7話:善意の輪郭
翌朝。
氷彗はいつも通り、大学へ向かった。
キャンパスの空気は、まだ冬の匂いを残しながらも、ほんの少しだけ柔らかい。
昨日までの凍てつくような緊張を解きほぐすように、陽光がアスファルトを淡く照らしている。植え込みの奥では、硬い蕾だった木々がわずかにその口を割り、淡い桃色の兆しを覗かせていた。
「氷彗、大丈夫? ネットでなんか言われてるみたいだけど」
声をかけてきたのは、ゼミが同じだけの、名前を思い出すのに数秒かかるグループだった。
彼女たちの瞳には、純粋な心配と、それと同じくらいの分量の「蜜の味」への期待が混ざり合っている。
「心配ありがとう。でも全然、私は平気だよ」
氷彗は、鏡の前で練習した通りの、温度のない笑顔を貼り付けた。
二十歳を過ぎた人間の付き合いには、マナーとしての「踏み込まない優しさ」がある。
このへらりとした笑い一つで、深追いは禁止というラインが、すっと一本引かれる。
一人になってから、「あのアドバイスへの返しはもっと謙虚にするべきだったか」とか、「あの時の語尾は強すぎたか」なんて、脳内で行われる深夜の一人反省会。
それに心底疲れ果てていた氷彗にとって、この薄っぺらな関係性は、息をするためのシェルターのようなものだった。
けれど、その平穏なバリアを、無遠慮に踏み荒らす者は、どこにだって存在する。
「ねえ、実際のところ、冬羽ってやっぱイケメンだった?」
悪気のない好奇心という、最もタチの悪い暴力。
「それは……」
氷彗が返答に窮して唇を噛んだ、その時だった。
「仕事の守秘義務って言葉、知らない?」
横から割り込んできたのは、長田だった。
整った顔立ちに、快活なオーラ。彼は、自分がその場に現れるだけで空気が華やぐことを熟知している、この世界の「陽」の象徴のような男だ。
「氷彗はプロとして撮ったんだから、そんな簡単にモデルの正体バラすわけないだろ。ほら、散った、散った。講義始まるぞ」
長田がひらひらと手を振ると、食い下がっていた女子たちも、「もー、長田くんが言うなら仕方ないか」と頬を染めて引き下がっていく。
「……ありがと、長田くん」
「いいって。困った時はお互い様だろ」
長田は爽やかに笑って、氷彗の肩を軽く叩いて去っていった。
彼はきっと、自分がヒーローのように氷彗を救ったと信じている。
それが、氷彗の輪郭をどう書き換えているかには、気づかないまま。
世の中は、いつだって彼のように、声を上げられる者の味方だ。
人望の厚い彼が助け舟を出せば出すほど、氷彗の孤立は深まり、その「異質さ」が際立っていく。
(ありがたいけど……ちょっと迷惑)
性格が終わっている本音は、心の中でだけ呟いて、氷彗は逃げるように講義棟の階段を上がった。
ふわりと、肩で揃えた髪の毛を春風が揺らした。
そのわずかな重みさえ、今はひどく疎ましい。
長田が叩いた肩のあたりが、まるで低温火傷でもしたかのように熱を持ち、じんわりと嫌な汗が滲んでいる。
「……最悪」
吐き捨てた言葉は、誰にも聞こえない。
階段の踊り場にある窓ガラスに、一瞬だけ自分の顔が映った。
さっきまで長田や友人たちに向けていた、あの空疎な「へらりとした笑顔」が、まだ顔に張り付いている。
剥がれかけた安っぽい壁紙みたいで、吐き気がした。
助けてもらった感謝よりも、自分の輪郭が他人の善意によって勝手に書き換えられていくことへの、じっとりとした不快感だけが、春の陽気の中で澱のように溜まっていく。




