2話|現像できない色のままで
講義室の空気は、埃っぽくて重い。 スライドに映し出された氷彗の写真は、どこまでも平坦で、救いようがないほどに冷たい色をしていた。
「……君の視点は面白いが、被写体への愛がないんだよねぇ」
教授の、いかにも芸術を解していると言わんばかりの悦に入った声。みわは、自分の胸がチリリと焼けるような感覚を覚えた。
空気が悪くなっている。
修復しなきゃ。
フォローしなきゃ。
誰かが否定されている時の、いつもの癖だ。
「今日の教授、なんかピリついてるよね」
隣に座る花菜が、小声でささやきながらみわの顔を伺う。
「ねえ、みわから何か言ってあげなよ。ほら、氷彗さん、あんな感じだし。……ちょっと怖いっていうか、浮いてるじゃん?」
花菜の瞳には、「優しいみわ」が場を和ませ、気まずい空気を魔法のように消し去ってくれることを信じて疑わない、微かな期待が混じっている。
けれど、席に戻る氷彗の横顔は、微塵も揺らいでいない。
みわは、自分が声をかけないことに気づいて、少し驚いた。
別に声をかけないほうが、正しいと判断したわけでもない。
直感的に悟ったのだ。
「愛なんて、一番不確かなものを画面に入れてどうするのよ」
横を通り過ぎた氷彗が、ボソリと、けれど鋭く独り言を放つ。
みわの指先は、さきほど教授から「修正するように」と突き返された、自分の課題写真を強く握りしめる。そこには、誰が見ても「綺麗だ」と言うような、明るくて無難な風景が収まっていた。
「うわ、相変わらず、尖ってるねぇ」
花菜が小さく肩をすくめて、呆れたように笑う。
いつものみわなら、即座に「そんなことないよ」と花菜の手を包み込み、同時に氷彗にも聞こえるような絶妙な音量で「氷彗さんは、自分の世界を大事にしてるだけだよ」と、全方位に配慮した「正解」を差し出しただろう。
それがみわの生存戦略であり、この場を丸く収めるための唯一の手段だから。
けれど、指先に残るプリントの、ざらついた紙の感触がそれを拒んだ。
「愛がない」と断じられた氷彗の写真は、みわの撮った、誰にでも好かれるような、明るくて無難な写真よりも、ずっとマシに見えたからだ。
ただ真っ直ぐに、スライドに映る冷たい写真を見つめ返す。
氷彗が引いた、あの目に見えない境界線を、土足で踏み越えないために。
*
授業が終了して、みわは学食にもラウンジにも行かなかった。いつもなら誰かを探して、自分の居場所を確保するためにスマートフォンを指でなぞっている時間だ。けれど今日は、大学の外に足を運んだ。
チェーン店のコーヒーショップのカウンター席の端、磨き上げられたアクリル板の仕切りが、自分と他人の境界を物理的に示している。
みわは、カバンの中からスマートフォンを取り出した。 画面には、サークルの後輩からの通知が並んでいる。
『みわさん、少しお時間ありますか? 実は進路のことで悩んでいて……。みわさんなら、私の気持ち分かってくれると思って』
分かってくれる。それは、かつてのみわにとって、麻薬のように心地よい報酬だった。 返信の文面が、反射的に脳内で組み上がる。
(大変だったね、って書こうか。それとも、電話? 夜まで付き合ってあげたら、きっとまた感謝される。私はまた、「いい先輩」でいられる……)
けれど、言葉を打ち込もうとした指が、宙で止まった。
喉の奥が、粘りつくような疲労感で重い。後輩の悩みを聞く自分。感謝される自分。必要とされる自分。 その「いい子」の虚像を維持するために、自分の神経を一本ずつ差し出し、相手の色に染まっていく作業。
(……なんか、疲れたな)
みわは、スマートフォンをテーブルに伏せた。
