第7話:奴隷市場
夕方の気配をまとった町の路地を、レインはただ無意識に歩いていた。勇者カイルの深層ログ――“世界破壊確定”という、あまりにも重すぎる未来の断片を見たせいで、心臓はまだ凍りついたままだ。胸の奥が冷たく痛み、足取りさえどこかふわついている。周囲の景色は確かにそこにあるはずなのに、膜一枚隔てた別世界のように感じられた。
昼の市場に比べて路地は暗く、夕陽が細く差し込んだ部分だけが金色に輝いている。風が吹き抜け、店の看板が揺れ、どこか乾いた音が響く。その音を聞いても、胸のざわつきは止まらない。頭の中では、さっき見た赤い未来ログが何度も何度も反芻され、視界の片隅に残像すら浮かんでくる気がした。
(……俺は……何をすれば……?)
その問いは重く、答えのないまま沈んでいく。
市場の喧騒が微かに聞こえてくるが、どれも他人事のように遠い。
商人の呼び声。
買い物客の談笑。
犬の吠える声。
金属を叩く音。
酒場から漏れる笑い声。
本来であれば町の生命力を象徴する音で賑やかで温かいもののはずなのに、今は薄い膜越しの音のように、どれも遠く、空虚に感じられた。
(俺が……止めなきゃいけないのか……? 勇者を……?)
胸の奥がひりつき、呼吸が浅くなる。
勇者だったときの憧れ、仲間意識、羨望――そのすべてがひとつの巨大な影に変わり、レインの背中へ重くのしかかってくる。
ふらふらと歩いていると、路地の様子が徐々に変わっていることに気づいた。賑やかな喧騒が遠ざかり、代わりにどこか湿った、重苦しい気配が漂い始める。店の数が減り、通行人も少ない。石畳の色も汚れが目立ち、夕陽が届かないせいか空気が一段と冷たい。
やがて路地が開け、別の広場へと出た。
そこは、市場の延長線とは明らかに違う空気感を放っていた。
(……ここは……?)
薄暗い広場の中央に、粗雑に組まれた木の柵が並び、その内側には鉄の鎖が何本も垂れていた。鎖の先では、痩せた男や怯えた女性、虚ろな瞳で座り込む老人が身動きせずにいる。周囲では数人の男たちが値踏みするように彼らを眺め、時折、金額らしき数字を口にしていた。
空気が重い。
肌にまとわりつくような嫌悪感と、喉奥を掴まれるような息苦しさ。
人々の目は冷たく、そこにあるのは“商品”を選ぶ視線だけ。
奴隷市場――。
レインは思わず足を止め、息を呑んだ。
(こんな……場所があったのか……)
市場の明るい喧騒とは、まるで別の世界だ。
ここだけが町の色から切り離され、暗い影に覆われているように感じられる。
胸の奥に、冷たいものと熱いものが同時に流れ込む。
深層ログで知った未来の重圧と、この光景の生々しい現実が、脳内でぶつかり合う。
(世界の未来すら危ういというのに……人ひとり救われないまま……)
そんな思考の断片を抱えたまま、レインは広場へ足を踏み入れた。
人々の視線は全て“奴隷”に向けられており、レインの存在には誰も気づかない。むしろ、それが救いだった。今の自分の表情はきっと動揺と疲れで歪んでいるだろう。
そんな時。
視線の先に――ひとりの少女がいた。
木の柵の奥。鎖に繋がれた小柄な少女。
銀色の髪は埃で汚れ、ところどころ乱れたまま。だが、それでも細く柔らかそうな光を宿していた。青い瞳は伏せられ、怯え、震え、心の奥から助けを求めているのがひと目で分かるほどだった。
痩せた肩はわずかに呼吸に合わせて上下するが、動きは弱く、今にも倒れてしまいそうだ。薄い布の服を握る小さな手は震え、鎖につながれるたびに微かに金属音が鳴った。
(……こんな……弱々しい子が……)
胸が痛んだ。
追放され、未来に怯え、自分自身を保つので精一杯だったレインでさえ、この少女のか弱い姿には息を詰めた。
少女――フィア・ノーン。
その名前をまだレインは知らない。
ただ、その存在が視界に飛び込んできた瞬間、心の奥がざわついた。
(……なんで……こんなところに……)
フィアの周囲では、商人たちが値段をつけようと囁き合っている。
彼らの目にあるのは、憐れみでも興味でもなく、“値踏み”という無機質な感情だけ。
その光景が、レインの中にある小さな怒りを刺激した。
無意識に、目の前の少女をもっとよく知りたいと思った。
その“理由”を欲した。
胸の奥から湧き上がるその衝動に従い、レインは静かに呟く。
《ワールド・ログ 起動》
光が視界に広がり、少女の頭上に情報が浮かび上がる。
柔らかい、しかしどこか壊れそうな光を伴っていた。
名前:フィア・ノーン
HP:低
状態:拘束中、疲労大
【運命フラグ】奴隷としての生活継続
「……っ……!」
レインの胸に、熱い衝撃が走る。
これまで見てきたステータスとは違う“重さ”。
彼女の“未来”に刻まれた残酷な文字列が、レインの心を強く叩いた。
奴隷としての生活継続――。
それしか記されていない。
希望の欠片すらない、運命。
(そんな未来……あっていいわけないだろ……!)
自分の無力さに悩んでいた時間が、一瞬にして塗り替えられた。
目の前に、助けを求める存在がいる。
小さな少女が、文字通り壊れそうな運命に縛られている。
(……この子……助けなきゃ……)
言葉にしなくても、胸が答えていた。
勇者の未来を変える力など、今の自分にはまだ想像もできない。
だが、この少女の未来なら――目の前の“たったひとつの運命”なら、自分にも何かできるかもしれない。
心が熱を帯びていく。
かつてのパーティでは感じたことのない、強い衝動。
追放され、孤独になって、初めて芽生えた“何かを守りたい”という想い。
市場のざわめきが遠のく。
レインの足は自然と前へ動き出し、小走りで少女のもとへ向かう。
フィアは怯えたように顔を上げ、その青い瞳がレインを見た。
その瞳には、絶望の奥底に、ほんのわずかな希望の光が揺れていた。
(大丈夫だ……)
自分でも驚くほど静かに、しかし確かな感情が胸に落ち着いていく。
(今度こそ……俺は……何かを変える……)
その誓いは、言葉にならなくても深くレインの心に刻まれた。
こうしてレインは初めて、“誰かの未来”に真正面から向き合う。
それが、後に世界を揺るがす運命改変へと続く第一歩であることを、この時の彼はまだ知らなかった。




