第20話:世界の違和感
夕暮れの森は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。西の空がゆっくりと橙から紫へと色を変えていく中、木々の隙間から差し込む光が、細い道をまだらに照らしている。葉と葉が触れ合う微かな音と、小さな小動物が走り去る気配だけが、この世界にまだ“動き”があることを教えていた。
レインは、その細い森道をゼクトの背中を追うように歩いていた。
黒いマントを揺らしながら、長い剣を背負った男は、一見ただ前を向いて歩いているだけに見える。だが、その歩調には迷いがなく、一歩一歩が“ここを通るのが当然”であるかのような風格を帯びていた。
(……あの人は、一体どこまで知っているんだ……)
少し後ろを歩きながら、レインは心の中で問いを重ねる。
自分の《ワールド・ログ》の能力に気づき、さらに“監視されている”事実にまで言及した男――ゼクト。
ただの通りすがりではない。
強者というだけでもない。
それ以上の“何か”を知っている。
フィアは今、街外れの小屋で待機している。ゼクトの放つ圧にさらすには、まだ危険だと判断したからだ。レインは一人でゼクトを追い、こうして森の奥へと歩みを進めている。
(……俺の能力を知っていて、なお警告してくる……
敵なのか、味方なのか……)
風がひゅう、と木々の間を抜ける。
レインがそう考えていると、ゼクトがふいに足を止めた。
背中越しに、空気の流れが変わる。
「この辺りでいいだろう」
低く落ち着いた声が、静寂の中に沁み込むように響いた。
ゼクトはゆっくりと振り返り、その鋭い眼差しをレインに向ける。
「ここなら、余計な耳も、余計な“目”も少ない」
その言葉の“目”の部分に、レインの心臓が少し強く跳ねる。
「……俺に、聞きたいことがあるんだろう?」
ゼクトに問われ、レインは言葉を詰まらせた。
確かに、聞きたいことは山ほどある。だが、何から切り出すべきか分からない。
そんなレインの迷いを見透かしたように、ゼクトは先に口を開いた。
「まずは、逆だ」
「……逆?」
「お前に、理解させるべきことがある」
ゼクトは剣を肩に掛けなおし、視線を森の奥へと向けた。
夕暮れの光が横から差し込み、黒い輪郭を一層鋭く際立たせる。
「お前……見えている世界が、どれほど特別か分かっているか?」
真正面から投げられた問いに、レインは息を飲む。
自分だけが見えるステータスや未来分岐、深層ログ。確かにそれが“特別”であることは理解しているつもりだ。だが、それが“世界の中でどれほど異常なのか”までは、分かっていない。
レインは、正直に首を横ではなく、縦にわずかに動かした。
完全には答えられない――そんな中途半端な頷きだった。
ゼクトは、ふっと小さく息を吐いた。
「運命は――本来、決まっている」
その言葉は、どこか冷たい刃のようだった。
「……決まっている……?」
「そうだ。生まれること、死ぬこと、出会うこと、別れること。
本来、俺たちの歩く道は、“最初から完成された一本の線”だ」
ゼクトの視線が、森の土の上に落ちる。
足元に伸びる一本道。その比喩が、レインの胸に重く突き刺さる。
「本来、未来は『観測されるだけ』の存在。
見てもいい。感じてもいい。だが――“変えることは許されない”」
風が、木々の葉を揺らし、さやさやと音を立てた。
その音が、ゼクトの言葉に妙な説得力を与える。
(……未来は、観測されるだけ……)
レインの脳裏に、これまで見てきたログがよみがえる。
フィアの“死亡予定”、あの子供の“死亡予定”、勇者カイルの“世界破壊確定”。
それらは本来、ただ“そうなる”はずだった線だというのか。
ゼクトはレインの表情をじっと観察し、続けた。
「だが……」
短く区切られたその一言が、レインの鼓動をさらに早くする。
「お前は、それを“無視している”」
レインは息を呑んだ。
胸の奥に、記憶が連鎖する。
奴隷市場でのフィアの救出。
《本日中に死亡予定》という真っ赤なログを、力ずくで“生存確定”へ書き換えた瞬間。
街中での、あの幼い子供。
飛び出せば馬車に轢かれて死ぬはずだった未来を、ぎりぎりのタイミングで抱きかかえて防いだ行動。
