第十二話 重賞はじゅーしー
トレセンから帰ってきて、二週間くらい経った。
牧場という場所は、忙しい。
これはもう、誇張でもなんでもなく忙しい。
朝は早いし、昼も普通に仕事だし、夕方になっても区切りがきれいに来るわけでもない。
馬は時計を見て生きていない。
腹が減れば鳴くし、痒ければ柵に尻を擦りつけるし、眠ければ寝るし、気に食わなければ蹴るし噛む。
つまり、常に誰かしらが何かしらを主張している。
「朔ー! あいつが僕のお水飲んだー!」
「うそー! 飲んでなーい! 匂い嗅いだだけー!」
「匂い嗅いだだけでも近いんだよ!」
「朔ー! こいつらうるさーい!」
「朔ー! なんかお腹すいたー!」
「さっき食っただろ!」
放牧地の真ん中で叫んだ俺の声に、当歳たちがきょとんとした顔を向けてくる。
お前らはその顔をすれば許されると思ってるだろ。
実際ちょっと許されるけど。
「……はぁ」
ため息をつきながら、柵にもたれる。
空は高い。風は少し冷たい。北海道の秋だ。
端で一頭だけ、妙に偉そうに立っている奴がいた。
ミスタークラウンである。
「ふっ」
何が「ふっ」なんだ。
日に照らされながら鼻を鳴らし、妙に角度のついた視線でこちらを見てくる。
「朔、今の俺、どうよ」
「クラウン。なんでそんなカッコつけた立ち方してんの?」
「王者だからだ」
「まだ走ってもいないだろ」
「心がな」
「便利だな、その理屈」
残した一頭だけあって、こいつには俺もちょっとだけ思うところがある。
生意気で、口が達者で、無駄に自信があって、でも意外と寂しがり屋だ。
人間だったら面倒くさいタイプだが、馬だからまあいいかで済む。
そんなことを考えていると、母屋の方から固定電話のベルが鳴った。
ジリリリリとやけに場違いな音。
爺さんが厩舎の奥で藁を動かしているのが見えたが、出る気配はない。
つまり俺が行けってことだな。
「ちょっと電話出てくる」
「りんごの注文?」
「たぶん違う」
干し草を置いて母屋に戻り、受話器を取る。
「はい、桜井牧場です」
『あ、朔くん? 岡部です』
「あ、岡部さん。どうも」
柔らかい声。
この人の声を聞くと、こっちまで少しだけ安心する。
『急にごめんね』
「はい、たぶん大丈夫です」
たぶん、って言ったのは、今も放牧地の方から「朔ー! なんか飛んでるー!」とか聞こえてきてるからだ。
『ストーンの件なんだけどね、レース、決まったよ』
「あ、はい」
『うん。十二月のターコイズステークス。中山、芝千六』
「あー……G3ですね」
それくらいは勉強した。
『うん。牝馬限定だし、今のストーンには一番無理がないかなって』
なるほど。
牝馬限定。距離も千六。
『十月に一回走って、内容が悪くなければ、そのままターコイズに行って、そこで引退。そういう形でどうかなって』
「なるほど……」
現実的だ。
すごく現実的だ。
ゲームだったら「とりあえず取れるG1全部取る!」みたいなノリで決めていた気がするが、現実はちゃんと一段挟むらしい。
『ストーン、頑張ってるからね』
「……そうですか」
『うん。だから、最終的には朔くんとお爺さんの判断だけど、僕としてはそう考えてるって話』
「わかりました。じゃあ、その方向でお願いします」
『ありがとう。詳しい日程とかはまた連絡するね』
「はい、お願いします」
『じゃあ、また』
電話が切れた。
受話器を戻しながら、俺は少しだけ息を吐く。
「ターコイズSか……」
G3。
中山。
なんかちゃんとした響きだな。
いや、ちゃんとしてない重賞なんてたぶんないんだけど。
◇
「というわけで」
俺は馬房の前に立った。
「岡部さんから電話があった」
「おお」
「おー」
「でんわー」
「おかべー?」
「おかべってたべものー?」
最後のやつは本当に腹減ってるのか?さっき朝飯やっただろ?
「ストーンの次の予定がだいたい決まった」
「すとーん?」
「すとーんってなーにー?」
「おいしいのー?」
「石?」
「かたいやつ?」
当歳馬たちはストーンのことあまり知らないもんなー。
「石ではあるけど石ではない」
「どっちー?」
「わかんなーい」
「朔がむずかしいこと言ってるー」
うるさいな。
そしてストーンブレイクの兄弟でもないのに、なぜかクラウンが胸を張った。
「ストーンの姉ちゃんなら絶対勝つよな!!」
「どうかなー」
俺が曖昧に返すと、クラウンは不満そうにこっちを見る。
「そこは勝つって言えよ!」
「いや、重賞だからな、すごいレースだし」
「夢がねえな!」
すると、当歳たちが一斉に首を傾げた。
かわいいな、おい
「すとーんってだーれ?」
「じゅーしょーってなーに?」
「きっとおいしいやつ!」
「じゅーしー!」
「すてーき!」
「朔!じゅーしょーちょうだい!!」
お前ら草食だから、ステーキ関係ないだろ。
「お前ら、どこでその語彙手に入れてるの?」
思わず漏れた俺のツッコミに、隣の繁殖牝馬が涼しい顔で答える。
「この前、テレビでグルメ特集やってたでしょ」
「見てたの?」
「見てた」
「馬が?」
「馬も見るよ、暇だし」
そんな文化的な暮らししてたのか、お前ら。
別の牝馬も口を挟む。
「あと、たまに爺さんが昼のワイドショーつけっぱなしで出てくから、そこで変な単語覚える」
「教育環境終わってんな」
「うちの教育環境に期待するほうがどうかしてる」
それはそうかもしれない。
当歳たちは勝手に盛り上がっている。
一頭なんか「じゅーしょー! じゅーしょー!」と言いながら、隣のやつの耳を甘噛みしていた。
こいつら、何しても楽しそうだな。
繁殖牝馬の一頭が、隣の馬房からのんびり声をかけてくる。
「坊主ー、当歳に説明しても無駄だよ。あいつら今、“言葉の音が面白いターン”だから」
「そんなターンあるんだ」
「あるある。“ターコイズ”とか言っとけば、しばらくそれで遊んでるよ」
「たーこいず!」
「たーこいず!」
「たこー!」
「いずー!」
ほんとに遊び始めた。
「すげぇな、当たってる」
「母親なめんなよ」
深いのか浅いのかわからない返答だった。
◇
夜。
爺さんと飯を食っている時だった。
「で、見に行くのか」
爺さんが味噌汁をすすりながら言った。
「12月?」
「ああ」
「どうだろうなあ」
行きたい気持ちはある。
でも、牧場を空ける段取りもあるし、交通費だって安くない。
「お前が見たいかどうかだ」
爺さんは、それだけ言って焼き魚をほぐし始めた。
「そりゃ見たいけど……」
「なら見とけ。自分の牧場の看板娘だ」
看板娘。
たしかにそうかもしれない。
娘って感じしないけど。
「でもまあ」
爺さんが湯呑みを置く。
「勝ったら寿司だな」
「いや、ステーキにしよう」
「珍しいな」
爺さんがこちらを見る。
いや、“ステーキ”を聞きすぎて、なんかそんな気分に。
「たまにはさ」
「まあ、いいだろう」
たぶん、この牧場では馬が勝ってくれたら美味しいもの食べる。
負けてもたぶん何か食う。
そのくらいでいいのかもしれない。




