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【6/5完結】就職先が倒産したので牧場を継いだら、俺だけ馬の声が聞こえるようになりました  作者: 萩原詩荻
最終章 エクリプス

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第百話 ジャパンカップ(裏)

 俺は、立ち上がっていた。


 立ち上がったのは、ほとんど無意識だった。


『サニーボーイだ!!サニーボーイ!!逃げ切った!!エクリプス初黒星!!ジャパンカップを制したのはサニーボーイ!!』


 実況が絶叫する。


『これは大波乱!いや、これを波乱と言っていいのか!!サニーボーイ二冠馬の意地!!ジャパンカップ制覇です!!』


 叫んでいる、というより、もう喉が壊れるんじゃないかという勢いだった。


 何万人もの歓声が、一斉に地面を叩いて、空気を震わせて、音の塊になって、馬主席まで押し寄せてくる。


 東京競馬場のスタンドが揺れているかのようだ。


 サニーが勝った。


 エクリプスが負けた。


 それだけのことかもしれない。


 でも。


 違う。


 今、起きたことは、そういう話じゃない。


 ターフビジョンの中では、サニーが派手に首を振っている。


 絶対今、うるさい。


 そして、その横でエクリプスがいる。


 首を少し上げ、息を荒くして、横にいるサニーを見ている。


 いつものような、勝ったか負けたかをただ確認する顔ではない。


 驚いている。


 怒っている。


 わからない、という顔をしている。


 そして――サニーボーイという馬を、見ていた。


「……はは」


 喉の奥から、変な笑いが漏れた。


 なんだよ。


 お前、今ようやく見たのか。


 ずっと横にいたんだぞ。


 ずっと話しかけてたんだぞ、そいつ。


 牧場で。


 春も、夏も、秋も、冬も。


 うるさくて、しつこくて、何度拒まれても次の日にはまた「なあなあ!」って近づいていた。


 そいつはずっと、お前に話しかけていた。


 お前を独りにしないって。


 サニーは、ずっとそこにいた。


 なのに、お前は見ていなかった。


 強すぎたから。


 速すぎたから。


 全部を置いていけたから。


 お前は、他の馬を見る必要がなかった。


 でも、今日。


 サニーが残った。


 残ってくれた。


 抜かせなかった。


 その顔を、お前は見た。


 その瞬間を、俺は見た。


「……ああ」


 胸の奥が、震えた。


 その時、隣で皐月がぽつりと言った。


「サニーが勝ったのは嬉しいけど、エクリプスの初敗北はちょっと残念だね」


 皐月の声は、素直だった。


 喜びと戸惑いが半分ずつ混ざっている。


 それはそうだ。


 サニーはうちの馬だ。


 嬉しい。


 もちろん嬉しい。


 でも、同時に、エクリプスが負けた。


 今の競馬界で、エクリプスの無敗がどれだけ大きな意味を持っていたか。


 皐月だってわかっている。


 エクリプスは桜井牧場にとっても、とんでもない馬だ。


 あの馬が無敗で勝ち続ける姿は、たぶん新しい伝説そのものだった。


 それが、止まった。


 普通は残念だと思う。


 けれど。


「ふぅん」


 反対側から、聞き慣れた声が割り込んできた。


 金持だ。


 今も昔も変わらず、高そうなスーツを着て、偉そうな顔をして、でも、目だけは楽しそうに光っている。


 白髪は増えたし、顔に刻まれた年輪も深くなった。


 それでも、この男の「競馬が面白くてしょうがない時の顔」は、昔から何一つ変わらない。


「まだ甘いね」


 皐月が、きょとんとした顔でそっちを見る。


