1話|肯定は、こちらから投げるもの
冬羽に依頼された、「制作の周辺の記録」は、単なるオフショットを求められているわけではない。
彼が過去のスキャンダルと向き合い、音と言葉を探し直す、その過程ごと写し取ること。
それは、彼の脆さを世に晒す行為でもあった。
炎上の火種になる可能性も、もちろん分かっていた。
それでも、氷彗はファインダーを覗いた。
撮りたいという「卑しい渇望」が、彼女の手を止めなかったからだ。
気づけば、氷彗は自分の時間を、彼に差し出す日々を送っていた。
✳︎
《氷彗、今すぐアプリ開いて。あんたの写真、めちゃくちゃ回ってるよ》
午前中の講義が終わって、食堂の隅でサンドイッチを齧っていた氷彗は、画面を見つめたまま固まった。
メッセージの送信者は姉だ。
(回ってる?)
時間差でその言葉の意味が脳に浸透し、指先がわずかに冷たくなる。
氷彗は、食べかけのサンドイッチを包み紙の上に戻した。
(昨夜、深夜のテンションでアップした一枚の写真のことかな……)
タイトルもキャプションも付けず、ただ、夜の歩道橋で街灯がアスファルトに落とした「歪な光の塊」を切り取っただけのもの。
なんとなく、椎名冬羽という人間っぽい。そう思ってシャッターを切った。
かつて、煌めく世界からなかったことにされた人。
ファインダー越しに蠢く光の塊は、彼の瞳の冷たさにも似ているし、かつて彼が身を投じていた、アイドルという職業の華やかの裏にある、吐き気がするほどの虚無感にも似ていた。
スマホ画面を開く勇気が、すぐには出なかった。
心臓の奥が、嫌な音を立てている。
期待より先に、警戒が来るのは癖だ。
氷彗は、そんな風に世界を見てきた。
「炎上だったら、お姉ちゃんは知らせて来ないはずだよね」
都合よく解釈して、アプリを開く。
写真投稿アプリを開くと、通知の赤い数字が異常なほど膨れ上がっていた。
「……あ」
心臓の奥が、熱い針で刺されたように跳ねる。
自分の指先ひとつで選別し、切り離し、固定した「冬羽のような光」が、猛烈な勢いで増殖している。
引用欄を覗くと、見知らぬ誰かの言葉が並んでいた。
スクロールする指が止まらない。 RTの勢いは止まらず、引用欄には見知らぬ誰かたちの言葉が、雨のように降り注いでいた。
《この光、なんか心臓を抉られる》
《孤独なのに、すごく傲慢な視点。好きだわ》
《誰が撮ったの? 凄まじいセンス》
それは、元カレに「重い」と切り捨てられた、あのドロドロとした執着や絶望が、「芸術」というフィルターを通して浄化され、赤の他人に称賛されている光景だった。
胸の奥で、何かが静かに反転する音がした。
称賛されているのは、氷彗そのものではない。
笑顔でも、性格でも、可愛さでもない。
自分が選び取った、あの一瞬。
画面に入れ、画面から排除したもの。
迷いながら、それでもシャッターを切った判断。
(私の視線だ)
スクロールすると、写真の講評がズラリと並んでいた。
通りすがる人は、氷彗の存在を認識すらしないけれど、この写真の中にある私の「目」だけは、みんなが避けて通れない。
「……やば」
氷彗の指が、画面の淵を強く押さえる。
(別に、誰かに一番に選んでもらう必要なんてなかったんだ)
氷彗が「ここにある」と決めたものを、世界が「そうだ」と答える。これは、元カレに縋っていた頃の、あの惨めな「依存」じゃない。これはもっと、暴力的で、一方的な肯定だ。
「……あ」
通知欄の奔流が、一瞬だけ淀んだ。いや、スクロールの手が、無意識にその「名前」を検知して止まったのだ。
数多の知らないIDの中に、泥水のような既視感が混じっていた。
しょーご@shogo_n_0915
《これ、めっちゃいいな。光の感じとか。今度また飯でも行こうよ》
氷彗の体温が、急速に奪われていく。
元彼の名取翔吾だ。
あろうことか、氷彗が冬羽を重ねて、執念を込めて切り取った世界を、彼は相変わらずの浅はかさで「再会のための口実」へと引きずり下ろした。
「……無理」
