1話:優しいみわちゃん
本間みわは、自分が嫌われていることを知っている。
全員に、ではない。
正確に言えば、「好かれているはずだ」と思っているときの自分が、嫌われている。
それでも、みわは許されてきた。
可愛いから。
髪を少し巻いて、目元を下げて、声のトーンを半音上げる。
それだけで、場の空気は丸くなる。
みわが「心配してるだけだよ?」と言えば、たいていのことは流された。
距離が近すぎても、踏み込みすぎても、悪意は見逃された。
だから、やめられなかった。
心配することも、踏み込むことも、距離を詰めることも。
それをしない自分には、何も残らない気がしていたから。
*
その日、授業開始を待つ大学の教室内は、やけにざわついていた。
「ねぇ、ねぇ、みわちゃん。同じゼミの今泉さん、絶賛炎上中だよ」
友人の花菜が差し出してきたスマートフォンの画面には、毒々しいほど鮮明な「悪意」が並んでいた。
みわは、心臓の奥がわずかに脈打つのを感じる。
それは自分だけが知っている、不謹慎な昂揚だった。
画面をスクロールすれば、ついこの前まで誰も気に留めなかった『今泉氷彗』という名前が、顔も知らない誰かによって無惨に解剖されている。
「……かわいそう」
みわは、計算しつくした悲しげな吐息をついた。
目元を数ミリ下げて、潤んだ瞳で画面を見つめる。
心の中では、彼女の撮った「あの不気味なほど美しい写真」が、他人の不潔な言葉で塗り潰されていく様子を、特等席で眺めている快感に浸っている。
「今泉さん、いつも一人でいたから……。私、もっと早く声をかけてあげればよかったな」
みわの言葉は、冬の朝の空気のように白く、空虚だ。
実家のダイニングで、母に「自慢の娘」を披露するときと同じ、透明な嘘の味がした。
有名企業のサラリーマンである父と、専業主婦の母。その家で、みわは「優しい子」を演じ続けてきた。
(私なんて、自分を殺してまでこんなに頑張って『正しく』あろうとしているのに)
だからこそ、今泉氷彗という存在が、たまらなく癪に障るのだ。
彼女の剥き出しの存在は、みわが塗り固めてきたデコレーションを、安っぽく見せた。
「でもさ、まさか正体不明のアーティスト、椎名冬羽が、ECHO-ISMのトワだったなんて」
「五年前、女優の春咲麻衣と付き合ってたって噂の、トワだよね」
花菜の言葉に相槌を打ちながら、みわの指がふと止まった。
画面には、五年前の週刊誌のキャプチャ画像が踊っている。
雨の中、うつむいて車に乗り込む少年と、その横で顔を隠す年上の美女。かつて日本中の女性たちが悲鳴を上げ、石を投げた「事件」の残骸だ。
「……信じられないよね。あのトワが、あんな騒動で消えたあと、正体隠して歌ってたなんてさ」
花菜が興奮気味に、声を弾ませながら続ける。
「ネット上では地獄だよ。当時のファンは『裏切られた』って怒ってるし、今の冬羽のファンは『逃亡者の黒歴史なんて知りたくなかった』って。ほら、この書き込み」
身を乗り出してきた花菜のスマートフォンに視線を落とす。
《清純ぶってた未成年の不倫野郎が、今さら神秘性とか笑わせる》
そこには、みわが昨日、匿名の裏アカウントから投稿した文言が、数千もの「いいね」を背負って鎮座していた。
自分の指先から零れ落ちた毒が、見知らぬ誰かの血肉となり、巨大な怪物に育っていく。その光景は、恐ろしいほどに甘美だった。
「……不倫、だったっけ」
みわは、上擦りそうになる声を必死に抑えて聞き返した。
本当は、すべてを知っている。
当時のニュースも、トワが流した涙の角度も、彼が表舞台から消えた瞬間の、あの静寂を。
当時、母がテレビを指差して「こんな不潔な子、親の顔が見てみたいわね」と切り捨てたときの冷ややかな空気。その日の夜、部屋で一人、誰にも聞こえない音量でトワの歌声を再生し、自らの境遇と彼の孤独を重ね合わせた感触も。
「相手の女優さん、既婚者だったし。当時めちゃくちゃ叩かれたじゃん。結局、狂言だったとかって後から出たけど、もう誰も信じてないよね。一度ついたイメージって消えないし」
花菜は、まるで美味しいスイーツの感想を言うような軽さで続けた。
「で、そんな『汚れたアイドル』を、わざわざドラマチックに撮っちゃったのが今泉さんってわけ。《過去の傷を利用してエモい写真撮るなんて神経疑う》とか言われてるよ。あーあ、彼女もトワの正体知ってて近づいたのかな?だとしたら、相当性格悪いよね」
みわは、喉の奥に苦い液がせり上がってくるのを感じた。
(私も、その一人だよ)
トワを汚したのは、氷彗じゃない。今、こうして噂を消費して、彼の過去を娯楽として解剖している、花菜や自分や、名もなき群衆だ。
けれど、みわの唇から漏れたのは、正反対の言葉だった。
「……信じられない。あの子、そんなことするタイプに見えなかったのに」
みわは震える声で言った。
もちろん、「ショックを受けている優しい私」を演出するために、わざと声を震えさせた。
