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逆光のまま、名前を呼ばずに  作者: 月食ぱんな
名前を呼ばれないまま
24/27

1話|肯定は、こちらから投げるもの

 冬羽に依頼された、「制作の周辺の記録」は、単なるオフショットを求められているわけではない。


 彼が過去のスキャンダルと向き合い、音と言葉を探し直す、その過程ごと写し取ること。


 それは、彼の脆さを世に晒す行為でもあった。

 炎上の火種になる可能性も、もちろん分かっていた。


 それでも、氷彗はファインダーを覗いた。


 撮りたいという「卑しい渇望」が、彼女の手を止めなかったからだ。


 気づけば、氷彗は自分の時間を、彼に差し出す日々を送っていた。



 ✳︎




 《氷彗、今すぐアプリ開いて。あんたの写真、めちゃくちゃ回ってるよ》


 午前中の講義が終わって、食堂の隅でサンドイッチを齧っていた氷彗は、画面を見つめたまま固まった。


 メッセージの送信者は姉だ。


(回ってる?)


 時間差でその言葉の意味が脳に浸透し、指先がわずかに冷たくなる。


 氷彗は、食べかけのサンドイッチを包み紙の上に戻した。


(昨夜、深夜のテンションでアップした一枚の写真のことかな……)


 タイトルもキャプションも付けず、ただ、夜の歩道橋で街灯がアスファルトに落とした「歪な光の塊」を切り取っただけのもの。


 なんとなく、椎名冬羽という人間っぽい。そう思ってシャッターを切った。


 かつて、煌めく世界からなかったことにされた人。


 ファインダー越しに蠢く光の塊は、彼の瞳の冷たさにも似ているし、かつて彼が身を投じていた、アイドルという職業の華やかの裏にある、吐き気がするほどの虚無感にも似ていた。


 スマホ画面を開く勇気が、すぐには出なかった。

 心臓の奥が、嫌な音を立てている。


 期待より先に、警戒が来るのは癖だ。

 氷彗は、そんな風に世界を見てきた。


「炎上だったら、お姉ちゃんは知らせて来ないはずだよね」


 都合よく解釈して、アプリを開く。


 写真投稿アプリを開くと、通知の赤い数字が異常なほど膨れ上がっていた。


「……あ」


 心臓の奥が、熱い針で刺されたように跳ねる。


  自分の指先ひとつで選別し、切り離し、固定した「冬羽のような光」が、猛烈な勢いで増殖している。


 引用欄を覗くと、見知らぬ誰かの言葉が並んでいた。


 スクロールする指が止まらない。 RTの勢いは止まらず、引用欄には見知らぬ誰かたちの言葉が、雨のように降り注いでいた。


 《この光、なんか心臓を抉られる》

 《孤独なのに、すごく傲慢な視点。好きだわ》

 《誰が撮ったの? 凄まじいセンス》


 それは、元カレに「重い」と切り捨てられた、あのドロドロとした執着や絶望が、「芸術」というフィルターを通して浄化され、赤の他人に称賛されている光景だった。


 胸の奥で、何かが静かに反転する音がした。


 称賛されているのは、氷彗そのものではない。

 笑顔でも、性格でも、可愛さでもない。


 自分が選び取った、あの一瞬。

 画面に入れ、画面から排除したもの。

 迷いながら、それでもシャッターを切った判断。


(私の視線だ)


 スクロールすると、写真の講評がズラリと並んでいた。


 通りすがる人は、氷彗の存在を認識すらしないけれど、この写真の中にある私の「目」だけは、みんなが避けて通れない。


「……やば」


 氷彗の指が、画面の淵を強く押さえる。


(別に、誰かに一番に選んでもらう必要なんてなかったんだ)


 氷彗が「ここにある」と決めたものを、世界が「そうだ」と答える。これは、元カレに縋っていた頃の、あの惨めな「依存」じゃない。これはもっと、暴力的で、一方的な肯定だ。


「……あ」


 通知欄の奔流が、一瞬だけ淀んだ。いや、スクロールの手が、無意識にその「名前」を検知して止まったのだ。


 数多の知らないIDの中に、泥水のような既視感が混じっていた。


 しょーご@shogo_n_0915

 《これ、めっちゃいいな。光の感じとか。今度また飯でも行こうよ》


 氷彗の体温が、急速に奪われていく。


 元彼の名取翔吾だ。


 あろうことか、氷彗が冬羽を重ねて、執念を込めて切り取った世界を、彼は相変わらずの浅はかさで「再会のための口実」へと引きずり下ろした。


「……無理」


 氷彗は、小さく、けれどはっきりとした声で呟いた。吐き気がするほどの拒絶感。それでも、背骨の奥に、見覚えのない静けさが据わっていた。


(ねえ、翔吾。あなたは、私の写真に『反応させられている』だけなんだよ)


