第16話:フィアの異常性
森の奥深く、小川のせせらぎがかすかに聞こえる静かな小屋。その木造の壁には温かさが宿り、薄明かりの差し込む窓辺には昼の残り香が漂っていた。昨日の出来事――奴隷市場での救出と、隠し宝箱の発見。そしてフィアとの初めての装備調整。そのすべてがようやく落ち着き、二人は束の間の休息を迎えていた。
フィアは新しい軽鎧を着慣れようと、部屋の中で軽く動いてみたり、腕を伸ばしてみたり、ぎこちないが嬉しそうに身体を動かしていた。鎧は魔力繊維を用いた特別製で、明らかに普通の装備ではない。それでも彼女の小柄な身体に馴染み、動きのたびに淡い光を反射する。
「れ、レインさん……これ、ちゃんと動けてますか……?」
フィアが不安と期待の入り混じった声を上げる。その表情は、怯えが完全に消えたわけではないが、昨日までの“奴隷としての恐怖”が薄れ、代わりに“生きたい”という意志が湧き上がっているように見えた。
レインは窓際に腰かけ、彼女の動きをじっと見守っていた。
(……大丈夫。装備はしっかり機能してる)
そう思いながらも、視線は自然とフィアの頭上へ向いていた。彼女が身にまとっている、目に見えない“もう一つの情報”――《ワールド・ログ》。
レインは深く息を吸い、無意識に左手を持ち上げる。
《ワールド・ログ 起動》
視界の端に光る文字列がじわりと広がり、彼の視点を包み込む。空気がわずかに揺れるような感覚が走り、小屋の内部が輪郭の鋭い光に覆われていく。
レインは、静かに息を飲んだ。
(……何か、昨日とは違う)
淡い光に包まれたフィアの頭上には、かつて見慣れたステータス項目が並んでいた。しかし、その中に――昨日までは存在しなかった項目が一つ、赤い光を帯びて浮かんでいた。
名前:フィア・ノーン
種族:人間
HP:35/35
状態:正常
【未来分岐】世界救済成功率:90%
【覚醒条件】進行中
【隠しフラグ】■■■■
レインは思わず背筋を伸ばす。胸の鼓動がどくんと強く響き、手がわずかに震えた。
(……え? 昨日は……世界救済成功率が“87%”だった……
覚醒条件なんて項目、無かった……!)
昨日、宝箱を見つけた時ですら、フィアの未来ログはそこまで不安定ではなかった。それが今――わずかな時間でここまで変化している。
フィアはレインの様子に気づき、小首を傾げる。
「レインさん……?」
「いや、ちょっと……確認したいことがあって」
言葉だけは平静を装うが、胸の奥はざわめきの嵐だった。
(……何が起きている……?
なぜ……フィアに“覚醒条件”なんて……?)
ログの文字が揺れるたびに、レインは理解できない感覚に圧迫されるようだった。まるでフィアという存在そのものが、世界の中心にある歯車のように回り始めている――そんな錯覚すら覚えた。
フィアは軽いステップを踏みながら、動作確認を終えてレインの近くに戻ってくる。柔らかな銀髪が揺れ、ほのかに笑みを見せる。
「どうですか? ちゃんと動けてますか?」
「あ、ああ……問題ないよ。すごく似合ってる」
そう答えると、フィアはぱっと顔を明るくし、胸に手を当てて嬉しそうに微笑む。
だが――レインの視界には、彼女の笑顔とは裏腹に、赤く脈打つ“覚醒条件”の文字が重なる。
(……この子は……本当に“普通の少女”なのか?)
未来分岐を読み取る自分の能力が、何かを確信するように警鐘を鳴らし続けていた。
レインはログの文字に注視しながら、フィアの動作一つひとつを確認する。呼吸のリズム、歩幅の揃い具合、身体の軸の安定。どれをとっても、昨日の彼女とは明らかに違っていた。
(……軽鎧のおかげだけじゃない。
この子自身の中で、何かが変わりつつある……)
《覚醒条件:進行中》の文字列が脈打つたびに、不気味さとも神秘ともとれる何かがフィアから漂った。まるで運命が確実に動いていることが、レインにだけ伝わってくるようだった。
「レインさん……?」
フィアが再び声をかける。透明感のある青い瞳が、まっすぐレインの心を射抜く。
「その……さっきから、ずっと私を見て……何かありましたか?」
無邪気な問いに、レインは一瞬言葉を失った。
本当のことを言えば、フィアは驚くどころか不安で震えてしまうだろう。自分の未来が“世界の鍵”だなどと、無理に背負わせる必要はない。
「……いや。フィアが元気そうで安心しただけだよ」
フィアは胸を撫で下ろし、ほっとしたように微笑む。
「よかった……レインさんが見てくれると、安心します」
(……違う。
安心しているのは……俺の方だ……)
フィアの笑顔と、ログに映る危険で不気味な未来の情報。
そのギャップがレインの胸の奥に複雑な影を落とした。
(どうして……この子だけ、未来ログが“世界規模”なんだ?
勇者カイルの時みたいに、破壊や危機のログならまだ分かる。
でも……世界救済って……)
世界を救う存在が、こんな小さな少女だというのか。
その問いに、ログは沈黙で返すのみだった。
レインは深く息を吐き、窓の外を眺めた。
夕暮れの光が森を黄金色に染め、木々の葉が静かに揺れている。
静寂の中で、レインの胸にある種の“直感”が生まれた。
(……この子には、俺の知らない“秘密”がある……)
それは恐怖ではなく“事実”として迫る感覚。
胸の奥でひっそりと警告を鳴らす信号のように、確かなものだった。
「フィア……」
「はい?」
彼女が小さく首を傾げる音が聞こえそうなほど、静かな部屋。
「これから先……危険が増えると思う。でも、その……俺がそばにいるから」
甘い言葉でも、誇張でもない。
これは、レインが心の底から紡いだ決意だった。
フィアは驚いたように瞳を瞬かせ、その後、ゆっくりと頷いた。
「……はい。レインさんとなら……どこまでも行けます」
その瞬間――フィアの頭上のログに一瞬光が走る。
《覚醒条件:進行速度 上昇》
レインは息を呑む。
(い、今……加速した……?)
フィア自身は気づいていない。
だが、彼女の未来――彼女が担う“世界の救済”に、また一歩近づいたのだ。
(……やっぱり、この子は特別だ。
守るだけじゃない。俺が見届けなきゃいけない)
レインは胸の奥に、強く確かな決意を刻みつける。
小屋の中に夕暮れが満ち、二人の影がゆっくりと伸びていく。
その光景はまるで――“特別な運命の始まり”を静かに告げているようだった。




