3話|均一な光に、名前を与える
控え室の蛍光灯は、いつも同じ明るさだ。
影を作らない。
凹凸も、疲れも、迷いも、全部を平らにしてしまう。
だから菜々子は、この光の下では息ができる。
鏡の前に座って、メイクさんが筆を動かす。
コンシーラーで薄く、目の下の影を消す。
アイラインは予定通りの角度。
マスカラは予定通りの濃さ。
頬に乗るチークの色も、先週と同じ番号。
「今日、ちょっと目が赤いね。寝不足?」
軽い声。気遣いの形をしていて、実際は確認に近い。
菜々子は鏡の中の自分を見つめたまま、口角を上げる。
「大丈夫。乾燥かな」
大丈夫、は万能だ。この仕事における「大丈夫」は、心配しなくていい、の意味ではなく、修正できます、の意味だから。
マネージャーの佐藤が、スケジュール表を覗き込みながら言う。
「今日、入りが早いから。移動中に台本の最終チェックすること。コメント撮りも一本足すそうだ」
「了解です」
声のトーンは整っている。
整っているというだけで、問題がないことになる。
衣装が運ばれてくる。
薄いピンクのフリル。ライトを弾く素材。
触れると冷たいのに、着ると体温が奪われない。
肌と布の間に、慣れた距離ができる。
(今日も、ちゃんとできる)
菜々子はそう思えることに安堵する。
ちゃんとできることは、彼女の生活の背骨だ。
背骨があるから、倒れない。
鏡の中の自分が、微笑む。
その笑顔は、どこから見ても同じに見えるように作られている。
誰かが撮っても、誰かが切り取っても、同じ。
均一な光の中で、商品として配置されている限り、世界は優しい。
――少なくとも、壊し方は教えてくれる。
*
撮影に向かう車の後部座席は、暗くて落ち着く。
窓ガラスはスモークで、街の色が薄くなる。
街の灯りは、遠い水の底みたいに揺れている。
佐藤が運転席から、振り返らずに言う。
「さっきのリハ、良かった。トレンドも今いい感じだ」
褒め言葉は、この仕事では確認事項。
菜々子は頷く。
「ありがとうございます」
スマートフォンを開く。
通知が増えている。
ファンの言葉が流れていく。
《今日も天才》
《ナナちゃん見てると生き返る》
《かわいすぎて無理》
スマートフォンの画面を指で弾くたびに、青白い光が菜々子の顔を無機質に照らし出す。
「……生き返る、か」
小さく零した呟きは、ロードノイズに掻き消された。
誰かの絶望を、一瞬のときめきで上書きする。それがアイドルの価値であり、菜々子が日々研鑽している「技術」の成果だ。けれど、画面の向こうで「生き返った」はずの誰かが、明日また同じ絶望に沈んだとしても、菜々子にできることは何もない。
(無責任だな、私)
そう思う一方で、その無責任さこそが、この仕事を続けるための命綱だとも分かっている。
指で、無意識にスクロールする。
《最近、気になってる写真家がいるんだよね》
見慣れない投稿が、視界の端に引っかかった。
アカウントかと辿ると、知り合いのスタイリストが引用していた。
添付されている画像は、ただの光。
夜の歩道橋の下で、街灯がアスファルトに落とした、歪な光の塊だ。
顔も人物も、ない。でも何も説明していないのに、妙に視線だけが残る。
コメント欄が騒いでいる。
《この光、心臓を抉られる》
《孤独なのに、傲慢な視点》
《誰が撮ったの?》
菜々子は、その写真をじっと見た。
不快ではない。むしろ綺麗だと思う。
だけど、胸の奥に薄い棘が立つ。
この写真は、誰かに見られることを前提に作られていない。誰かを元気づけるためでも、救うためでもない。ただ、そこにあったものを、勝手に残している。
佐藤の声が続く。
「ナナ?次の現場、コメント撮りで『最近ハマってるもの』を聞かれるかも知れない。何にするか決めておこうか」
「……カフェ巡り、かな」
口が勝手に答える。
無難だし、可愛いし、誰も傷つけない。
「いいね。それで。こっちでそれっぽい店ピックアップしておく」
「お願いします」
菜々子はスタイリストが引用した写真に、再び意識を戻す。
夜の歩道橋で街灯がアスファルトに落とした光の歪みを写した写真。
「あ」
菜々子は気付いてしまう。
ブックマークの奥に押し込めた何かが、不意に、熱を持ったように主張し始める。
光の塊に、出口がない。
帰る場所も、正解も、ない。
なのに、目が離れない写真。
(今泉氷彗だ)
確信して、元画像が投稿されたページに飛ぶ。
「やっぱり……」
案の定、撮影者は今泉氷彗だった。
彼女の画像についたコメントを、菜々子は一文字ずつなぞるように読み下していく。