けれど、指先が冷たくなっていくのだけは演技ではなかった。氷彗が冬羽に触れたという事実は、みわが大切に守ってきた引き出しの奥の秘密を、土足で踏み荒らされ、二度と元に戻せないほど汚されたような心地だった。
匿名で石を投げながら、「彼を理解できるのは自分だけだ」という考えが、みわの中に、当然のように浮かんでくる。
「でしょ? みわちゃんは優しすぎるんだよ」
花菜が満足そうに頷く。みわは、自分の慈愛の仮面が剥がれ落ちそうになるのを、必死に手で押さえるような心地だった。
スマートフォンの画面をタップする。
《トワの再起を台無しにしたカメラマン。一生許さない》
そんな過激な投稿に、みわの指は無意識のうちに「いいね」を重ねていた。
自分を殺して「正しい家族」の型に嵌まっている自分と、過去を隠して別の何者かになろうとしたトワ。
自分たちは似ていたはずなのに。その秘密を、氷彗という異分子に共有されたことが、みわの自尊心を汚泥に沈めていく。
「……ねえ、花菜。今泉さん、どこにいるか知ってる?」
みわは、潤んだ瞳で友人の顔を覗き込んだ。
「私、やっぱり心配……せめて、話だけでも聞いてあげたいよ」
救いの手を差し伸べるふりをして、その首に真綿を巻き付けに行く。それが「自慢の娘」であり、「優しいみわちゃん」に許された、唯一の残酷な復讐だった。
*
――いた。
視線は自然と、一人の女子学生に向かう。
静かで、目立たなくて、いつも少しだけ距離を取っている子。
笑うとき、口角だけが上がる。
目は、あまり笑わない。
でも、みわの可愛さを脅かす、自覚のない鋭利さを持った綺麗な女の子。
今泉氷彗。
彼女が持つ空気は、みわが作り込んできた愛されるためのデコレーションを、一瞬で色褪せさせる。
みわが努力して手に入れた半音上げた声のトーンも、彼女が放つたった一言の静寂に掻き消されてしまうのだ。
(ああ、いらいらする)
無防備にカメラを抱え、誰とも関わろうとしないその背中が、今のキャンパスでは一番の毒々しい光を放っている。
「元ECHO-ISMのトワこと、椎名冬羽と関わった」という噂が広まった今、彼女はこの大学で最も残酷な場所に立っているはずだった。
みわは、自分の指先が冷たくなるのを感じた。それは嫉妬でもあり、同時に、自分を繋ぎ止めるための餌を見つけたときの昂揚感でもあった。
「大丈夫?」
気づいたら、声をかけていた。
自分でも驚くほど自然な動作だった。
困っていそうな人を見つけて、声をかける。
それが、本間みわにとっていちばん慣れたやり方だった。
「今泉さん、大丈夫?ネットでなんか言われてるみたいだけど……」
氷彗は一瞬だけ目を瞬かせたあと、へらりと笑った。
「心配ありがとう。でも全然、私は平気だよ」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がひやりとした。
(あ、これ)
この感じを、みわは知っている。
触らないでほしい笑顔だ。
だからこそ、引き下がれなかった。
引き下がったら、自分が「いい人」でいられなくなる。
可愛いだけの女になってしまう。
「無理してない?一人で抱え込むの、よくないよ」
言いながら、みわは思っていた。
(これ、うざいよね)
でも、やめなかった。
可愛い子が心配してくれている、という構図は、これまで何度も通用してきた。そして、その成功の記憶が、みわの足を前進させる。
「……ほんとに平気。ありがとう」
氷彗はもう一度だけ笑って、みわの横をすり抜けようとした。
みわは、反射的にその袖口を目で追う。
追ってしまう。
止められない。
(だって、私は――)
みわのスマートフォンが、手の中でじっとりと汗ばんでいた。
花菜のほうを振り返ると、遠くの席でこちらを見ていた彼女が、親指を立てるように小さく頷いた。
近くの女子が「みわ、優しい」と囁く声も聞こえる。
その言葉が、背中を押す。
押されているのは、善意じゃない。
みわの中の、逃げ道のない役割だ。
氷彗の背中が、二歩、三歩と遠ざかる。
「ねえ、実際のところ、冬羽ってやっぱイケメンだった?」
詮索の火種は、待機していた周囲の学生たちに瞬時に燃え移った。
みわが投げかけた、毒を含んだ優しさを皮切りに、氷彗を囲む輪がじわじわと狭まっていく。
氷彗は、困ったように眉を下げ、唇を噛んだ。
(ま、いっか)
周りの空気も変わり始めている。これ以上踏み込めば、「優しいみわちゃん」から、「しつこく問い詰める無神経な女」にカテゴリーが書き換えられてしまう。それは、母が最も嫌う、品のない、騒々しい存在だ。
みわは、絡めていた指先をそっと解いた。
笑顔を作ったまま、指先だけで、氷彗のSNSのアカウントを検索する。
名前を打つ。
候補が出る。
鍵はかかっていない。
(心配してるだけだよ?)
胸の内で唱えた瞬間、指が送信ボタンの上で止まった。
一秒だけ、ためらう。
そのためらいが「優しさ」だと信じたくて、みわは息を吸う。
そして、送信ボタンに指を落とした。
《大丈夫?さっき言えなかったけど、私、味方だよ》




