第19話:謎の男
森の匂いが濃くなり始める午後。街を離れたばかりの道は静かで、湿った土の匂いと木の葉がこすれるさらさらとした音が空気に溶けていく。レインとフィアは並んで歩きながら、次の目的地へ向かっていた。旅の道中としてはごく普通の場面――のはずだった。
フィアは道端に咲く花を見つけては、小さく微笑んではレインに話しかけようとする。その無邪気さは、ほんの数日前まで奴隷として怯えていた少女とは思えないほど自然で、レインの胸に温かさを生んでいた。
そんな穏やかな空気を、一陣の風が破る。
ふっと、空気の温度が変わった。
レインは直感的に足を止める。
風が吹いたわけでもないのに、森の影がざわついたように見えた。
前方の道に――ひとつの影が立っていた。
黒いマント。
長身。
背に――巨大な黒剣。
男はただ立っているだけだというのに、そこから放たれる威圧感は、周囲の木々までもを沈黙させる力を持っていた。
レインの喉が、ごくりと鳴った。
(……誰だ……?)
フィアも立ち止まり、レインの袖を小さく握る。
彼女の手が、わずかに震えていた。
男はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、まるで闇の中に光を閉じ込めているような鋭さを宿しており、こちらを射抜くようにレインを見つめる。
静かすぎる時間が流れた。
男は一歩だけ前に踏み込む。
その一歩だけで、空気が振動したように感じられる。
レインは、本能的に悟った。
(……この男……ただ者じゃない……!)
フィアが息を飲む音が聞こえた。
だが男は、フィアには目もくれず、まっすぐレインへ向かってその視線を固定している。
そして――最初の言葉が落ちる。
「……お前……見えているのか」
その低く響く声は、空気を震わせるほどの圧を帯びていた。
レインの胸が跳ねる。
(……え……? 何を……?)
男は、確かにレインを“知っているように”見ていた。
その視線は、レインが《ワールド・ログ》を見ていることを――“見抜いている”目だった。
(ま、まさか……俺の能力……気づいてる……?)
レインが固まったまま言葉を失うと、男はゆっくり歩いて距離を詰めてくる。
足音はほとんど聞こえない。
だが重圧だけが、まとわりつくように近づいてくる。
フィアはレインの背に隠れ、怯えた瞳で男を見つめる。
男――ゼクトは、レインの真正面まで来ると、ひとつ息を吐いた。
その息が、まるで剣先のように鋭かった。
「……眼だ。お前の眼には――“ログ”が見えているんだな」
その言葉は、レインの胸を深く刺し貫く。
心臓が一瞬止まった気がした。
(なっ……!? 本当に……分かっている……!)
レインは後ずさることもできず、ただゼクトの視線に囚われていた。
ゼクトの瞳は、ただの好奇心だけではない。
経験。
洞察。
そして――警告を含んだ視線だった。
レインは、口を開きかけて閉じる。
自分の力を知られているという恐怖が、身体の奥でざわつき始める。
ゼクトは、レインの困惑を見下ろすように視線を細めた。
その動きだけで、森の風さえ止まるような静けさが訪れる。
「……驚くことはない。俺は知っている」
ゼクトは自らの胸元に手を置き、言葉を続ける。
「この世界に、許されざる“眼”が存在することをな」
その声音には、重い歴史と深い経験が滲んでいた。
レインには、ゼクトがどれほどの過去を背負っているのか想像すらできなかった。
(許されざる……眼……?
俺のログを見る力が……そうだっていうのか……?)
ゼクトはレインを値踏みするように眺めた。
その瞳は、まるで深層ログの奥を覗くように冷静で、鋭くて――逃げ道を一切許さない。
レインは視線を逸らせず、息を詰める。
「……だが、お前はまだ浅い。
その力の本質を理解していない」
ゼクトの声には責めるような鋭さもあるが、どこかで“導こうとする意思”が感じられた。
(力の本質……?)
ゼクトはゆっくりと背負った黒剣へ手を伸ばし、その柄をわずかに持ち上げる。
刃は抜かれない。
だが抜かれないその一動作だけで、レインの身体はビリっと震えた。
(……抜かれたら……俺は死ぬ……!)
その確信が胸を貫く。
だがゼクトは剣を抜くことなく、静かに言う。
「力を持つ者は――狙われる」
その言葉は低く、重く、森の奥まで響くようだった。
(狙われる……?
誰に……?)
レインの脳裏に、昨日見たログの赤文字が浮かぶ。
《監視対象に指定されました》
胸が凍り付く。
(まさか……ゼクトは、“あれ”を……?)
ゼクトの目がわずかに細くなる。
「お前……もう気づいているんだろう?」
レインの胸が跳ねる。
呼吸が浅くなり、言葉が喉の奥で絡まる。
「……な、何を……?」
「世界の外側から……“監視”されているということを」
その瞬間。
レインの心臓は、まるで殴られたように大きく揺れた。
(やっぱり……!
この人は……知っている……!)
ゼクトは背負っていた重荷を降ろすように、ほんの少しだけ目を閉じた。
「俺はかつて、その《監視》に触れたことがある……」
フィアが息を呑む。
レインは、身震いしながらゼクトの言葉を待った。
「だが、俺は敗れた。
見えるだけでは……“抗えない”」
その声音には、敗北の痛みが強く滲んでいた。
それが逆に、ゼクトという男の重みと深さを際立たせた。
(ゼクトは……ログの力を……?
いや……“深層レベル”の何かを知っている……!)
ゼクトはレインを真っ直ぐ見据えたまま言う。
「……力の使い方を間違えるな。
未来を変えるというのは……世界の根幹に干渉するということだ」
レインは思わず拳を握りしめる。
(俺の行動が……世界そのものに影響を与えている……?)
ゼクトは踵を返し、森の奥へ歩き始める。
「また会う。
その時までに……せいぜい、生き延びておけ」
森の薄闇に溶けるように、その姿はすぐに見えなくなった。
残された静寂の中で、レインの胸は熱く、そして重く波打っていた。
【レインの内心】
「……あの人は……俺の力を理解している……
教えてくれるのか……試すつもりなのか……分からない……
でも――」
レインは深く息を吸い、拳を握った。
「……逃げるわけには……いかない……」
フィアはそっと寄り添いながら、小さく頷いた。
夕暮れの森。
風が二人の間をぬけていき、その空気は確かに――新たな脅威と試練の訪れを告げていた。