《救いがない。だから信じられる》
《この人のレンズは、優しさなんて一滴も混じってない》
先ほどまで見ていた、自分への熱狂的な賛辞とは正反対の言葉たち。けれど、そこには「生き返る」といった過剰な期待ではなく、もっと鋭利で、逃げ場のない共鳴が渦巻いていた。
スクロールする手を早め、ふと手を止めた。
《これ、めっちゃいいな。光の感じとか。今度また飯でも行こうよ》
あまりにも浅い言葉。その軽さと、同じ画面の中に彼女の画像があることが、嫌だった。
嫌という感情が生まれること自体が、久しぶりで、少し戸惑う。
菜々子は画面を閉じる。
閉じてしまえば、世界はまた均一になる。
でも、閉じても、あの歪な光は網膜に残った。
*
スタジオのライトは、蛍光灯とは別種の均一さを持っている。 強く、正しく、影を作らない。 カメラに映るための光だ。
「はい、ナナちゃん、笑ってー」
スタッフの声が弾む。
その瞬間、菜々子の頬の筋肉は、スイッチが入る。口角を上げ、黒目の位置を数ミリ動かし、レンズの向こう側にいる何万人もの「消費者」と目が合う角度に調整する。
「はーい、おっけー! 完璧。さすがだね、プロだなぁ」
モニターを確認するスタッフの満足げな声。それを聞きながら、菜々子は崩れそうになる口角を数秒間だけ維持して、それからゆっくりと解放した。
どれだけ睡眠不足でも、どれだけ足が浮腫んでいても、光の中に立てば菜々子は「幸せの象徴」になる。
「真緒、次、交代だって」
菜々子はすれ違いざま、出番を待つ彼女の肩を軽く叩く。さっきまでステージ袖で「マジで死にたい、この衣装のセンス悪すぎ」なんて毒を吐き合っていたのが、遠い昔のことみたいに思える。
真緒は菜々子の肩に一瞬だけ指先を這わせ、ニヤリと口角を吊り上げた。それはまだ、消費者には見せられない裏側の顔だ。
「……お疲れさま。完璧なアイドル様だったよ」
真緒の低い声は、スタジオの均一な光に溶ける前に消えた。
真緒が一歩、光の円の中へ踏み出す。その瞬間、彼女の背筋が劇的に伸び、瞳にキラキラとした潤いが宿る。さっきまで毒を吐いていた薄い唇は、今はまるで世界中の祝福を一手に引き受けたような、柔らかい三日月を描いていた。
菜々子はそれを見届けず、廊下へと足を向ける。
控室に戻る途中、廊下の壁に貼られたポスターが目に入った。
知らないアイドルグループの笑顔。
菜々子と同じ、均一な光。均一な幸福がそこにある。
ふと、さっき見た歪な光の塊が、また浮かぶ。
(あれは、どこに行くんだろう)
意味を与えられないまま、どこにも属さず、ただ残る。
誰のためでもない光。
その光を撮った人は、どんな顔をしているんだろう。
菜々子は、そう思いかけて、すぐにやめた。
顔を想像するのは危険だ。
名前を呼びたくなるし、仕分けしたくなるから。
廊下の鏡に映った自分と目が合う。そこにいるのは、完璧なメイクと、完璧な衣装と、そして中身が空っぽになりつつある「幸せの象徴」だ。
もし、このスタジオの暴力的なほど正しい光ではなく、もっと曖昧で、名付けようのない光の下に立てたなら。
そこでは、口角の角度をミリ単位で調整しなくてもいいのかもしれない。黒目の位置を消費者に合わせなくても、ただ、そこにいるだけで許されるのかもしれない。
けれど、菜々子はすぐにその思考を振り払う。
そんな場所はこの世界のどこにもないことを、彼女はもう知っている。
窓の景色を見る。 街は夕闇に包まれ、ネオンや車のヘッドライトが不規則に混ざり合っていた。
スタジオの光とは違う、不均一で、影だらけの、正しくない光。
菜々子はその濁った光の群れを見つめながら、無意識に指先で自分の頬に触れた。そこにはまだ、真緒に触れられた時の、冷たくて確かな体温の残滓が、かすかに残っているような気がした。
菜々子は自分のスマートフォンを開き、マネージャーからの連絡を確認する。
次の番組で聞かれる質問。それから、無難なカフェのURLが貼られていた。
光の中心で菜々子が輝くために用意されたもの。
それは不幸ではない。
生活で、仕事で、何より安全だ。
ただ、一瞬だけ。
(これって、私が選んだ光だっけ?)
問いが浮かんで、消える。
消えることには慣れている。
消えた方が、ちゃんと立てるから。
菜々子は鏡の前に座り直し、口角を上げる。
上げすぎないで、ちょうどいいところで止める。
今日も、ナナちゃんだ。
菜々子に降り注ぐ光は、今日も影を作らない。
だから、彼女はそこに立っていられる。




