第9話:死亡予定
奴隷市場を離れた後も、レインの呼吸はうまく整わなかった。胸の奥に刺さったままの不安と焦りが、歩くたびに内側へ沈んでいく。夕暮れが町全体を赤く染め、路地の影がゆっくりと伸びていた。人通りの多い大通りから外れ、薄暗い裏路地に足を踏み入れると、雑踏の喧騒がいっきに遠ざかる。
奴隷市場の重苦しい空気から離れたはずなのに、胸はまだ締めつけられるように痛む。通り過ぎる犬の鳴き声も、商人たちの呼び込みの声も、遠くで響く笑い声も、どこか現実感を失って耳をすり抜けていった。
(……フィア……あの子の未来……)
思い返すだけで、胸がぎゅっと縮こまる。
少女の頭上に浮かんだ《未来分岐》。
“世界救済成功率:87%”という、信じ難い未来の可能性。
あの情報は、自分が彼女を助けるべき理由を与えてくれた。
だが――その裏側に、どうしようもない不安が渦巻いている。
(俺なんかに……本当に助けられるのか……?)
足取りが止まりそうになる。
だが、同時に胸の中で小さく灯る熱が存在することも、レインは確かに感じていた。
少女は鎖につながれていた。
弱々しく震えていた。
しかし、その先に“世界救済”という大きな未来があった。
(……放っておけるわけがない……)
路地の壁にもたれ、レインは深呼吸をする。
落ち着こうとするほど、頭の中ではフィアの姿が鮮明に思い浮かぶ。
銀の髪。
怯えた青い瞳。
小さな体で必死に耐えていた姿。
胸の奥が熱を帯び、知らず知らずのうちに指先が震える。
「……落ち着け……俺は……まず確かめないと……」
思いつくまま、レインはそっと目を閉じて意識を集中させる。
《ワールド・ログ》
慣れ始めた感覚が、意識の端へすっと入り込んでくる。
光の粒が視界に集まり、現実の景色に重なるように浮かび上がる――。
(……フィアの……今の状態は……)
焦りを抑えながら、レインはもう一度だけ、ログの深層へと踏み込む。
一瞬、視界が揺れた。
そして――赤い光が脈打つように広がり、フィアの名前が表示された。
《深層ログ閲覧》
名前:フィア・ノーン
HP:極低
状態:拘束中
【未来】
→ 本日中に死亡予定
【隠しフラグ】■■■■
「…………っ!!」
視界に表示されたその一文。
赤く震える文字列が、レインの理解を一瞬で奪い取った。
本日中に――死亡予定。
“87%の世界救済”を示した少女が、
“今日死ぬ” と表示されている。
心臓を鷲づかみにされたような痛み。
息がのどに詰まり、呼吸が止まりかける。
(……今日……死ぬ……だと……?)
思考が固まり、時間が止まったように感じられた。
夕暮れの風が肌を撫でても、体温を奪う冷気のようにしか感じられない。
(そんな……そんなはず……!)
否定したい。拒絶したい。
しかし“ログ”は嘘をつかない。
今まで見た未来分岐も、ステータスも、どれも正確だった。
つまり――
これは確定の未来。
今、何もしなければ、フィアは“今日”死ぬ。
「っ……くそ……!」
レインは壁を拳で叩き、震える息を吐いた。
恐怖。焦燥。混乱。
さまざまな感情が胸の内で暴れ回り、視界が揺れた。
(あの子は……世界を救う力を持っているのに……なんで……なんで今日なんだよ……!)
あの弱々しい少女が、この世界にとって重要な存在であることをログは示している。
だが、その未来は今まさに断ち切られようとしている。
(まだ何も……始まってすらいないのに……!)
呼吸が荒くなり、胸が苦しくなっていく。
奴隷市場の薄暗い木の柵。
怯えていたフィアの瞳。
鎖の冷たい光。
それらが頭に浮かぶたび、レインの心臓は早鐘を打った。
「……助ける……!」
喉の奥からしぼり出すように声が出た。
自分自身を奮い立たせるように、胸に力を込める。
(今日中に……助けなきゃ……!)
これはもう運命だとか、自分の無力感だとか、そんな問題ではない。
“今”動かなければ、彼女は死ぬ。
そして、彼女が死ねば――世界救済の芽は潰える。
レインは拳を握りしめ、立ち上がった。
夕暮れの影が長く伸び、その影の中で彼の決意が静かに固まっていく。
(逃げてどうする……今動かなきゃ……!)
今までの人生では、何かを変えたいと思っても何もできなかった。
戦闘でも役に立たず、仲間の足手まといで、追放された。
だけど――
(俺には……《ワールド・ログ》がある……!)
他の誰にも見えない未来を、運命を、深層を読める力。
その力が、今の自分に“行け”と促している。
「絶対に助ける……今日中に……!」
強い、確かな決意。
その声は震えていたが、迷いは一切なかった。
夕暮れの薄明かりが広がる路地を、レインは全力で駆け出す。
奴隷市場のある方向へ、迷うことなく――。
背後には、まだ赤く脈打つ《死亡予定》の警告ログの残像が揺らめいていた。
それは、今後の戦いの緊迫感と、レインの選んだ未来への重さを象徴していた。




