4話|名前を呼ばれないまま
夜のスタジオは、昼の熱を拒絶するように静まり返っていた。
照明を落とした室内で、機材のシルエットが床に長く、鋭く伸びている。
無機質な吸音壁。
役目を終えたマイクスタンド。
誰もいないはずの空間に、誰かが吐き捨てた呼吸の残滓だけが漂っている。
冬羽は、その中心で椅子に深く腰掛けたまま、石像のように動かない。
曲は、もう形になっている。音の連なりも、言葉の選択も、破綻は見当たらない。
今のトレンドを適度になぞり、大衆の耳に心地よく滑り込む程度の「正解」も、すでに用意できている。
仕事としては、文句のつけようがないはずだった。
それなのに、録音ボタンを叩く指が、どうしても動かない。
かつては、逆だった。
止まりたくても、止まれなかった。
投げつけられる「名前」に、疑問を抱く余地すらなかった。
――ECHO-ISMのセンター。
分かりやすく、消費しやすく、そして捨てやすい。
その記号は、あまりに便利すぎた。
みんなが欲しがる反応を、過不足なく、完璧に提供し続ける。呼ばれれば愛想を振りまき、褒められれば期待通りの笑みを浮かべ、求められれば、その通りに壊れてみせる。
そうやって「模範的な偶像」を演じきった、その果てで、待っていたのは、身に覚えのないスキャンダルという、あまりに無残な幕引きだった。
真っ赤な嘘で塗り固められた物語が、一夜にして「トワ」という人格を上書きする。
弁明の余地も与えられないまま、信じていた場所から、爪弾きにされた。
叩かれ、石を投げられ、最後は、脆く崩れ去る。
その役割に、いつしか自分そのものが食いつぶされていた。
他人の期待と悪意に反応しすぎた結果、核は失われていた。
だから、消えた。
ECHO-ISMのトワという、他人に都合よく汚された名前を、自分自身の手で殺し、葬り去る以外の選択肢は、もう残っていなかった。
*
スマートフォンが、机の上で震えた。
通知は、相変わらず多い。
絶え間なく溢れ出す通知の列。賞賛。罵倒。憐憫。憶測。そのどれもが「分かったつもり」の安っぽい名前と共に、整然と陳列されている。
手を伸ばしかけて、指先が止まる。
バックライトが点灯し、暗い部屋の片隅で長方形の光が浮き上がる。そこに並ぶ文字列は、椎名冬羽という人間を解体し、再構築した「誰かのための解釈」だ。
冬羽はアカウントを切り替える。そこには、夜の歩道橋の下で、街灯がアスファルトに落とした、歪な光の塊があった。
氷彗がアップした、一枚だ。
「……あぁ」
喉の奥で、乾いた音がした。
画面越しに、自分の内臓を素手で掴まれたような感覚になる。
世界は彼を「ECHO-ISMのセンター」という記号で見ていた。スキャンダルの後は「堕ちた偶像」という記号で見た。そして今は「再起をかけるアーティスト」という、これまた都合の良い物語を押し付けようとしている。
けれど、氷彗だけは違った。
彼女が撮ったこの歪な光には、同情も、期待も、軽蔑もない。ただ、そこにある「不格好な実在」だけが、冷徹なまでに鮮やかに固定されている。
(救いようがないくらい、綺麗だよな)
冬羽は、動かなかった指で画面を叩く。自分の正体を暴かれた恐怖よりも、誰にも見つけられなかった「自分」を、彼女の視線が正確に射抜いたことへの、奇妙な高揚。
メッセージアプリを起動して、文字を入力する。
《僕を、こんなふうに見てるんだね》
返信は期待していない。彼女は、送った瞬間に自分を支配したつもりでいるだろうし、実際、今の冬羽の動揺は彼女の計算通りなのだろう。
再度、彼女のSNSに戻る。
自分が映る写真までスクロールして、指を止めた。
そこに並んでいるのは、甘い慰めでも、誰かに向けた微笑みでもない。ただ、光が、暴力的なまでの純粋さでそこにあった。
見覚えのある場所。 見覚えのある、肌を刺すような冷たさ。それなのに、透明にされ続けてきた自分が、初めて世界に「硬い実体」として掬い上げられた気がした写真。
氷彗は、彼を説明しようとしない。可哀想な元アイドルとも、再起を図るアーティストとも、そんな便利な言葉で冬羽を枠に嵌めようとはしない。
理解もしない。 救いもしない。
ただ、そこにあるものを、彼女の勝手な美学で、勝手に、永遠に残すだけだ。
一方的で、傲慢な、暴力。
残されることは、怖い。一度定着してしまえば、もう逃げ隠れはできないから。でも、誰からも見られず、都合よく上書きされ、消えていくよりはずっとマシだ。
だから、彼女の「視線」が必要だ。
自分を一番に愛してくれる誰かではなく、 自分を最も正しく「物体」として切り取ってくれる、あの冷徹なシャッター音が。
*
冬羽は、ふと立ち止まって考える。
名前を呼ばれることと、見られることは、決して同じではない。
名前は、ただの配置だ。理解という名の檻であり、消費するために貼られる、賞味期限付きのラベル。
