第22話:バグの出現
一歩踏み込むたび、森の空気がじわりと重くなるように感じられた。レインは歩みを緩め、耳を澄ませる。鳥のさえずり、風で揺れる枝葉……どれもいつもと変わらない“自然の音”のはずなのに、不思議と胸の奥にざらつくような違和感だけが残り続けていた。
フィアは隣で小さな花を見つけて微笑んだり、小石を蹴って遊んだりと、明るい空気を保とうとしている。しかしレインの視線は森の奥へと吸い寄せられ、笑顔を返す余裕がない。
(……何かがおかしい。
モンスターの気配がほとんどない。
静かすぎる……)
レインは深呼吸し、《ワールド・ログ》を起動する。
《ワールド・ログ 起動》
視界が薄く光に染まり、森の木々の輪郭がわずかにシャープになる。草の揺れ方、空気の湿度、足元の微かな振動……ログはあらゆる要素を視覚化し、レインに情報として流し込んでくる。
(……敵はいないはず……。
でも……何だ、この胸騒ぎ)
森の奥に、ゆらり……と黒い影が揺れる。
それは、木々の影でも獣の気配でもなかった。視界の端で、異常な“ノイズ”のように形が崩れては戻る、理解を拒むような存在が蠢いている。
レインの心臓が、強く跳ねた。
(……あれ……モンスター……?)
「レインさん……?」
フィアが不安そうに覗き込む。レインは無意識にフィアを後ろに下がらせ、前に立った。ゆっくりと、影がこちらへ滲み寄るように動き出す。
そして――
影は、唐突に森の明かりの中へ踏み出した。
黒く、歪んでいた。
人の形を模してはいる。だが腕は不自然に曲がり、脚は地面に触れているのか浮いているのかすら判別できない。肉体の境界が揺らぎ、部分的に欠け、黒い靄のような粒子が常に周囲へ崩れ落ちている。
顔の位置と思われる場所には、瞳だけが赤く点滅し――瞬きのたびに、存在そのものが乱れるように揺れた。
フィアが小さく息を呑む。
「っ……な、何……これ……」
レインも答えられなかった。
だが恐怖よりも先に、いつもの癖が発動する。
(ログ……! まずは情報を……!)
《ワールド・ログ 起動》
視界に文字列が浮かぶ――はずだった。
しかし、現れたのは見たこともない赤いエラーメッセージ。
名称:不明
種族:ERROR
HP:■■■■
スキル:■■■■
弱点:不明
情報のほとんどが黒塗りで、エラーだらけ。
レインは喉がかすれるほどの衝撃を受けた。
(……な、何だよ……これは……
ログが……全然読めない……!?)
ログの文字は正常な情報ではなく、赤く点滅する警告の羅列に近かった。いつもの整然とした情報表示とは違い、視界全体が乱れるノイズのようにちらつき、頭の奥で低いノイズ音のような振動さえ感じる。
その瞬間、異形の“バグ”が動いた。
――音もなく、突っ込んでくる。
重力すら無視した不自然な速度。
レインは本能で横へ跳んだ。
「フィア、下がれ!!」
叫ぶと同時に剣を抜き、バグの前に立つ。
(ログが使えない……!
弱点も、攻撃パターンも……何も分からない……!)
バグの腕が伸びる。
骨も筋肉も存在しないような滑らかな動きで、まるで“空間ごと切り裂こうとする”形で振り下ろされる。
レインは咄嗟に剣で受け止めるが――
「うっ……!」
力の質が違った。
衝撃ではなく、情報そのものを削り取るような感覚。
レインの腕が一瞬だけ痺れ、剣が震えた。
(……ログの介入が効かない……
こんな敵、初めてだ……!)
森の空気が、さらに重く落ち込む。
風の流れさえ止まったように、世界がこのバグの存在に息を潜めているかのようだった。
バグは形を維持できていないのか、腕が分裂したかと思うと元に戻り、時には足元が地面に溶けるように沈んだり、瞬時に別の位置へ移動したりと、常識的な動きではなかった。
(動きに一貫性がない……!
