第十一話 ウイポだと最終的にG1だけ走るよね
一か月というのは、短いようで、意外と長い。
トレセンに行くと決めてから、俺は何をしていたかというと――まあ、普通に牧場で働いていた。
ミスタークラウンは相変わらず調子に乗っていたし、当歳馬たちは母親がいない生活に慣れてきた。
「わー、ちょうちょー」
「朔ー、ごはーん!」
「わーん!朔ー、あいつが僕のお水横取りしたー」
「おかあさーん、おかあさーん」
慣れてないやつもいたわ。
で、その一か月の間に、色々調整した。
牧場を数日空ける段取り。
岡部さんとの日程合わせ。
あと、馬たちへの説明。
「坊主ー、爺さんにガキんちょたちの水増やすように言っておいてー」
「坊主ー、最近爺さんの腰が痛そうだから、今のうちに寝藁多めに下ろしておいてー」
「朔ー、お土産にりんごかってきてー」
「ぼく人参がいーい!!」
そんなわけで、ちょっとだけ後ろ髪を引かれつつ、俺は静内を出てトレセンへ。
正式には、トレーニングセンター。
競走馬がレース前に調整したり、普段から鍛えられたりする、要するに競馬界のガチな現場だ。
ゲームではボタン一つで済むやつを、現実では人間が飛行機と電車とタクシーを乗り継いで見に行く。
……ウイポやダビスタで無駄に行ったり来たりしてたのやべぇな、アレ。
途中で岡部さんから『迷ったら電話してね』と連絡が来た。
正直ありがたい。
現実のやつ、広すぎるし、関係者しか入れないし、何より――
「……なんか、空気からして競馬エリートの匂いがする」
美浦トレセンの門を前に、俺は小さく呟いた。
別に匂いなんてしないけど。
気分の問題だ。
門の前で名前を言うと、ちゃんと話が通っていて入れてもらえた。
すげぇ。
俺、今、関係者っぽい。
いや、関係者ではあるんだけど。
「でっか……」
最初に出た感想がそれだった。
敷地が広い。道が広い。建物が多い。人も馬もいっぱいいる。
なんなら空気まで「ここで本気の競走馬が作られてます」みたいな顔をしている。
北海道の広さとは違う。
こっちはなんというか、人間が金と技術と根性で無理やり広くしてる場所って感じだ。
そんなことを考えていたら、少し向こうから見知った顔が手を振ってきた。
「やあ、朔くん。よく来てくれたね」
岡部さんだった。
「岡部さん、ありがとうございます」
「うんうん。遠かったでしょ。移動で疲れたんじゃない?」
「いや、まあ……ちょっと」
「だよねえ」
そう言いながら、岡部さんは歩き出す。
「とりあえず案内しながら話そうか。実はストーンのことで相談があってね」
「はい」
俺は少しだけ背筋を伸ばした。
いや、別にストーン本人がヤバいことになってるとか、そういう感じではなかったけど。
「最近調子がいいからね。重賞レースに一回挑戦して、引退させようかと思ってるんだ」
「なるほど」
あっさり言われたが、重賞。
つまり、G3とかG2とかG1とか、あの辺のやつだ。
今の桜井牧場にとっては、だいぶ高いところにある山。
「なるほど、それでどうして俺をトレセンに?」
「うん、きみが馬主だろう?つまり決定権があるんだよ」
爺さんと俺の話を知っている共犯者の顔で、岡部さんがニヤリとする。
「あー……」
そうなるのかー。
そっかー。
「まあ、経験にもなるかなって思ってね。よかったら時々見学においで」
「はい、ありがとうございます」
俺は素直に頭を下げた。
そう言うしかない。
「とりあえず、ストーンにも会いに行こうか。今日は機嫌も悪くないはずだし」
「悪い日もあるんですか」
「あるよ。特に減量中」
わかりやすいな、あいつ。
◇
ストーンのところに向かう途中、いろんな馬の声が飛び交ってくる。
「お、新入りの人間だ」
「騎手っぽくはないガキだなー」
「今日坂路かよ、だる」
「北海道の匂いするー」
「ニンジン持ってないなら用ねぇわ」
「飯くれ!俺!今日!まだ!もらってない!」
うるさい。
ほんと、どこに行っても馬は馬だな。
牧場でも競馬場でもトレセンでも、言ってることの三割は飯の話な気がする。
「朔くん、どうしたの?」
「いや、思ったよりみんな元気だなって……」
「ははは。そうだねえ。元気じゃないと困るからね」
そういう意味じゃないんだけど、まあいいか。
厩舎の一角で足を止める。
ストーンブレイクは、馬房の中で堂々と立っていた。
相変わらず態度がデカい。
岡部さんは「少し見て回ってくるから」と空気を読んで離れてくれた。
良い人すぎる。
「よう、ストーン」
俺が声をかけると、ストーンは首だけこちらへ向けた。
「坊主、こんなとこまで来るなんて暇なんだな」
「暇じゃない。遠かったぞ」
「そりゃよかったな」
全然よくない。
でも、元気そうで何よりである。
俺は馬房の柵に腕を乗せて、ストーンを見る。
「次のレース、重賞にして引退するって話あるらしいぞ」
「ふーん」
「ふーんて」
もっとこう、驚くとか、喜ぶとか、嫌がるとか、ないのか。
ストーンは鼻を鳴らした。
「重賞ねえ」
「どうしたい?」
「そうさなー」
ストーンは少し考えるように耳を動かした。
「ぶっちゃけ、重賞はきつくね?」
「やっぱり?」
「そりゃそうだろ。重賞ってのは“重賞でも走れそうな顔してる変態ども”が集まる場所だぞ」
「変態なのか」
「だいたいやばい」
「すげえな」
「目がギラついてる。あと、関係者がやたら気合い入ってる」
それは馬じゃなくて人間側の情報では?
