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4話:逆光の中で

「氷彗! ごめん、お待たせ!」


 不意に喧騒を切り裂いて届いた声に、氷彗は跳ねるように肩を揺らした。

 顔を上げると、ベージュのトレンチコートの裾をなびかせ、大きなバッグを肩にかけた深雪が、小走りでこちらへ向かってくる。


 氷彗は慌ててスマートフォンをポケットの奥深くに押し込んだ。

 さっきまで画面の裏側にいた「名前のない誰か」との静かな共鳴が、深雪の放つ現実的な空気に触れた瞬間、霧散していく。


「……お姉ちゃん、遅いよ」


「ほんとごめん! 編集部との打ち合わせが長引いちゃって。ほら、もう入り口開いてる。急ぐよ!」


 深雪は氷彗の冷えた手を引くようにして、重厚な門の中へ足を踏み入れた。

 石畳を叩くスニーカーの軽快な音が、冬の名残を含んだ冷たい空気に小気味よく響く。


「……ねえ、今日撮る人って、どんな人なの?」


 歩きながら尋ねると、深雪は前を向いたまま、どこか誇らしげに口角を上げた。


「今、SNSで正体不明でバズってるアーティスト。顔出しもしないし、メディアにもほとんど出ないんだけど、曲を出すたびに世界中がざわつくの。今日は、その初めての独占取材」


 正体不明。

 その言葉に、氷彗の眉がわずかに寄る。


「正体不明なのに……写真、撮っていいの?」


「そう。ようやくOKが出たのよ。ただし、『顔をはっきり写さないこと』が条件。ニュアンスとか、指先とか、その場の空気感だけを切り取ってほしいんだって」


 深雪は歩くスピードを緩めないまま、早口で続ける。


「それって、あんたの得意分野でしょ?存在してるのに、そこにいないみたいな、あの掴みどころのなさ」


 氷彗は黙って、肩にかかったカメラバッグの重みを確かめた。


 教授に課題に出された「存在しない光」という言葉が、不意に耳の奥で蘇る。


(隠れたがっているものを、撮る……)


 さっきの猫と、同じだ。

 人間の都合に巻き込まれず、ただそこに在るだけの何か。


 思いのほか大役を任されてしまった現実に、胃のあたりがきゅっと収縮する。


「未来の写真家さん、期待してるわよ」


 調子よくそう言って、深雪が洋館の重厚な扉に手をかけた。


 錆びた音が低く鳴り、その向こう側から、冬の埃を春の光が撫でるような、不思議な静寂が流れ込んでくる。


 一対一の愛に敗れ、自分の居場所を見失ったと思っていた。

 それでも、ポケットの中に残る消えないハートと、これから向き合う「名もなき光」が、氷彗を地上から数センチ浮かせ、新しい場所へ運んでいく。


「……準備して、氷彗。あんたの視線が必要なんだから」


 扉の向こうに広がる撮影スタジオの奥。

 冬の薄い光を背負い、窓の外を眺めている人影があった。


 細身のシルエット。白いシャツに黒いスラックスという、ひどくシンプルな装い。

 逆光のせいで表情は見えない。ただ、その佇まいだけで、この空間の主役が誰なのかは一目で分かった。


「冬羽さん、お待たせしました」


 深雪が弾んだ声で近づく。

 氷彗は後ろから、なるべく気配を消すようについていく。


「……いえ、こちらこそ」


 低く、柔らかな声。


 冬羽は窓辺から離れ、ゆっくりとこちらに向き直った。


 氷彗は咄嗟に視線を落とす。

 顔をはっきり写さないという約束があるなら、最初から視界に入れないほうがいいと思ったからだ。


「今日はこちら、私の妹の氷彗が撮影を担当します。美大で写真をやっていて、とても繊細な子なんですけど、センスは抜群なので」


 トン、と深雪に肩を押され、氷彗はさらに深く頭を下げた。


「……はじめまして。今泉氷彗です」


「はじめまして。椎名冬羽(しいなとわ)です」


「すみません、緊張していて……どこに立ってもらえば、一番自然ですか?」


 早口で、逃げ出すように問いかけた氷彗の言葉は、埃が舞うスタジオの静寂に、場違いな波紋を広げた。


「自然、か」


 冬羽は、その言葉の響きを確かめるように繰り返した。 彼の声は、ひどく耳に心地よい。同時に、他人の侵入を許さない絶対的な防壁のようでもあった。


「どこでもいいよ。君が、いいと思う場所で」


 優しい、と感じてしまった自分に、少しだけ警戒する。


 氷彗は視線を上げかけて、ぎりぎりで止める。

 代わりに、彼の指先を見る。


 長く、綺麗な指。

 音を紡ぐ人の手だ。


 その指先が、窓から差し込む斜光を透かして、わずかに震えているように見えた。


(……緊張してるのかな)


 自分以上に「正体不明」という盾を掲げて世界と対峙しているこの人も、

 閉ざされた空間で、他者の視線に晒されることを恐れているのかもしれない。


 そう思った瞬間、自分でも理由の分からない親近感が、胸の奥に引っかかった。


「じゃあ……窓際に」


 深雪がセッティングを手伝う間、氷彗はファインダーを覗き込み、光の具合を確かめる。


 逆光。

 白飛び。

 シルエット。


 顔をはっきり写さないという制約が、不思議と氷彗の中で「救い」になっていた。


 ファインダー越しの世界は、現実よりも、ほんの少しだけやさしい。

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