第12話:物語の始まり
薄い朝の光が、古びた宿屋の窓辺を柔らかく照らしていた。夜の冷たさを残した空気がほんの少しだけ部屋に漂っており、静かな静寂の中で、かすかな呼吸だけがその空間を満たしている。遠くからは人々の準備する音や、店主が店前の掃除を始める箒の音が聞こえてくるが、この部屋の中には、世界から遮断されたような穏やかな空気があった。
レインは窓際に立ち、静かに外の空を眺めていた。
鈍い青色の空には薄い雲が広がり、まだ太陽が顔を出し切っていない。
けれど、その光は確かに新しい一日の始まりを象徴している。
昨日――フィアを奴隷市場から救い出した。
その瞬間、《深層ログ》は変化し、“死亡予定”は“生存確定”へと書き換わった。
彼女の命を救ったという実感と、初めて行動で未来を変えたという手応えが、胸の奥にまだ温かく残っている。
(……これで、少しは守れる……)
小さく息を吐く。
自分に言い聞かせるような、確かめるような気持ちがそこにあった。
フィアはベッドの上で横たわっている。
薄い毛布を肩までかけ、弱々しい呼吸をゆっくりと繰り返していた。
昨晩、奴隷としての扱いで受けた疲労は深刻で、肉体も精神も限界近くまで消耗していた。
しかし、レインにはひとつだけはっきりとわかっていることがあった。
――彼女は生きている。
そして、その“未来”は、もう死の運命から外れている。
(守れた……本当に……守れたんだ……)
胸にこみあげるものがあった。今までの人生では、一度も味わったことのない感覚だった。
誰かを助けたいと思っても、常に自分は無力で、ただ見ているしかなかった。
だが、今回だけは違った。
フィアの胸がゆっくりと上下している。
その動きを見るたびに、レインは胸の奥で小さな光が灯るのを感じていた。
(俺にも……できたんだ……)
窓の外を見つめながら、レインは思わず小さく微笑んでいた。
追放された記録係だった自分が、誰かの命を確かに救った。
それは途方もなく大きな“始まり”のように感じられた。
部屋の中に、微かな衣擦れの音が響く。
「……ん……」
ベッドの上から、力の抜けたようなかすかな声がして、レインは振り返った。
フィアのまつげが震え、閉じられていた瞼がゆっくりと開いていく。
暗がりの瞳が徐々に光を宿し、ぼんやりと部屋の天井を映す。
その青い瞳は、まだ恐怖と混乱の影をまとっていたが、昨夜とは違い、どこか柔らかい光が混ざっている。
フィアは焦点の合わない視線をさまよわせ、やがてレインの姿をとらえた。
「……どうして……助けてくれたんですか……?」
その声は細く、小さな風が吹いただけで消えてしまいそうな弱々しさだった。
しかし、確かにレインへ向けられた問いだった。
レインは静かに息を吸い、フィアへゆっくりと近づく。
彼女の瞳に映る自分の姿が、どこか恥ずかしくも誇らしくも感じられた。
レインはベッドの側に腰を下ろし、フィアと目線が合う高さまで身をかがめた。
彼は微かに笑みを浮かべ、静かに言葉を紡いだ。
「……君のログを見た」
その言葉を聞いた瞬間、フィアの瞳が小さく揺れた。
「ログ」という言葉の意味を理解しているわけではなさそうで、眉を寄せ、困惑したようにレインの表情を探る。
「……ログ……?」
フィアの声は戸惑いと恐れが入り混じっている。
無理もない。
奴隷として売られ、生きる望みすら奪われたなかで、突然現れた青年に救われたのだから。
レインはフィアを安心させるように、ゆっくりと首を振った。
「大丈夫。今はまだ理解しなくていい。……でも、君の未来に危険があった。それを見たから、助けただけだ」
フィアは薄く唇を開き、息を吸うように小さく震えた。
まるでこれまで積み重ねてきた恐怖が、ようやく少しほどけたかのような表情だった。
「……わたし……死ぬはずだった……ですか……?」
その問いは、震える声でありながらも、はっきりと現実を受け止めようとする意思があった。
レインは少し目を伏せ、真剣な声で答えた。
「――ああ。でも、もう違う。君は助かった。これからは……俺が守る」
その瞬間、フィアの青い瞳が大きく揺れた。
恐怖の奥に、小さな、小さな希望が灯る。
それは昨日の奴隷市場で見た、絶望に沈みきった瞳とはまるで別の光だった。
静かな朝、宿屋の部屋に微かな風が流れ込み、カーテンが揺れた。
その風に押されるように、レインの視界に淡い文字が浮かび上がる。
《ワールド・ログ》
新規対象登録:フィア・ノーン
その表示は、まるで祝福のように光り、数秒ののちに空気へ溶けるように消えていった。
(この子は……俺の力で守るべき存在だ……)
胸の奥に、ゆっくりと確信が広がる。
昨日まで無力だった自分は、もういない。
追放され、孤独になり、道に迷いながらも――辿り着いたこの力は、“運命を書き換える力”だ。
レインはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。
太陽がようやく姿を見せ、町はこれから動き出そうとしている。
その光に照らされながら、胸の中でひとつの言葉が自然と生まれた。
(ここからが……俺たちの物語の始まりだ……)
昨日までの無力感、追放の痛み、孤独の夜――
そのすべてが、今日この瞬間で過去へと変わっていく。
背後でフィアが震える手で毛布を握りしめながら、小さく呟いた。
「……あの……これから、どうすれば……」
その問いに、レインは静かに振り返り、優しく答える。
「大丈夫。ゆっくりでいい。……これからは、俺と一緒に行こう」
フィアは一瞬迷ったように瞳を伏せたが、次の瞬間、ほんのわずかに微笑んだ。
小さな光が、その青い瞳の奥で確かに揺れた。
(守る……絶対に……どんな未来でも……)
レインは空へ視線を戻し、胸の奥でそっと言葉を紡いだ。
「――これから、俺たちの物語が始まる」
朝の光が二人を包み込むように照らし、《ワールド・ログ》の文字が一瞬だけ輝いた。
その光は、第1章の終わりと、これから始まる新たな章の幕開けを告げているようだった。




