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8話:写らないまま、そこにいた

 講義の合間に中庭へ寄るのは、ここ最近の癖になっていた。


 猫がいる。今日も石段の上。丸くなって、目だけこちらを見ている。

 冬を乗り切った、少し汚れて毛羽立った毛並みが、春の陽光を弾いていた。

 そのふてぶてしいまでの生命力に、氷彗は自然と笑みが漏れる。


「こんにちは」


 氷彗はしゃがみ込み、距離を保ったままカメラを構えた。


 カシャ。


 猫は一瞬だけ氷彗を見て、すぐに目を逸らす。


 その一瞬が、相変わらず心地よい。


 カシャ。


 シャッター音が、春の空気に小さく溶ける。


「……猫、好きなんだ」


 突然、背後から声がした。


 氷彗は肩を跳ねさせ、振り向く。


 立っていたのは、見覚えのある細身のシルエットだった。

 白いシャツに、黒いスラックス。コートの色だけが、冬の重い黒から、春を待つような淡いベージュに変わっている。


 セットされていない髪は少しだけ乱れていて、目の下に薄い影がある。


 椎名冬羽だった。


 氷彗の頭が、一瞬、真っ白になる。


「……え?」


 声がうまく出ない。


 ここは大学だ。

 スタジオでも、アトリエでもない。


 自分のテリトリーの中に、彼が立っていることが、現実味を持てない。


「ごめん。驚かせたよね」


 冬羽は少しだけ困ったように笑った。


 笑い方は、派手な世界の人のものじゃない。

 炎上中の人でもない。


 むしろ、ひどく「普通」の温度を持っている。


「……どうして、ここに……」


 氷彗がやっと絞り出すと、冬羽は視線を猫に戻したまま言った。


「君のお姉さんに聞いた。この大学に通ってるって」


 そう言って、彼は一歩だけ氷彗に近づいた。


 近づかれたのに、圧迫感はない。

 ただ、心臓だけがやけに騒がしい。


「姉が……?」


「うん。炎上が飛び火しちゃったから」


 氷彗は咄嗟に、盾の代わりにカメラを胸の前に抱えるようにした。


 ――あなたは、大丈夫なんですか?