(……俺は……確かに、変えた……)
未来は、ただ“見るだけ”では終わらなかった。
自分は、見たあとで――動いた。
そして、書き換えた。
「……それは、世界のルールから見れば、『許されざる行為』だ」
ゼクトの声が、さらに低く沈む。
「お前は、まだ知らないのかもしれないが――
世界の根幹、その“設定”に干渉するというのは、本来は管理者層の仕事だ」
(管理者……)
レインは思わず、以前見た赤いログ《監視対象に指定されました》を思い出す。
あれは――運命を弄び始めた自分に対する、上からの“視線”ではなかったか。
「……許されない……?」
気づけば、レインの口からその言葉が漏れていた。
「だけど俺は――」
レインの脳裏に、あの時のフィアの姿が浮かぶ。
鎖に繋がれ、怯え、死へと向かう未来しか持たなかった少女。
そして、泣きそうになりながらも感謝を伝えた子供と、その母親の表情。
「……救った。守ったんだ……!」
胸の奥から込み上げてくる想いは、理屈ではなかった。
ただ、自分のしたことを“間違いだ”とは認めたくないという、強烈な感情だった。
「それが“許されない”っていうなら……俺は、どうすればよかったんだ……?」
問いは、ゼクトだけでなく“世界”そのものへ向ける叫びにも似ていた。
ゼクトは静かにレインを見つめる。
その眼差しは冷たいが、完全な否定ではなかった。
「……俺は、お前の行いを責めているわけじゃない」
淡々と、しかしどこか僅かな優しさを滲ませながら続ける。
「俺にも、守れなかったものがある。
運命に逆らうことが、どれほどの痛みを伴うか――嫌というほど知っている」
短い言葉の中に、膨大な過去の重みが込められていた。
レインは、ゼクトの背負う“敗北”の影を直感する。
だからこそ――。
「だから、お前に伝えておく」
ゼクトの視線が鋭くなり、間合いそのものが一瞬で変わる。
まるで目の前の空気が、刃のように張り詰めた。
「……これ以上、未来を弄るなら――覚悟しろ」
森の空気が、一瞬にして重くなる。
レインの喉が乾いた。
「世界は、お前を許さない」
その一言は、脅しでも比喩でもなかった。
ゼクトが実際に“それを見てきた者”の声音だった。
レインは拳を握りしめる。
胸の中で、理屈と感情が激しくぶつかり合う。
運命は固定されている。
未来は観測されるだけ。
変えてはならない。
――それでも。
(俺は、もう知ってしまった……)
何もしなければ、フィアは死んでいた。
あの子供も死んでいた。
勇者カイルのログには、世界破壊という未来が刻まれている。
(見えなければ、何も知らないままでいられたのに……
見えてしまった。知ってしまった。
それで何もせずにいるなんて――俺にはできない)
レインは深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。
胸のざわめきが、一つひとつ整理され、結晶のような“覚悟”へと形を変えていく。
「……それでも」
声はかすれそうになりながらも、確かにゼクトへ届いた。
「それでも、俺は――変える」
レインはゼクトの瞳を正面から見据える。
「守れる未来があるなら、見て見ぬふりなんて……できない。
世界が俺を許さなくても――俺は、俺のしたいことをする」
静かな森に、その言葉だけがくっきりと響いた。
ゼクトは短く目を細め、わずかに口の端を上げる。
「……そう言うと思った」
それは皮肉でも嘲笑でもなかった。
どこか、懐かしいものを見るような――そんな表情だった。
「いいだろう。なら――その選択の行き着く先を、自分の眼で見ろ」
ゼクトは背を向け、森の奥へと再び歩き出す。
その背中は、先ほどよりも少しだけ軽く見えた。
「生き延びろよ、ログ使い。
世界を敵に回すってのは、冗談みたいに――しんどいからな」
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていく。
レインは拳を握り直し、前を向く。
【モノローグ】
「……世界のルールがどうであろうと――
運命が決まっていようと――
俺には、守りたいものがある。
だったら、俺は――反逆する側でいい」
風が吹き、木々がざわめく。




