3話:いいねをくれるだけの人
キャンパスを出て、指定されたスタジオまでは歩いて十五分ほどだった。
かつては個人の邸宅だったのだろう。蔦の絡まった重厚な門構えの洋館が、通りの先に姿を現す。
『門の前で集合ね』
深雪からの簡潔なメッセージを確認し、氷彗は門の脇に身を寄せた。
姉はまだ来ていない。
手持ち無沙汰になると、指は呪いにかかったみたいにスマートフォンを叩く。
SNSアプリを開いて、元彼のタイムラインを更新する指の動きは、もう「意志」じゃなかった。
ただの反射だ。
『生誕祭、連番してくれる人見つかった! ナナちゃんに会えるまであと少し。バイト頑張れる』
「……なにそれ」
乾いた笑いが、冬の空気に白く混じる。
自分という、たった一人の人間さえ幸せにできなかった男が、画面の向こう側にいる、自分を知りもしないアイドルのために、これほどまでに純粋な熱量を捧げている。
どうして、自分だけを好きになってくれるわけでもない人に、そこまでのエネルギーを注げるんだろう。
「理解できないし、理解したくもないけどね」
一対一を避けるみたいに、不特定多数の「好き」に沈んでいく彼の感性が、今の氷彗には、どうしても生理的に受けつけなかった。
(……でも、一番キモいのは私だ)
そんな彼の投稿をいちいち確認し、通知すら切っていない自分。
嫌悪しながらも、彼の視界の端にすら入れない自分を再確認しては、心の傷を何度も抉り続けている。
「馬鹿みたい」
自嘲の笑みが、冷えた頬を引き攣らせた。
氷彗は深く息を吐き、逃げるように別のアプリを開く。
写真の編集画面。さっきカメラで撮った猫の写真をスマホに転送したものを加工する。
少しだけ暗くして、白飛びした窓の光を落とし、毛並みの影を浮かび上がらせる。
ありのままの猫でも充分だと思う自分がいるのに、氷彗は加工する。
加工しておかないと、怖いから。
リアルを隠すことが、ネットでのマナーみたいな世界で、ありのままを晒すのは、やっぱりリスキーだ。
撮った写真は、誰にも見せなくても成立する。
画像フォルダの中に、保存されるから。
怖いなら公開しなければいい。そう思うのに、氷彗の中に、「見てほしい」という願いが、まるで亡霊のようにまとわりついている。
(これは、私が今日も生きてる印で……足跡みたいなもの、だし)
そう言い訳しながら、氷彗は文章を打った。
『今日の光は、逃げるみたいに薄かった』
いつも、投稿ボタンの前で、一度指が止まる。
「よし」
気合を入れて、投稿ボタンを押す。
画面がくるりと回り、タイムラインに自分の写真が載る。
猫の目は半分しか写っていない。
なのに、妙に自分に似ていた。
氷彗はスマートフォンから視線を逸らし、空を見上げた。
厚い雲の隙間から、春の予兆みたいな、妙に明るい光が漏れ出している。
さっき加工した写真のように、影を孕みながらも、どこか浮き足立つような淡い色。
「……春、か」
画面が見えないだけで、心臓の鼓動が少し落ち着く。
いいねの数なんて、どうでもいいはずなのに、それでも、誰かの反応が気になってしまう。
氷彗は結局、スマートフォンを裏返した。
通知が一つきていて、視線が吸い寄せられるように落ちる。
「あ、また……この人だ」
名前のないアカウント。
正確にはIDはある。でも、無意味な記号の羅列で、アイコンも風景の切れ端みたいな画像だった。性別も年齢も分からない。
自己主張が当たり前のSNSで、あえて透明人間になりたいみたいな、不思議な存在。
それなのに氷彗は、その「存在」を覚えていた。
毎回、何も言わずに。
ただ、氷彗の写真に、いいねをくれる。
あしながおじさんみたいな人だ。
氷彗は画面を見つめたまま、指先をぎゅっと握り込んだ。
(……一瞬でも、選ばれた)
たった一つのハート。けれどそれは、「誰かが私の写真の前で、指を止めた」という確かな証拠だった。
目まぐるしくスクロールされ、消費されていく情報の濁流の中で、自分が切り取った一瞬だけが、見知らぬ誰かに、ほんの少しだけ優先された瞬間。
「こんなに軽いのに」
小さな画面の上で、指先を少し動かすだけなのに、まるで心の処方箋みたいに、今の氷彗をふわりと浮かび上がらせる。
彼に「メンヘラ」と断じられた重い感情も、居場所を探して泥沼を這うような苦しさも、そのたった一つの記号が、一時的に氷彗を無重力にしてくれる。
氷彗はスマートフォンでカメラを起動し、空に向けた。
シャッターは切らない。ただ、四角い画面越しに切り取られた空の青さを眺める。
そこには、元彼の無神経な投稿も、自分をすり減らすタイムラインも入り込まない。
光と影と、春を待つ気配だけが閉じ込められていた。
その時、スマホが震えた。
氷彗はビクッとして画面を見る。
通知は、いいねではない。
コメントのマークだった。
(え……?)
心臓が一段、速くなる。
あのアカウントだ。
指が冷えるのを感じながら、コメント欄を開く。
短い一文。
『逃げたんじゃなくて、隠れたみたい』
それだけ。
句読点も、絵文字もない。
優しくもないし、突き放してもいない。
でも、背中のどこかを、指先で軽く叩かれたみたいに、息が詰まった。
「……隠れた」
(……そこ、わかったんだ)
光のことを言っているのに、まるで自分のことを言われたみたいだった。
氷彗は画面を見つめたまま、喉の奥がじん、と痛くなる。
返信を打とうとして、止まる。
「何て返すの……」
ありがとう。
嬉しい。
そんな言葉は、薄すぎる。薄い言葉を返した瞬間、つまらない人間だと思われて、二度と「いいね」をもらえなくなるのが怖かった。
氷彗は目を閉じる。
無機質なブルーライトが消え、代わりに街の体温が流れ込んでくる。
大型トラックの低いエンジン音。
横断歩道の電子音。
誰かの笑い声と、コンビニ袋の乾いた擦過音。
すべて、通り過ぎていく音。
誰も立ち止まらず、誰も深く関わろうとしない、匿名性の高い都会の喧騒。
その中で、不思議と今の自分だけが、少し別の気流に浮いている気がした。
やっと、文字を打つ。
『隠れるの、得意なんです』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
氷彗は、写真の下に残るハートを見つめる。
消えないのに、触れられないハートが、そこにある。
顔も、年齢も、本名も。
相手の履歴書は、ここにはない。
ネットで何でも分かる時代なのに、
一番知りたいところだけが、真っ暗だ。
氷彗は笑いそうになって、笑えなかった。
もし、この人が現実の誰かだったら。
同じ学科の誰かだったら。
すれ違ったことのある誰かだったら。
考えかけて、首を振る。
(だめだ。探すな)
探したら、また始まってしまう。「誰なの?」が「どっちが大事?」に変わって、最後は「答えないと死んでやる」になる。
自分が自分を追い詰める道を、もう知っている。
(だから、この人は……いいねをくれる、私のあしながおじさん)
氷彗は、画面の裏側にいる誰かへ、心の中だけで言った。
(名前を知らないまま、私を見てくれてありがとう)