 たずねようとして、やめた。


 大丈夫じゃないと言われたとしても、自分にできることなんて何ひとつない。


 撮影者である氷彗は、彼を光の当たる場所へ……。

 言い換えれば、四方八方から石を投げられる広場へ引きずり出した責任がある。


 その責任を、二十歳そこらの自分が背負えるはずもない。


「……私のせい、ですよね」


 絞り出すような声が、春の陽光に透けて消える。


 猫は退屈そうに前脚を舐め、冬羽はポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと空を見上げた。


「別に誰のせいでもないよ。俺、あのとき、君になら壊されてもいいと思った」


 心臓が、鋭く脈打つ。


 冬羽は、最初から氷彗に破滅を差し出していた。


「壊されてもいいなんて、それは究極の依存で、最高ですね」


 氷彗の頬が、勝手に緩む。


 冬羽は少しだけ目を見開いて、それから静かに笑った。


「うん。君はやっぱり、思っていた通りに最悪だ」


 冬羽の声は、ひどく穏やかだった。

 拒絶でも軽蔑でもなく、まるで手近な花の名前を呼ぶような無頓着さで、彼は氷彗の歪さを肯定した。


「今回炎上してるのは、俺のせいじゃない。けど、君の写真のせいでもない」


 その言葉が、氷彗の胸に優しく刺さった。


「写真、良かった」


 冬羽はそれだけ言うと、ほんの少しだけ目を細めた。

 褒め言葉の形をしているのに、どこか真剣で、逃げ道がない。

 氷彗は、喉の奥が熱くなるのを感じた。


 嬉しい、の前に、怖いが来る。

 褒められると、どこかが露出する。


「……ありがとうございます」


 氷彗が俯くと、冬羽は続けた。


「仕事を頼みたい」


「……仕事?」


「うん。写真。君に」


 思考が追いつかない。

 言葉が、現実に変換されるまで時間がかかる。


「この前の写真。あの空気の切り取り方……俺には、あれが必要なんだ」


 余計なものを足さないように、慎重に言葉を選ぶ声。


「制作の周辺を、記録してほしい」


 氷彗は、石段の猫に視線を落とした。


 猫は何も知らず、ただそこにいる。

 教授の言葉が、また胸の奥で反響する。


「……私、プロじゃないです。まだ学生で……」


「分かってる。でも、だから頼みたい」


 冬羽の声は穏やかだった。

 押し付けではなく、頼みごとの温度。


「上手い写真じゃなくて、君の視線が欲しい」


 氷彗の胸の奥が、きゅっと締まる。


「……なんで、私なんですか」


 気づいたら、口に出ていた。


 冬羽は一瞬、黙った。

 それから、ほんの少しだけ視線を逸らして言う。


「……君の写真が好きだから」


 氷彗は息を呑む。


 それは告白じゃない。

 恋でも、愛でもない。


 けれど、確かに「選ばれた」言葉だった。


 指先が微かに震える。

 シャッターを切るときの高揚とは違う。


 存在そのものを肯定され、同時に引き返せない場所へ落とされる感覚。


(……この人は、私のいちばん卑しいところを欲しがっている)


「好き」という言葉は、本来もっと温かいはずなのに、彼のそれは剥き出しの刃物みたいに冷たい。


 技術でも将来性でもない。

 対象を美しく、残酷に切り取る衝動――そこを愛されたのだ。


 それは、告白ではなく、共犯の誘いだった。


「……連絡先、交換してもいい?」


 頷きかけて、止まる。


(交換したら、何かが変わる)


 スマートフォンを取り出す手が震えた。


 画面に、通知が一つ。

 数週間前の猫の写真に、例のアカウントからコメント。


 《もう写真、投稿しないの?》


 問いの形をした追跡。

 鍵をかけても、世界は放っておいてくれない。


「……どうしたの?」


 覗き込む冬羽の声は、画面の青白い光よりずっと深い。


 氷彗は、震える指で通知を弾き飛ばした。


 見たくない。

 けれど、もう見られている気がした。


 この男に、自分の歪みも逃避も、「撮りたい」という卑しい渇望も、ぜんぶ。


「……いいですよ」


 氷彗は、掠れた声で言った。


 連絡先の交換は、契約みたいだった。

 彼を撮ることは、愛することより、ずっと残酷だ。


「交換、しましょう」


 画面に触れた指先から、正体不明の寒気が背中を走る。


 操作を終えた冬羽は、満足そうに目を細めた。

 その瞳の奥に、自分と同じか、それ以上に壊れたものが澱んでいる。


 交換は、数十秒で終わった。


 なのに、世界の厚みが変わった気がした。


「ありがとう」


 冬羽が言う。


「……こちらこそ」


 氷彗は、カメラを抱えたまま呟いた。


 冬羽は猫をちらりと見て、少しだけ笑った。


「猫、逃げないね」


「……この子、いつもここにいるんです。人の都合に巻き込まれないっていうか」


「いいね」


 冬羽は、小さく頷いた。


 その「いいね」が、氷彗の胸のどこかを軽く叩いた。

 あの、あしながおじさんみたいなアカウントが落とすハートと、同じ響きで。


 氷彗はファインダーを覗く。

 猫と、冬羽の足元。

 冬の光が、二つの影を薄く重ねている。


 カシャ。


 氷彗は一枚だけ、シャッターを切った。


 顔は写らない。

 でも、そこにいた。


 そこに「いた」という足跡だけが、確かに残った。


 氷彗の世界は、まだ完全に救われていない。


 それでも。


 名前のないハートの代わりに、今日は、名前のある連絡先がひとつ増えた。


 それが、嬉しいのか怖いのか――

 氷彗はまだ、判断できなかった。


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