第10話:選択
夕暮れの色が濃くなり始めた町外れの路地。その薄暗い細道の真ん中で、レインは両手を膝に当てて息を整えていた。奴隷市場の喧騒から逃れるように走ってきたはずなのに、胸の鼓動はまだ激しく、肺の奥まで冷たい空気が入り切らない。石畳に落ちる影は長く伸び、街灯に灯がともるにはまだ早いこの時間帯は、どこか不安を煽る静けさを内包していた。
路地には人影がなく、遠くから市場の喧騒が微かに聞こえる程度。それなのに、耳の奥では《深層ログ》に刻まれた赤い文字が脈打つように響いている。あの残酷な未来――“フィア・ノーン、本日中に死亡予定”――その言葉が、まるで心臓に刻印されたかのように消えてくれない。
(……落ち着け……落ち着かないと……)
そう思っても、胸に広がるざわつきは収まらなかった。
視界がぐらりと揺れる。
レインは路地の壁に背を預け、目を閉じて深呼吸を試みた。
(関わらなければ……俺は安全でいられる……)
頭の中でそんな冷静な声が囁く。
あの場所に戻れば、奴隷商人に目をつけられる危険がある。
助けようとすれば、当然相手の怒りを買う。
武器も技術もない自分では、正面から戦えるわけがない。
危険を冒す必要など、本来はない。
(そうだ……何もできない……俺は、記録しか取れない……無力のままだ……)
過去の記憶が連鎖するように脳裏にあふれ出す。
勇者パーティーの戦闘で役に立てなかった日々。
仲間たちの視線の冷たさ。
「役立たず」「何もしていない」という痛烈な言葉。
追放されたあの日の、胸が裂けるような感覚。
そのすべてが、今のレインの背中を押すのではなく、逆に足を縛りつけようとしていた。
(……また、何もしないまま終わるのか……?)
その問いが胸に沈むたび、痛みに似た感覚が広がった。
安全を取れば、自分は守られる。何も失わなくて済む。
だが――行動しなければ、フィアは確実に死ぬ。
青い瞳に宿っていた小さな光。
震えながらも、どこか希望を求めていた姿。
鎖の音と共に伝わってきた息遣い。
(あの子を……見捨てるのか……?)
胸がひどく痛くなる。
夕暮れの光が路地の上に差し込み、赤と影のコントラストを作る。それはまるで、レインの心の中で揺れ動く“選択”の象徴だった。
(安全か……犠牲か……)
頭の中では合理的な判断が、何度も“ゆっくり逃げろ”と言ってくる。
だが胸の奥では、強烈な衝動が逆方向へとレインを引きずっていく。
(逃げるのは簡単だ……でも……)
レインはぎゅっと拳を握りしめた。
手のひらに爪が食い込み、痛みが走る。
(本当に……それでいいのか……?)
夕暮れの路地は静まり返り、レインの呼吸音だけが響く。
その孤独な空間で、彼は少しずつ、自分の心の奥底に眠っていた“変わりたい”という願いと向き合い始めていた。
壁にもたれたまま、レインは再び胸に手を当てた。まだ乱れている鼓動が、まるで必死に何かを訴えているようだった。
(俺には……能力がある……)
そう呟くように思考が浮上する。
《ワールド・ログ》
深層へアクセスする力。
未来を読み、運命の流れを知る力。
追放された無力な記録係は、今や誰も知らない“情報”を扱える存在になっていた。
その力で知ってしまった――少女の死が迫っているという事実を。
(知ってしまった以上……もう、何もせずにいられるわけがない……!)
胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
恐怖。焦り。悔しさ。怒り。
そして――使命感。
自然と、あの日のことを思い出した。
勇者パーティーで置いていかれた気持ち。
セレナが目をそらしたあの沈黙。
カイルの冷たい宣告。
(また何もできず、誰も救えず、ただ“記録”して終わるのか?)
自分の心が、はっきりと拒絶する声をあげた。
もう二度と、無力のまま立ち尽くすだけの自分には戻りたくない。
過去の痛みが、今は逆に背中を押している。
(フィアは……今日死ぬ……)
深層ログに浮かんだ赤文字は、今でも視界の隅で脈打つように残像を残している。
本日中に死亡予定。
その文字は、避けられない未来として、レインに迫り続ける。
「……俺が……助けるんだ……!」
思わず声が漏れた。
それは決意というより、魂の叫びに近かった。
レインは顔を上げた。
夕暮れの色が濃くなっていく路地の先に、奴隷市場へと続く大通りがぼんやりと光っている。
市場の向こうには、怯え、今にも消えてしまいそうな少女――フィアがいる。
(安全か……犠牲か……そんな二択じゃない……)
自分の中に湧き上がる感情が、はっきり形を持つ。
(俺は……もう、何もしない自分を選ばない……!)
それは過去との決別であり、未来への第一歩だった。
「……助ける……!」
声は小さかった。だが確かに、路地に響いた。
心の奥で燃えていた炎が、ようやく形となって言葉に変わった瞬間だった。
レインは一歩、前に踏み出す。
その一歩が重く、しかし力強い。
二歩目を踏み出す頃には、胸に溜まっていた迷いはもう霧散していた。
奴隷市場の広場から聞こえるざわめきが、再びレインの耳に戻ってくる。
誰かの笑い声、商人たちの声、鎖の音――そのすべてが、今は彼を恐れさせるものではなかった。
むしろ、レインの心は静かに、しかし確かに前へ進むための力で満ちていた。
(フィアを……救う……それが、俺の選ぶ未来だ……!)
夕日が完全に沈む前の赤い光が、路地の奥まで照らし、レインの影を長く伸ばす。
その影は確かに震えていたが、迷いの震えではない。
決意の震えだった。
そしてレインは駆け出した。
フィアが待つ、あの薄暗い奴隷市場へ――
たったひとりの少女の未来を変えるために。