これじゃあ……ログで未来予測もできない……!)
レインは呼吸が荒くなるのを感じながら、それでもフィアを守るために前へ踏み出す。剣を構え、じりじりと距離を詰めようとするが、バグはまるで意志を持たない機械のように、ただノイズ的に揺れながらこちらへ迫ってくる。
フィアは震えながらも、レインの背中を見つめ続けている。
「レインさん……!」
「大丈夫……守る!」
だが、言葉とは裏腹に心は冷や汗を流していた。
(……勝てるのか……?
俺、ログなしじゃ……戦ったことなんて……)
バグの腕が再び伸びる。
レインは剣を捻り、滑らせるように弾き返す。しかし、弾いたはずの衝撃は軽く、それなのに頭の奥に“ズキッ”と痛みが走る。
(頭に……直接ノイズが入ってくる……!
まるで、情報の塊とぶつかってるみたいだ……!)
剣を構えたまま、距離を取る。
その間に、必死で観察する。
(動きに規則はない……いや……予測不能だけど……
“揺れる前に、一瞬、影が遅れる”)
視界の端で、バグの輪郭が一瞬だけ遅れて揺れ、すぐ本体が追いかけるように動いている。
(そこだ……! それが攻撃の合図……!)
レインは覚悟を決め、フィアを守るように立ち尽くすバグへ向かう。
「うおおっ!!」
剣を横から叩き込む――その瞬間、バグの姿が一瞬だけ消えた。
「しまっ――」
背後から、ノイズを伴う衝撃が襲いかかる。
レインは咄嗟に地面に転がり、間一髪で回避した。
(予測がズレた……!
影の遅れはフェイク……!)
胸を押さえながら立ち上がる。
(ログがないってだけで……こんなにも戦いづらい……
俺の力は……解析と未来予測前提……!
それがないと、ただの人間だ……!)
自分の弱さが、容赦なく突きつけられる。
だが――フィアの存在が、心の奥で静かに支えていた。
「レインさん! 逃げちゃ駄目ですか……!?」
必死の声。
その声に、レインは大きく首を振る。
「ここで逃げたら……守れない……!
ログが役に立たないなら……俺自身が考える……!」
再びバグが突進してくる。
今度は動きを読むのではなく、反応で対処する。
胸の奥の恐怖を押し殺し、剣を低く構え、地面すれすれで斬り上げる。
剣は、確かにバグの“胴”と思われる場所を捉えた。
黒いノイズが飛び散り、バグの体が揺らぐ。
(……効いてる!
攻撃が通る……!)
だが喜ぶ暇もない。
バグの体は形を保てず、破れた布のように空間へと溶け、次の瞬間には元の形へ戻る。
(……倒すには足りない……!)
バグの目が赤く強く点滅する。
まるで怒ったかのように、攻撃速度が上がった。
「レインさん!!」
「大丈夫だ、フィア!!」
必死の戦いが続く。
森の中に剣の金属音と、バグのノイズ音が混じり合い、重苦しい緊張が漂う。
(ログだけじゃ守れない……
でも……だからこそ――)
レインは深く息を吸い、最後の一撃に合わせる。
バグが腕を振る瞬間、レインは逆に懐へ滑り込み、剣を突き立てた。
黒い破片が散り、バグの体が崩れ――霧のように消えた。
森が急に静かになる。
レインは深く息を吐き、膝をついた。
「はぁ……はぁ……」
フィアが駆け寄ってくる。
「レインさん! 本当に……本当に、大丈夫ですか……!」
「ああ……なんとか……」
フィアの涙ぐんだ顔を見て、レインはようやく笑みを作った。
(……ログだけじゃない。
俺自身が動いて……考えて……守らなきゃ)
そしてバグが消えた空間には、微かな赤いノイズだけが残っていた。
【レインの内心】
「……この世界には、まだ俺が知らないものがある……
ログだけでは……守れない……」
森の奥で赤く光る残留ノイズが、次なる試練を告げるかのように揺れ続けていた。