「え?」


 金持は、ターフビジョンを見たまま言った。


「今、エクリプスは最強に成った」


 皐月の顔が、明確に「意味がわからない」と言っていた。


「だって負けちゃいましたよ」


「だからだ」


 そこまで金持に言われて、ようやく俺の喉が動いた。


 ちくしょう。


 その台詞は俺が言いたかった。


「おい、俺のセリフ全部とるんじゃないよ」


 声が、少し震えていた。


 金持が、ちらっと俺を見る。


「君がいつかの皐月賞のように呆然としているからだろう」


「……うるさいな」


「いいから、君はさっさと迎えに行き給え」


 その言い方が、あまりにも昔のままで。


 うるさくて、偉そうで、面倒くさくて。


 それでいて、競馬の一番大事なところだけは絶対に外さない。


「……ああ、行ってくる」


 それしか言えなかった。


 足が動く。


 皐月が、少し戸惑ったように俺を見る。


「えっと……」


「君は少し僕の話を聞いてからにし給え」


 金持が、ほんの少しだけ笑って皐月を止めた。


「え?」


 金持は、ターフビジョンを見ながら、少しだけ柔らかい声で言った。


「……どうせ見られたくないだろうしな」


「どういうことです?」


「まずは教えてやろう」


 金持が、妙に得意げな顔をした。


「そうだな、朔くんが最初牧場を継いだ時は、それはそれは情けない顔をしていてだね」


 おい、余計なことまで言うんじゃない。


 そう思ったが、止めには戻らなかった。


 まったく。


 年を取ってから、変なところで気が利くようになりやがって。


 いや、昔からか。



 馬主席を出る。


 関係者通路に入る。


 通路を歩きながら、何人もの人に声をかけられた。


「桜井さん、サニーボーイおめでとうございます!」


「すごいレースでした!」


「エクリプスも強かったです!」


「いやあ、あの二頭が同じ牧場から……」


 関係者の声。

 記者の声。

 スタッフの声。

 どれも興奮している。


 当然だ。


 今日のジャパンカップは、たぶん語り継がれる。


 でも、俺の中では、別の声が聞こえてた。


『朔!最強は俺だろ!!』


 うるさい、ルドルフ。お前の子孫だろ。


『見たか朔!!俺の血だ!!俺の血がエクリプスに教えたぞ!!つまり俺もすごい!!』


 クラウン、その理屈は雑すぎる。が褒めてやろう。


『馬鹿ども、いい加減落ち着きなさい』


 ストーン、その馬鹿二匹は任せた。


 通路を足早に進む。


 競馬は、一頭じゃできない。


 どれだけ強い馬でも、それではただ走っているだけだ。


 相手がいて。


 並ぶやつがいて。


 抜こうとするやつがいて。


 抜かせまいとするやつがいて。


 そこで初めて、レースになる。


 そして、物語になる。


 エクリプスは今日、初めてそれを知ったはずだ。


 ようやく、孤独に走るだけの馬じゃなくなった。


 だから、最強に成った。


 記録じゃない。


 無敗かどうかでもない。


 そんなものじゃない。


 老人なりに急いで検量室の近くへ行くと、すぐに馬たちの声が聞こえてきた。


「サニーすげぇ……」

「逃げ切ったぞ」

「エクリプスに勝った……」

「やっぱ競馬ってわかんねぇな」

「いや、わかんねぇから面白いんだろ」

「俺、ちょっと泣きそう」

「馬が泣くな」

「いいだろ別に」


 ざわざわしている。


 馬も人間も、同じようにざわついている。


 そんな中で、ひときわうるさい声が聞こえた。


「やーい、世代最強のくせに負けてやがる」


 ゴールデンウイスキである。


 何故か、めちゃくちゃエクリプスを煽っていた。


 お前、たしか今日四着くらいじゃなかったか?


