。
「アンタ、さっきまで渋かったのに台無しだよ」
「何がだ。俺は最初から一貫してるぞ」
「一貫して最低だよ!」
「今までの雰囲気返せ」
「感動を返せ」
「台無しじゃねぇか」
さっきまで尊敬の眼差しだった連中が、一斉に引いた声を出す。
なんなんだこいつ。
GⅠ馬ってもっとこう、気高い生き物じゃないのか。
「アニキ、それ口に出さない方がモテるぜ」
「モテる必要があるのか?種牡馬入りすれば向こうから来る」
「うわ最悪だ」
でも、周囲がどん引きしてる中で、あたしは少しだけ笑いそうになった。
子ども達に繋げる、だの進化だの、そういうカッコつけた話のあとでこれだ。
でも変に格好つけ続けるより、こっちの方が馬らしいっちゃ馬らしいのかもしれない。
飯と牝馬と走ること。
だいたいあたしたちは、そのへんで回ってる。
ガラガラッ!
通路の向こうで扉が開く音がした。
次の瞬間、厩務員の怒声が飛んでくる。
「こら!お前たち!いつまで騒いでるんだ!!」
「やべ!ジジイが来た!」
「寝たフリしろ! 寝たフリ!」
「俺もう寝てる!」
「お前今まで普通に喋ってただろ!」
「静かにしろバレる!」
馬房のあちこちで一斉に藁ががさがさ鳴る。
さっきまで喋ってた連中が、みんな揃って“何も知りませんけど?”みたいな顔をして寝藁の上で動きを止めた。
お前らそういうとこだけ連携いいな。
横目で見ると、カスタードまでちゃっかり半眼で寝ている風を装っていた。
おい、お前GⅠ馬だろ。そこは堂々としてろよ。
厩務員が通路を歩いてくる。
「……ったく。明日もあるんだぞ。静かにしろよ」
ぶつぶつ言いながら一頭ずつ見回していく。
誰も動かない。
誰も鳴かない。
さっきまであんなにうるさかったのが嘘みたいだ。
やがて足音が遠ざかり、また静けさが戻る。
しばらくしてから、隣の馬が小さな声で呟いた。
「……行った?」
「たぶん」
「セーフ?」
「セーフだろ」
「お前ら、ほんと学習しねぇな」
小声の笑いが、藁の上で転がる。
あたしはもう一度、ゆっくりと頭を上げた。
天井は相変わらず暗い。
向かいの馬房から、小さな声がした。
「ストーン」
「ん?」
「次のレース、がんばれよ」
「うるせぇ。言われなくてもがんばるよ」
「おう」
別のやつもぼそっと言う。
「晩飯代くらいは稼いでこいよ」
あたしは思わず笑った。
くそ、眠れねぇと思ってたのに、少しだけ気が楽になったじゃねぇか。
遠くの馬房で、カスタードが低い声で言う。
「ストーンのババァ」
「だからその呼び方やめな!」
「勝てとは言わん。だが、帰る場所に胸張って“ただいま”と言える走りはしてこい」
あたしは一瞬、言葉に詰まった。
くそ。
最後だけちゃんとカッコいいこと言いやがる。
「……たりめーだ」
小さく返して、あたしは目を閉じた。
重賞で勝つコツなんて、結局わからなかった。
でもまあ。
あたしにできることは一つだ。
走ること。
あたしなりに、あたしの限界まで。
寿司かステーキか知らないけど、とにかく爺さんと坊主に美味いもん食わせてやる。
それで、胸張って帰る。
ただいまって言う。
……うん。
それでいいのかもしれない。
いや、たぶん、それがいい。