氷彗は、小さく、けれどはっきりとした声で呟いた。吐き気がするほどの拒絶感。それでも、背骨の奥に、見覚えのない静けさが据わっていた。
(ねえ、翔吾。あなたは、私の写真に『反応させられている』だけなんだよ)
かつて、彼の瞳のなかに自分の居場所を必死に探していた頃の自分は、もういない。 今の彼は、氷彗が構築した世界に吸い寄せられ、勝手に「いいね」を献上させられている、有象無象のフォロワーの一人に過ぎない。
彼がどれだけ無神経な感想を抱こうが、彼がどれだけ浅い理解で称賛しようが、この画面の主導権は100%氷彗にある。
「依存」は、相手がいないと成立しない。けれど「肯定」は、投げた石が波紋を広げたという事実だけで完結する。
氷彗は、食べかけのサンドイッチを包み紙ごと無造作に丸めた。
(次は、もっとあなたの理解できないものを撮ってあげる)
彼が二度と、自分の趣味に引き寄せて解釈できないような、アイドルのキラキラした世界とは対極にある、鋭利で、残酷で、逃げ場のない視線を。
氷彗は、もう一度写真を見る。
ハッシュタグも、最低限に抑えた蠢く光。
そのせいで、写真は勝手に語られ始めている。
《救われた》
《分かる人には分かる》
《これは本物》
氷彗は、ふっと鼻で息を吐く。
本物かどうかなんて、知らない。
(私は、ただ、いいなと思ったものを撮っただけ)
自分が耐えきれなかった感情を、壊れない形にして、置いただけ。
氷彗は、「重い」んじゃない。
「私の解像度が、高すぎただけだし」
そう思うと、不思議と胸は静かだった。
翔吾の視線は、いつだってテレビの向こうにあった。
完成された偶像。
光の中心にいる人。
気持ちいい言葉しか言わない人。
けれど、今。
世界は、氷彗の選んだ一点を見ている。
誰に頼まれたわけでもなく、誰かに媚びたわけでもない視線。
「……ね」
思わず、呟きが漏れる。
スマートフォンが、もう一度震えた。
今度は、別の名前。
椎名冬羽。
短いメッセージだった。
《僕を、こんなふうに見てるんだね》
それだけ。 感想でも、称賛でもない。ただ、氷彗が彼という存在をどう解釈し、どう切り取ったのかを、鏡越しに突き返されたような言葉。
「…………」
名取翔吾の言葉にはあんなに冷え切った心が、冬羽のその一言で、今度は凪いだ湖面に一石を投じられたように静かに震える。
彼は気づいている。 この写真が、単なる歩道橋の風景ではないことに。 自分が「なかったことにされた」あの虚無の場所から、氷彗だけが何かを掬い上げ、美しさに変えてしまったことに。
(救ってなんて、あげないよ)
氷彗は指先で、冬羽のメッセージをなぞった。 これは救済ではない。ましてや同情でもない。 ただ、氷彗という「カメラ」が、冬羽という「光」を最も美しい角度で捉えたという、事実の記録。
「いいね」の数字は、今も増え続けている。 けれど、冬羽のその短い言葉は、数万の称賛よりもずっと重く、深く、氷彗の骨の髄にまで染み渡った。
(わかってる。私は、残酷なものしか撮れない)
翔吾は、きっとこの写真を、自分の言葉にできる範囲でしか見ない。
けれど、冬羽は――彼だけは、この写真の裏側にある、氷彗のドロドロとした醜い執念までを、同じ熱量で受け止めてしまいかねない。
氷彗は最後の一口を飲み込み、空になった包み紙をギュッと握りつぶした。
「重い、か」
かつて自分を呪ったその言葉を、今度は自分を定義する誇りとして、唇に乗せる。
彼女は、スマートフォンをポケットに放り込んだ。 画面の向こうで騒がしく踊る「肯定」を置き去りにして、食堂の喧騒から立ち上がる。
「次は何を撮ろうかな」
午後の光が、廊下の窓から斜めに差し込んでいる。
ファインダーを覗くときと同じ距離感で、世界を見る。
撮るか、撮らないか。
残すか、切り捨てるか。
その選択権は、今も、氷彗の手の中にあった。
カメラバッグのストラップが、肩に心地よい重みを伝える。 氷彗は、美大の冷たいコンクリートの廊下を、迷いのない足取りで歩き出した。




