5話:いいねの正体
「冬羽さん、今日は久しぶりのメディア露出ですよね。どうしてこのタイミングで受けようと思ったんですか?」
深雪のインタビューが始まる。
「……そろそろ、いいかなって。ずっと隠れてたけど、それも違う気がして」
「隠れてたって言い方、面白いですね」
「うん。でも、今もまだ……全部を見せる勇気はないんです」
その言葉に、氷彗の指がシャッターボタンに触れた。
カシャ。
窓枠に置かれた手。
カシャ。
床に落ちた細い影。
カシャ。
白いシャツの裾が、風もないのにかすかに揺れている。
「SNSでは顔も名前も隠してるのに、曲だけでここまで人気が出るって、すごいことですよね。ファンの人たちのことは、どう思ってますか?」
「……ありがたいです。でも、たまに怖くもなる」
「怖い?」
「はい。期待されすぎるのが」
氷彗の胸が、きゅっと締めつけられた。
「それでも、発信し続ける理由は?」
「……誰かに、届いてほしいから、ですかね」
その声の奥に、何かが滲んでいる気がした。
孤独や渇望。そういう名前のつかない感情。
氷彗は無意識にシャッターを切っていた。そして、冬羽の横顔がわずかにファインダーの端に入った瞬間、息を呑む。
一瞬、視界が止まった。
心臓が、不意に跳ねた。
逆光に溶けて、輪郭だけが「人の形」を保っていた。
伏せられた睫毛が、頬に影を落としている。
静謐と孤独を混ぜ合わせたような、完成された造形。
けれど、何より氷彗を動揺させたのは、その瞳だった。
深い夜の湖に月光が差し込んだような、底の知れない透明感。
「あ……」
不意に、視線がぶつかる。
その瞬間、元彼が追いかけていたアイドルの笑顔や、派手なタイムラインが、砂のように崩れ去った。
彼が「隠れていたい」と願う理由が、痛いほど分かってしまう。
この無防備で鋭利な美しさを晒したら、きっと一瞬で消費され、削られてしまう。
「……どうかしましたか?」
冬羽が、少しだけ小首を傾げる。
氷彗は慌ててファインダーの裏側へ逃げ込んだ。
「いえ……光が、あまりに綺麗だったので」
「光、ですか」
彼は意外そうに呟き、また窓の外へ視線を逃がす。
今の氷彗には、その姿を「綺麗」だと切り取る以上に、この人が放つ、触れたら壊れてしまいそうな静寂ごと、写したいという衝動があった。
「氷彗、どう? いい感じ?」
深雪の声に、我に返る。
「あ、はい……大丈夫です」
カメラを構え直す。
「冬羽さん、SNSではファンと交流しないんですか?」
「……あんまり。コメントもDMも返さないから、冷たいって言われます」
「でも、いいねはするんですよね?」
「うん。それだけは、する」
氷彗の手が、止まった。
「どうして、いいねだけ?」
深雪が、首を傾げる。
「……言葉にすると、嘘っぽくなる気がして」
冬羽は、少しだけ笑った気配を滲ませた。
「いいねだけなら、ただそこにあるものを肯定できる。余計なものを足さずに」
その言葉が、氷彗の中で何かを揺らした。
――いいねだけをくれる、名前のない誰か。
ポケットの中のスマートフォンが、急に重くなった気がする。
(余計なものを足さずに、ただ肯定する)
それは、氷彗が受け取ってきた、たった一つのハートの感触、そのものだった。
氷彗は、ファインダー越しに冬羽の指先を見る。
「それって……優しいですね」
深雪が、しみじみと言う。
「そうかな」
「だって、何も言わずに肯定するって、すごく難しいことですよ」
冬羽は少し考え、それから静かに答えた。
「……俺も、誰かにそうしてほしかったから」
その声が、わずかに震えた。
氷彗は反射的にシャッターを切る。
冬羽の背中。 窓ガラスに映った、ぼんやりとした輪郭。
「……氷彗さんは、SNSやってる?」
不意に、こちらを向かれる。
慌ててカメラを下ろし、視線を逸らす。
「あ、はい……少しだけ」
「写真、載せたりする?」
「……たまに」
嘘をついたからか、心臓が、激しく脈打つ。
「写真家になるの?」
喉が詰まった。
「……なりたくて、なれるものじゃないので」
俯いたまま言葉を吐き出す。
可愛げのない返答だと、自分でも思う。
大きなコンテストで入賞した経験もなく、一番身近にいた恋人にさえ、写真を「独りよがりだ」と切り捨てられたことがある。
「私には、これっていう強みがないんです。誰かが喜ぶような華やかな光は撮れないし、ただ……自分が今、ここにいるっていう足跡を残すのが精一杯で」
冬羽は、遮らず、ただ聞いていた。
「足跡で、いいと思う」
低い声が、静かに染み渡る。
「名前なんて、記号でしかない。誰かに何かを教えるための道具だ。でも、その足跡がどこに向かって、どんな風に歩いているのか……それを見てくれている人は、きっといると思う」
彼は、氷彗の持つカメラを、まっすぐ見つめた。
「氷彗の写真、覚えてしまうんです」
深雪が、誇らしげに頷く。
「誰も気づかない小さなものばかり撮るんですけどね」
「……それ、いいね」
冬羽の声が、少しだけ温かくなった気がした。
「存在してるのに、見過ごされてるものばっかだね」
彼の言葉が、あまりにも自分の撮りたいものと重なっていて、氷彗の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「もう少し寄りで撮ってみて、氷彗」
深雪に促されて、氷彗は一歩、また一歩と近づいていく。
冬羽は動かない。 ただ静かに、窓の外を見つめたまま。
近づくほど、その存在が大きくなる。
(これが、芸能人のオーラってやつなのかな)
けれど不思議と、圧迫感はなかった。
ファインダー越しに見える横顔。
その輪郭が、光の中に溶けていた。
カシャ。
シャッターを切った瞬間、冬羽が小さく呟いた。
「……ありがとう」
「え?」
「写真、撮ってくれて」
氷彗の指が、震えた。
「いえ、こちらこそ……」
「俺、久しぶりに撮られた気がする」
冬羽はそう言って、少しだけ笑った。
「カメラに、じゃなくて。誰かに」
その言葉の意味が、氷彗にはすぐには理解できなかった。
でも、すぐに胸の奥が熱くなる。
(私も、いいねをもらった気分です)
氷彗は、一対一の愛に敗れて、誰かの「一番」になれなかったし、目の前の冬羽が自分の存在に気付いたかどうかは、分からない。
氷彗はもう一度、ファインダーを覗く。
今度は、少しだけ勇気を出して、冬羽の横顔を光の中に捉えた。
シャッターを切る。
そこに自分がいることを、確かめるみたいに。