 かつて、彼の瞳のなかに自分の居場所を必死に探していた頃の自分は、もういない。 今の彼は、氷彗が構築した世界に吸い寄せられ、勝手に「いいね」を献上させられている、有象無象のフォロワーの一人に過ぎない。


 彼がどれだけ無神経な感想を抱こうが、彼がどれだけ浅い理解で称賛しようが、この画面の主導権は100%氷彗にある。


「依存」は、相手がいないと成立しない。けれど「肯定」は、投げた石が波紋を広げたという事実だけで完結する。


 氷彗は、食べかけのサンドイッチを包み紙ごと無造作に丸めた。


(次は、もっとあなたの理解できないものを撮ってあげる)


 彼が二度と、自分の趣味に引き寄せて解釈できないような、アイドルのキラキラした世界とは対極にある、鋭利で、残酷で、逃げ場のない視線を。


 氷彗は、もう一度写真を見る。


 ハッシュタグも、最低限に抑えた蠢く光。


 そのせいで、写真は勝手に語られ始めている。


 《救われた》

 《分かる人には分かる》

 《これは本物》


 氷彗は、ふっと鼻で息を吐く。


 本物かどうかなんて、知らない。


(私は、ただ、いいなと思ったものを撮っただけ)


 自分が耐えきれなかった感情を、壊れない形にして、置いただけ。


 氷彗は、「重い」んじゃない。


「私の解像度が、高すぎただけだし」


 そう思うと、不思議と胸は静かだった。


 翔吾の視線は、いつだってテレビの向こうにあった。


 完成された偶像。

 光の中心にいる人。

 気持ちいい言葉しか言わない人。


 けれど、今。


 世界は、氷彗の選んだ一点を見ている。


 誰に頼まれたわけでもなく、誰かに媚びたわけでもない視線。


「……ね」


 思わず、呟きが漏れる。


 スマートフォンが、もう一度震えた。


 今度は、別の名前。


 椎名冬羽。


 短いメッセージだった。


 《僕を、こんなふうに見てるんだね》


 それだけ。 感想でも、称賛でもない。ただ、氷彗が彼という存在をどう解釈し、どう切り取ったのかを、鏡越しに突き返されたような言葉。


「…………」


 名取翔吾の言葉にはあんなに冷え切った心が、冬羽のその一言で、今度は凪いだ湖面に一石を投じられたように静かに震える。


 彼は気づいている。 この写真が、単なる歩道橋の風景ではないことに。 自分が「なかったことにされた」あの虚無の場所から、氷彗だけが何かを掬い上げ、美しさに変えてしまったことに。


(救ってなんて、あげないよ)


 氷彗は指先で、冬羽のメッセージをなぞった。 これは救済ではない。ましてや同情でもない。 ただ、氷彗という「カメラ」が、冬羽という「光」を最も美しい角度で捉えたという、事実の記録。


「いいね」の数字は、今も増え続けている。 けれど、冬羽のその短い言葉は、数万の称賛よりもずっと重く、深く、氷彗の骨の髄にまで染み渡った。


(わかってる。私は、残酷なものしか撮れない)


 翔吾は、きっとこの写真を、自分の言葉にできる範囲でしか見ない。

 けれど、冬羽は――彼だけは、この写真の裏側にある、氷彗のドロドロとした醜い執念までを、同じ熱量で受け止めてしまいかねない。


 氷彗は最後の一口を飲み込み、空になった包み紙をギュッと握りつぶした。


「重い、か」


 かつて自分を呪ったその言葉を、今度は自分を定義する誇りとして、唇に乗せる。


 彼女は、スマートフォンをポケットに放り込んだ。 画面の向こうで騒がしく踊る「肯定」を置き去りにして、食堂の喧騒から立ち上がる。


「次は何を撮ろうかな」


 午後の光が、廊下の窓から斜めに差し込んでいる。


 ファインダーを覗くときと同じ距離感で、世界を見る。


 撮るか、撮らないか。

 残すか、切り捨てるか。


 その選択権は、今も、氷彗の手の中にあった。


 カメラバッグのストラップが、肩に心地よい重みを伝える。 氷彗は、美大の冷たいコンクリートの廊下を、迷いのない足取りで歩き出した。


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