 そして、その真正面でエクリプスが、珍しく露骨にむっとした顔をしていた。


「お前だって僕に負けたくせに!!」


 うわ、エクリプスがちゃんと悔しがってる。


 いや、そこじゃない。


「ぁあん!?二着も四着も負けは負けで一緒だろ!」


「自分も負けたくせに煽ってくるのムカつく!!」


「煽れる時に煽る!これが黄金の流儀だ!」


「そんな流儀、滅びればいい!」


「有馬記念では俺が勝って煽ってやる!」


「お前なんかまた置き去りにしてやる!!」


 おお。


 おおお。


 エクリプスが、ちゃんとムカついている。


 ウイスキに対して。


 相手を認識して。


 言い返している。


 いや、状況としては何やってんだお前らなんだけど。


 周りの馬たちもざわざわしている。


「エクリプスが喧嘩してる」

「ウイスキすげぇな」

「あいつ四着なのにあのテンションなの何?」

「ゴールドファームだからだろ」

「納得」


 それはたぶんそう。


 俺は、ゆっくり近づいた。


 まずは、サニーの方へ行くべきかとも思った。


 でも、サニーは今、向こうで関係者に囲まれている。


 あいつなら、少し待たせても大丈夫だ。


 たぶん今頃、勝利の余韻に浸りながら全方位にうるさいことを言っている。


 先に、エクリプスだ。


 エクリプスがこちらに気づいた。


「爺さん」


 さっきまでウイスキに向けていた怒気が、ふっと緩む。


「お疲れ、エクリプス」


 エクリプスの顔は、普段の無表情とは違っていた。


 困っているような。


 怒っているような。


 自分でもどうしたらいいかわからないような、そんな顔。


「爺さん、ごめん。負けちゃった」


 その一言で、胸の奥がいっぱいになった。


 何を謝る。


 何を。


 お前、あんなレースして。


 あんなふうに初めて横を見て。


 世界を広げて。


 ようやくレースを知って。


 そんな一戦のあとで、最初に言うのが「ごめん」なのか。


 お前が謝るところなんて、ひとつもない。


「何を謝る」


 手を伸ばして、エクリプスの首筋に触れる。


 熱い。


 いつもより、もっと熱い気がした。


「いいレースだったぞ」


 心からそう思った。


 サニーが全てを賭けて逃げて。


 エクリプスが初めて横を見て。


 最後まで抜けなくて。


 こんなレース、そうそう見られるものじゃない。


 今日ここにいた人間たちは、たぶん何十年も語る。


 サニーボーイがエクリプスを破ったジャパンカップを。


 でも、俺は違う言い方をするだろう。


 エクリプスが初めて誰かを見たジャパンカップ。


 そう言うと思う。


 エクリプスは、少しだけ耳を伏せる。


「サニーの奴……絶対次は勝つ」


 良かった。


 本当に。


 本当に、良かった。


 勝つために走る馬だった。


 最強になるために走る馬だった。


 誰も見ないで、ただ前へ行く馬だった。


 そのエクリプスが、今、サニーの名前を呼んでいる。


 ちゃんと自分以外を見てる。


「……良かったな」


 気づけば、そう言っていた。


 エクリプスが、ぱち、と瞬きをした。


「負けたもん!」


「うん、そうだな」


「サニーを抜けなかった。僕が、本気で走ったのに」


「ああ」


「前を見てた。すごく楽しそうだった」


「そうか」


「今すぐもう一回走りたいのに、できない!」


「そりゃそうだ」


「だから全然良くない!」


 そうだよな。


 良くないよな。


 でも。


 俺はもう、だめだった。


 視界が、じわっと滲んだ。


 しまった、と思う。


 こんなところで泣くつもりじゃなかった。


 でも、どうしようもなかった。


「え、爺さん!?」


 エクリプスの声が少しだけ慌てる。


 周りの馬たちが一斉にこっちを見た気配がした。


 人間たちには、なぜか、感極まった老人が馬を撫でて泣いているように見えているだろう。


 まあ、間違ってはいない。


「泣いてるの!?なんで!?僕が負けたから!?」


 エクリプスが本気で慌てている。


 それすら嬉しい。


 今までなら、俺が泣いても、たぶんこいつは不思議そうに見ているだけだった。


 でも今は、気にしている。


 自分が負けたせいか、と考えている。


 俺の感情を、見ようとしている。


「ちがうよ……」


 声が掠れる。


 情けない。


 この歳になって、こんなに人目があるところで泣くとは思わなかった。


 でも、たぶん、人生で何度もないくらい大事な涙だった。


「じゃあ、なんで」


 エクリプスの声が小さくなる。


「……エクリプスが“楽しく走れそうで”安心したからだよ」


 このまま最強になったら、本当に一頭でどこかへ行ってしまうんじゃないかと思っていた。


 でも、今日、サニーがエクリプスに走る理由を見せた。


 “楽しく走る”の入口を見せてくれた。


「楽しいって、もっと楽なものだと思ってた」


 エクリプスが「よくわかんない」という顔で返してくる。


 でも、もう大丈夫だ。


「違うこともある」


「変なの」


「競馬だからな」


「競馬って、変なんだね」


「ああ、変だぞ」


 俺は頷いた。


 競馬は変だ。


 強い馬が出ると、みんな喜んで、みんな倒したがる。


 負けると悔しいのに、強い相手がいると嬉しい。


 勝つと満足するのに、次の勝負が欲しくなる。


 馬主も、調教師も、騎手も、ファンも、馬も。


 みんな面倒くさい。


 それでも、そこにロマンがある。


 そこへ、少し離れたところから、とんでもなくでかい声が飛んできた。


「爺さああああああああああああん!!」


 うるっさ!


 サニー。


 うるさくて、眩しくて、誰にでも話しかけて、何度断られてもまた来る馬。


 クラウンによく似た、やかましいくせに優しい馬。


「俺も褒めに来てくれよおおおおおおおお!!」


 よくやってくれた。


 今行くよ。


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