名前を呼ばれた瞬間、そこに収まるべき「形」が、先に決められてしまう。
だから、あの子は俺の名前を呼ばない。
仕事の場でも。
写真の中でも。
世界に向けて、あの「光」を放つときでさえ。
呼ばないことで、彼女は守っている。
踏み込まないための、絶対的な距離。
それは冷たさではない。「そこに在るもの」そのものに向けられた、剥き出しの敬意に近い。
冬羽は、マイクの前に立つ。ヘッドフォンを装着すると、鼓動のような自分の呼吸音が、世界のすべてになる。
録音ボタンを押す。
歌い出しは、あまりに静かだった。
意味を詰め込まない。
感情を押しつけない。
誰の名前も、呼ばない。
誰かの人生を、一言で要約するような真似もしない。
歌いながら、確信する。
(たぶん、俺はもう、誰かの期待という偶像を背負う役には、二度と戻れない)
それでも、音は止まらない。
世界は、無情なまま続いていく。
救われなくても。
理解されなくても。
*
テイクを終えて、冬羽は深く息を吐き出した。
完璧ではない。
けれど、嘘もない。
飾り立てる必要のなくなった声が、静かにスタジオの空気へ溶けていく。
冬羽はスマートフォンを手に取り、あの写真を、もう一度だけ眺めた。
夜の歩道橋。
路面にへばりつく、歪な光の塊。
誰かが「救われた」と涙を流し、誰かが「分からない」と眉をひそめ、誰かが「本物だ」と、勝手に崇める。
どれも正しくて、どれも決定的に違っている。
この写真に、タグをつける気はない。
彼女の視線に、正解を提示するつもりもなかった。
ただ、裏垢で「いいね」を押す。
それは、彼女への感謝でも、ましてや愛の告白でもない。
ここにいる。
見ている人間がいる。
その事実だけを、暗闇の中でそっと共有するための、小さな指先の振動。
かつては、数万、数十万の「いいね」に、自分の価値を預けていた。
けれど今、この一回の「いいね」は、誰のためでもない。
自分と彼女のあいだにだけ引かれた、細い一本の線だ。
冬羽は、画面を落とす。
脳裏に浮かぶのは、彼女が撮影した、自分のポートレート。
自分を、あんなふうに見る人間が、この世界に存在する。それを知ることができただけで、もう十分だった。
名前を呼ばれなくても。
記号として消費されなくても。
世界は、たしかに自分という存在を通過していく。
かつては、消えることが怖かった。でも今は、透明なままここに在ることが、心地いい。
冬羽は、スタジオの主電源を落とす。
一瞬にして訪れる暗闇。その静寂を縫うように、どこからともなく、街のノイズが滲み込んでくる。
誰のものでもない、光。
誰のためでもない、歌。
名前を奪い合う喧騒のなかで、名前を呼ばれないまま、今日も冬羽はここにいる。
*
不意に、背後で砂利を踏む規則正しい音が、夜の公園の静寂を乱した。
色褪せた街灯のオレンジ色が、ベンチに座る冬羽の横顔をなぞる。振り返るより先に、使い込まれた黒いカメラバッグが揺れる気配を、冬羽は肌で理解した。
「……来たんだ」
呟くと、ボスッとバッグを地面に置く音が返ってくる。
「そろそろ、逃げ出したくなる時間かなって思って」
氷彗の声は、冬の入り口みたいな温度をしていた。
挨拶もそこそこに、彼女はバッグから手慣れた動作でカメラを取り出す。レンズキャップを外す、カチリという乾いた音が、誰もいない遊具の間に硬く響いた。
彼女は、冬羽のすぐ隣には立たない。数歩離れた、踏み込みも拒絶もしない距離から、静かにレンズを向ける。
「そのままで。影に混ざって」
ファインダーを覗く氷彗の瞳は、冬羽の想像する、強気で華やかな女子大生のそれではなかった。
どこに触れ、どこを切り捨てるかを冷静に見極める、外科医のような、傲慢で純粋な視線。
冬羽は、自嘲気味に口角を上げる。この子には、きっと嘘は通じない。
アイドル時代、何万回と繰り返してきた「完璧な愛想笑い」を浮かべても、彼女は「ゴミを撮った」という顔をして、シャッターすら切らないだろう。
「氷彗ちゃん。君に撮られてるとさ……自分がただの『物体』になった気がするよ」
「そう」
氷彗は即答した。
「名前なんて、ただのタグだもん」
そのまま、シャッターを切る。
カシャッ、という短い機械音。
その瞬間、冬羽の内側にこびりついていた「かつての名前」の破片が、ひとつ、砂場にこぼれ落ちた。
このレンズの奥にある、彼女の視線を通した「解像度の高い世界」の一部として置かれるのなら。
それだけは、信じてもいい気がした。
冬羽は、冷え切ったブランコの鎖に指先を絡め、ゆっくりと顔を上げる。
支配されているのは、自分か。
それとも、彼女か。
答えは出ないまま、闇に沈んだ公園の隅で、二人の共犯関係が、静かに露光を始めていた。
―終―
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