第1話:役立たずのログ係
薄暗い洞窟の奥では、湿った空気がまとわりつくように流れ、岩壁に染み込んだ冷気が肌へとじわじわ染み込んでくる。天井から滴る水音は一定のリズムで落ち、ぽちゃん、と反響するたび洞窟の広がりを感じさせる。苔が帯びる青白い光は頼りなく揺れ、光が届かない部分では闇がどこまでも深く口を開けていた。岩肌に走る細い亀裂からすら、冷たい風がわずかに吹き込んでくる。
その薄闇を切り裂くように、勇者カイル・ヴァルディスの大剣が振るわれるたび、空気が震えた。振り下ろされた瞬間、剣身が周囲の闇を押し返すように光を反射し、轟音が洞窟の奥深くまで響き渡る。魔物がその一撃を受けて吹き飛ぶと、石壁へ叩きつけられて鈍い音を立てた。血と鉄と石の匂いが混ざり、熱気とともに空気を揺らす。
「はあっ!」
気迫のこもった叫びが響き、その声の余韻すら魔物を威圧しているかのようだった。カイルの踏み込みに合わせて足元の砂利が跳ね、地面がわずかに震え、洞窟全体が一瞬息を呑んだような静寂に包まれる。
その背後で、魔導士セレナ・ルミエールが杖を握る手に力を込め、魔力を練り上げていた。杖先に集まる紅蓮の光が脈動し、熱を帯びた風が周囲を撫でていく。セレナの金の髪は魔力の風に揺れ、頬が炎の光で柔らかく照らされた。
「《フレア・バースト》!」
高らかな声と共に、凝縮された炎が一気に解き放たれた。轟音とともに爆炎が洞窟を走り抜け、視界を赤一色に染め上げる。熱風が押し寄せ、焦げた臭いが鼻腔を刺激し、魔物の悲鳴がかき消されるほどの衝撃が駆け抜けた。
そんな迫力と熱の中心から大きく離れた後方――ひとり、別の空気の中にいるような青年がいた。
レイン・アルトリウス。
勇者パーティの“記録係”。
後衛のさらに後ろ、安全と呼ばれる場所に座り込み、膝の上の帳簿へ視線を落とす。
戦闘の流れ、仲間の動き、魔物の種類と特性。
レインの役目は、刻々と変化する戦場の情報を記録し、後の分析材料とすること。
しかし――戦闘の熱気や轟音から遠く離れた位置で、ペンの走る細い音だけがレインの“戦闘参加”だった。
(……俺は、ただの記録係か。こんなに、役に立てないなんて……)
仲間が全力で命を懸けて戦う姿を目の当たりにするほど、自分との差があまりに残酷で胸の奥がひりついた。戦場の熱は確かに届いているはずなのに、レインの身体だけはずっと冷たく感じた。
雷鳴のような斬撃音、爆裂する炎の衝撃、魔物の絶叫。
その混ざり合う喧騒の中でも、レインの耳には自分のペンが紙を擦る微かな音が嫌に鮮明に響く。
(俺だけ……戦っていない)
そんな自覚が胸に沈殿し、重さを増していく。
戦闘が終盤に差し掛かり、最後の魔物がカイルの一撃で崩れ落ちた。セレナの魔法がそれを追うように着弾し、洞窟に残っていた魔力の波が微かに揺れ動く。
「よし……これで一段落ね」
セレナが息を整えながら安堵の笑みを浮かべ、カイルは肩で息をしつつも満足げに頷いた。
レインは帳簿を見下ろした。
しかし――ページをめくる手が止まる。
「あれ……?」
書き留めた戦闘の記録が、思い返した光景と噛み合わない。
カイルの攻撃のタイミング。セレナの魔法の角度。敵の動き。味方の配置。
どれもが少しずつ“ずれていた”。
(見間違えた……のか? いや、そんなはずじゃ……)
焦りが喉に張りつき、手の震えが止まらなくなる。
インクが滲み、小さな染みを紙に作った。
仲間たちは戦利品の整理に入り、楽しげとは言わずとも余裕のある空気を漂わせている。
その輪の中に、レインの姿はなかった。
(俺……本当に必要とされてないんじゃ……)
胸の内側に重苦しい圧迫感が増し、息が詰まるような感覚が広がる。
休憩のため、パーティは洞窟内の少し広い空間へ移動し、各々傷の手当てや装備の点検を始めた。カイルは大剣にこびりついた魔物の血を淡々と拭き取り、セレナは魔力の乱れを整えるように掌を胸元に揃え深く呼吸する。
その輪から少し離れ、レインはひとり帳簿を抱えたまま膝を抱えて座っていた。湿った岩肌が背中に冷たく当たり、冷気が服越しに染み込んでくる。
(どうして……俺だけこんなにズレてしまうんだ。ちゃんと見て……見ていたはずなのに)
胸の奥のざわめきが収まらず、息が細く震える。
その時、静寂を裂く声が落ちた。
「……おい」
レインは肩を跳ねさせ、顔を上げた。
そこには、騎士ギルド出身の青年が立っていた。腕を組み、レインの帳簿へ冷たい視線を落とす。
「さっきの戦闘だけどよ……お前、何してた?」
真正面から放たれたその言葉は、刃のように鋭かった。
「え、えっと……記録を」
「記録? 戦闘中に? あんなもん、後で書きゃいいだろ。邪魔になってただけじゃねえか?」
冷淡な声に、レインの心臓が痛いほど脈打つ。
「いや、その……俺なりに……」
「なりに? 何もしてなかったよな? オレにはそう見えたが?」
青年の声が洞窟内に響き、他の仲間たちの耳にも届く。
「確かに……動いてる姿、見てないかも」
「うん……正直、どういう役割なのかよく……」
レインの視界が滲む。
何か言い返したいのに、喉が音を拒む。
青年が鼻で笑う。
「言い返せねえなら、そういうことだよな?」
その瞬間、レインの手の中でペンが震え、帳簿の端の紙が小さく裂けた。
(違う……違うはず……なのに)
胸の奥で、惨めさが重く沈んでいく。
パーティは休憩を終え、洞窟の出口へ向かって歩き始めた。
レインは最後尾。
前を行く仲間たちの声が耳に刺さる。
「記録係って……いる?」
「正直いらねえよな」
「次の遠征から外してもいいよな。足手まといだし」
(俺は……邪魔……なのか)
胸が痛む。呼吸が震える。
洞窟を抜けると、夜の景色が広がった。
月明かりが森を照らし、その冷たい光がレインの肩に落ちる。
仲間たちの笑い声が遠ざかり、レインだけが取り残されたように感じた。
「……俺は、この先……どうすればいいんだ……」
誰に聞かせるわけでもない呟きが、夜風にさらわれて消えていく。
月光が伸びるレインの影を細く長く描き、その孤独を際立たせていた。