顔を上げると、窓の外を忙しなく行き交う人々が見えた。 誰の悩みも聞かず、誰の機嫌も取らず、ただここに座っているだけの自分。そこには「可愛いみわ」も「優しいみわ」もいない。
「私は、何でもない」
呟いた言葉は、ひどく冷たく、虚しかった。
誰の役にも立っていないという事実は、足元が消えていくような不安を連れてくる。けれど、その不自由な空白こそが、今のみわの本当の肌触りだった。
胸の奥で、何かが静かに、けれど確実に削ぎ落とされていく。
必要とされなくても、世界は、ちゃんと続いている。
横の席では知らない会社員がパソコンを叩き、店員は淡々とカップを洗い、外では信号が赤から青に変わる。みわが「いい子」でいなくても、誰の救いにならなくても、世界はそれを冷淡に、けれど平等に許していた。
「……ふう」
みわは、一口だけコーヒーを飲んだ。冷めかけた液体は、ひどく苦い。けれど、その苦みが「自分だけの感覚」であることを、今は愛おしく感じた。
しばらくして、みわはスマートフォンを手に取り、後輩へメッセージを送った。
《ごめん、今忙しくて。また今度ね》
心は、少しだけ震えていた。けれど、送信ボタンを押したあとの指先は、さっきよりもずっと、自由で、軽かった。
境界線を一度知ってしまった。
踏み込まないことでしか守れないものが、自分の中にもあるのだと。
スマホが震えて、画面に後輩からの返信が表示される。
《了解です。また暇な時、話を聞かせて下さい!》
みわは、その通知を横にスワイプして消した。
(私がいなくても、この子はきっと、他の誰かを見つける)
スマートフォンをバッグに戻し、人の流れに合わせて歩き出す。
今日も、いい子のままで。ただしそれは、誰かのための役割ではなく、自分が生き延びるための、ただの形だった。
夕闇が街を包み込み、駅前の雑踏はさらに密度を増していく。家路を急ぐ人々、待ち合わせに浮き立つ声、スマートフォンの光に顔を照らされる誰か。
みわは、その無数の光と影のなかに、静かに自分の身を沈めた。
これまでなら、この孤独な感覚に耐えられず、すぐにでも誰かに「大丈夫?」とメッセージを送っていただろう。自分の存在を誰かの感情に繋ぎ止め、感謝や依存という糸で、この世界に自分を縫い付けようとしていたはずだ。
けれど今、みわの心は驚くほど凪いでいた。
駅のホームに入ってきた電車の風が、スカートの裾を揺らす。 車窓のガラスに映る自分は、相変わらず淡い色の服を着て、誰の邪魔にもならない、柔らかな表情をしていた。
(明日も、たぶん、こうして笑う)
母が紅茶を注げば「ありがとう」と言い、友人が愚痴をこぼせば「大変だね」と頷く。それは嘘ではない。けれど、以前のような全霊の「善意」でもない。
いい子、という着ぐるみを脱ぎ捨てる勇気は、まだない。けれど、その内側にある「何でもない自分」を、みわはもう恥じてはいなかった。
誰にも必要とされず、誰の役にも立たず、ただ苦いコーヒーを飲み、夕風に吹かれているだけの、空っぽな自分。そこにある「不自由な空白」こそが、誰にも踏み荒らされない、彼女だけの聖域になったのだ。
電車が動き出す。 遠ざかっていく街の灯りを眺めながら、みわはふと、氷彗が言った言葉を思い出す。
『愛なんて、一番不確かなもの』
(本当だね、氷彗さん)
愛も、優しさも、共感も。そんな不確かなものに自分を預けなくても、夜は更け、朝は来る。
世界は、私を無視して、けれど確かに続いていく。
暗い窓に映る自分の口角を、ほんの少しだけ緩める。それは鏡で練習した角度ではなく、今の自分のために、そっと置いた微かな温度。
けれどその足は、かつてよりずっと確かに、自分の重さを支えていた。




