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6話:光が拡散される夜

 インタビュー記事が公開されたのは、撮影から三日後の夜だった。


 深雪から送られてきたリンクを開いた瞬間、氷彗は一度、呼吸を忘れた。


 画面いっぱいに広がるのは、逆光の中で輪郭だけを持つ青年――椎名冬羽の「存在」だった。


 顔は写っていない。

 写っていないのに、目が離せない。


 窓枠に置かれた指先。

 白いシャツの裾に溜まる薄い影。

 窓ガラスに滲んだ輪郭が、まるでそこにいない人の残像みたいに揺れている。


「存在しているのに、そこにいないみたい、か」


 深雪が言った「掴みどころのない感じ」が、記事の中にそのまま息をしていた。


 氷彗は、撮影者の部分に「今泉氷彗」と小さく記されているのに気づく。


 姉が気を利かせて載せてくれたのか。

 それとも、撮影者を必ず記載するルールがあるのか。


 どちらの理由で自分の名前が掲載されたのか、氷彗にはわからない。


「これ、私が撮ったんだ」


 主役は、間違いなくSNSで正体不明の音楽アーティストとしてバズっている椎名冬羽だ。


 撮影後、検索してたどり着いた彼の音楽は、脳裏に浮かぶ情景を、濁りのない解像度で音像化した作品だった。


 ひとたび再生ボタンを押せば、現実の雑音は無慈悲なほどに遮断され、氷彗の意識は、彼が設計した透明な箱の中へ沈められていく。

 呼吸をするたび、その透明な旋律が静脈の隅々にまで行き渡り、体温を奪っていく。


 冷たくて、あまりにも美しい。

 溺れているのに、苦しくない。


 自分の名前が、その美しさの傍らにそっと添えられている。

 独りよがりの足跡だと思っていた自分の視線が、椎名冬羽という巨大な引力を持つ存在を介して、初めて社会という広い海に放たれた。


 氷彗は、恐怖に心臓を掴まれる気持ちで画面をスクロールした。


 SNS上にアップされた記事は、良くも悪くも、瞬く間に拡散されていくものだ。

「共有」という名の暴力的なボタンが押されるたびに、氷彗がファインダー越しに独り占めしていたはずの静謐な時間は、無数の他人の指先に弄ばれていく。


『今まで誰も撮れなかった彼の正解』

『顔が見えないのに、こんなに温度を感じる写真は初めて』

『このカメラマン、誰?写真から音が聞こえてきそう』


 流れていくのは、驚嘆と賞賛の言葉たちだ。


 氷彗はその文字列を、指でなぞるように眺めた。

 自分の存在は見えないのに、自分の視線が、誰かに届いている。


 胸が、少しだけ浮く。

 そのまま、足元が頼りなくなった。


 氷彗は、吸い寄せられるように自分のアカウントを開いた。


 通知欄には、見たこともない数の赤い数字が躍っている。

 氷彗の名前を記事で見つけた人たちが、彼女の過去の投稿――あの猫の写真や、薄暗い部屋の隅、逃げるような光の記録に辿り着き、「いいね」をそっと置いていた。


「これが、世界に晒されるってことなのか」


 冬羽のぼんやりした輪郭から辿った人が、氷彗の「足跡」を見つけている。


 指先が熱くなる。

 誰かに見つかることが、こんなにも恐ろしく、そしてこんなにも心震えることだなんて知らなかった。


 スマートフォンを伏せると、部屋が急に静かになった。

 さっきまで画面の中でざわついていた世界が、薄い壁一枚で遮断される。


(……変な感じ)