まあ、ストーンなりの判断基準なんだろう。
「じゃあ、やめとく?」
「まーあ」
ストーンはわざとらしく間を置いた。
「どうしてもって言うなら?一回限りなら?やれなくもないかも?」
「なんだよ」
「何が」
「その、やれなくもないかも、って」
「だって、どう考えても楽じゃないし」
ストーンは少しだけ声を落とした。
「今までだってさ、あたしなりに頑張ってきたんだよ。オープンまで行けただけでも、うちみたいな牧場じゃ大したもんだろ?」
「それはそう」
割とマジで。
「でも、重賞勝てば、朔の言うこと聞くやつ増えるだろ?」
ドキリとした。
「ストーン、お前それ本気で言ってたんだな」
「たりめーだ、くそ坊主」
ストーンが、少しだけ目を細めた気がした。
「坊主」
「ん?」
「今のあたしが重賞で勝てるかって言われたら、正直、微妙だ」
「うん」
「でも、やれる限りやってやる」
こいつ良いやつなんだな、馬だけど。
「ストーン」
「ん?」
「期待しとく」
ストーンが何故か急にザザッと馬房内で下がった。
危ない動きすんな。
「な、何言ってんだよ、坊主!」
なんだよ。
馬房の向こうから、別の馬の声が飛んでくる。
「お、ストーン大事な話してんのか?」
「重賞行くかどうか?」
「お、引退レースか?」
「お前じゃ無理だってー」
完全に聞こえている。
というかトレセン、牧場より距離が近いせいで、馬の野次がダイレクトに飛んでくる。
「……ここ、うるさいな」
「ここは競走馬の巣だぞ。静かなわけないだろ」
「それもそうか」
ストーンは、ふっと息を吐いた。
「まあ、わかった。坊主が期待してるっつったんだったら、あたしはやってやる」
「うん、まあ、見に行けないかもしれないけど」
「そこは来いよ!」
いや、そんなどこでも行くなんて約束できないし。
◇
岡部さんのところへ戻ると、俺はとりあえず結論を伝えた。
「ストーン、一回だけならやるって言ってます」
「ははは、そう言ったのかい」
岡部さんは楽しそうに笑った。
「せっかくだから、レースの候補も少し話そうか。G1とかじゃないから安心して」
「たぶん、それは無理です」
「重賞にも色々あるからね。距離や相手関係も含めて一番無理のないところを考えたい」
そこからしばらく、競馬の話になった。
斤量がどうとか、牝馬限定がどうとか。
正直割とゲーム知識で応対出来てびっくりした。
「もちろん、無理だと思えばやめるよ」
岡部さんは言った。
「調子が落ちてたら出さないし、脚元に不安があれば即やめる。そういう前提」
「はい」
「ただ、今の状態だけで言えば、一回くらいは挑んでみてもいいかな、と思うんだ」
騎手の感触も悪くないらしい。
調教の動きも、年齢のわりにまだ頑張れているらしい。
つまり、現実的には“やってみる価値はある”くらいのラインらしい。
……8番人気くらいか?
「まあ、でも」
「うん?」
「ストーンは『やってやる』って言ったんで、期待していいと思いますよ」
「ははは、そうかいそうかい。朔くんは良い馬主になりそうだね」
何が気に入ってもらえたのかわからないが、プロにそう言われて悪い気はしなかった。