 嬉しいのに、落ち着かない。


 名前も顔も出していない冬羽の「正体不明さ」が話題になるたび、氷彗は自分の中の「隠れたい部分」を撫でられている気がした。


 深呼吸をして、スマホを手に取り、画面に視線を落とす。


 一番上の猫の写真についたいいねのハートは、三百近くあった。


 いつもは通り過ぎるだけの人が、氷彗の写真で立ち止まった証拠だ。


 三桁のハートが、いつもよりずしりと重く感じる。


 ――いいね。


 その数は、もう数えるのを諦めるほどに積み重なっている。

 けれど、氷彗の指が探していたのは、その巨大な数字の塊ではなかった。


 画面を一番下までスクロールし、最初の方に届いていた通知を遡る。

 数えきれないほどの「いいね」の通知が滝のように流れ去った、その奥。


「あった」


 いつもの、名前のないアカウント。


 あしながおじさんのような、あの記号の羅列のアカウント。

 それは、数える必要のない場所に、最初からあった。


 静かに、けれど一番最初に、そこにいた。


 氷彗はスマートフォンを置き、深く息を吐いた。



 *



 数日後、熱狂の揺り戻しは、思っていたよりも静かにやってきた。


 最初は、違和感だった。


 《狙いすぎ》

 《雰囲気だけ》

 《媚びてる》


 短い言葉が、整然と並ぶ。

 感想というより、ラベル。

 写真に貼られた値札みたいな文字列だった。


 画面を撫でる指先に、ひやりとした感触が残る。


 賞賛が多ければ多いほど、その裏側に溜まったものは濁る。


 氷彗は、その仕組みを知っているつもりだった。


 自分も、それを利用して世間を味方につけて、Pipi⭐︎Dotのナナを、元彼を許せない気持ちを、匿名で発信したことがあるから。


 それでも、実際に矢印が自分へ向いた瞬間、思考より先に身体が強張った。


 やがて、話題は写真そのものから離れて、被写体に向いた。


 《冬羽の正体、これじゃない?》


 誰かの憶測が、次の誰かの断定に変わるまで、ほとんど時間はかからなかった。

 過去の断片、切り取られた画像、都合のいい文脈。


 画面の中で、冬羽の輪郭が、別の誰かの手によって書き換えられていく。


 氷彗の脳裏に、あの日の声が蘇る。


『……ずっと隠れてたけど、それも違う気がして』


 あれは、戦略なんかじゃなかった。

 ただ、生き延びるための姿勢だったのだと思う。


 それでも文字は、容赦なく並ぶ。


 《過去から逃げてただけ》

 《演出乙》


 匿名という軽さが、言葉を刃物に変える。


 写真は、もう氷彗の手を離れていた。

 ファインダー越しに確かにあった静寂が、他人の言葉で解剖され、意味を付け足されていく。


「……気持ち悪い」


 思わず、声が漏れた。


 スマートフォンが震えるたび、胸の奥がざわつく。

 肯定も否定も、等しく暴力的に感じられた。


 氷彗は逃げるように、自分のアカウントを非公開にした。


 自分が世界に晒したくせに、いざ文句を言われると、怒りが込み上げてくる。


 自分勝手なのは分かっている。

 誰かに見せるということは、誰かの靴底で踏みにじられる権利を認めることと同義だ。


 公開することがわかっていて、カメラマンになったのは、全部自分なのに。


「みんな、消えばいいのに」


 矛盾した感情が胸の内で飽和し、鋭い痛みとなって胃を焼く。


 鍵をかけたところで、一度放たれた写真はもう回収できない。

 デジタルという名の海に投げ込まれたそれは、氷彗の手を離れ、独り歩きをしながら「今泉氷彗」という人間の評価を勝手に書き換えていく。


 まるで、自分が冬羽の「存在の薄さ」を撮った報いを受けているかのようだった。

 彼を消費可能な「作品」に落とし込んだ罰として、今度は自分が、見えざる大衆の悪意に消費されている。


 その時、画面上部に通知が飛んできた。

 開かなくても見えてしまった、短い文章。


『燃えてるけど、大丈夫?』


 元彼からのDMは、氷彗がかつて放った呪いのブーメランだった。


「大丈夫?」なんて、世界で一番無責任な言葉だ。


 心配しているふりをして、相手が「大丈夫じゃない」と認めるのを待ち構え、その脆さを利用して、自分を正当化しているに違いない。


 ――ねえ、今どんな気持ち?

 ――自分がやってきたこと、そのまま返ってきてるよ。


 そんな声が、行間から滲み出して、部屋の空気を腐らせていく。


「……っ、うるさい……」


 氷彗は膝を抱え、震える指でスマートフォンの電源を落とした。

 画面が消え、暗転した表面に、脂ぎった指紋と、ひどく惨めな顔をした女が映る。


 静まり返った部屋で、自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。


 見つかるということは、消費されるということなのか。

 それとも、まだ知らない形があるのか。


 答えが出ない一人の夜は、吐き気がするほど、彼の不在を際立たせる。

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