2話:存在しない光を撮る
午前の講評が終わった瞬間、教室の空気がふっと弛んだ。
プロジェクターが落とされ、壁の白さが現実に戻る。
椅子を引く音、ペンケースを閉める音、カメラバッグのファスナーが噛み合う音。
氷彗はそれらを、水槽の外から聞く泡の音みたいに受け流しながら、ノートパソコンを閉じた。
今日の課題は「存在しない光」。
教授は、いつもそういう言い方をする。
存在しないなら撮れるわけがないだろ、と誰もが思う。でも、この授業はそういうツッコミを飲み込んだまま付き合わされる時間だった。
『今泉さんの作品ってさ、変なフィルターがかかってるよね』
講評で投げられた言葉が、頭の奥で再生される。
『歪んでるっていうか。水平線の位置とか。……わざと?』
分からなくて、視線だけ落とした。
氷彗は、いいと思った瞬間にシャッターを切っているだけだ。分からないものを、分かる形にしたくて写真を撮っているのに、その結果が「歪んでいる」と言われるのは、どこか順序が逆な気がした。
見透かされた、というより、見ないでほしかったところを指でなぞられた感じがした。
✳︎
教室を出ると、生ぬるい風が、無遠慮に髪を揺らした。
冬の間、あんなに硬く閉じていた銀杏の枝先には、生まれたての若葉が点々と灯っている。石畳を覆っていた凍てついた影は消え、代わりに柔らかな光の粒が、揺れる木の葉の間から零れ落ちていた。
氷彗は、コートのボタンを一つ外す。
キャンパスの中庭へ向かうと、石段の上にキジトラ猫が丸くなっていた。茶色と黒の縞は、落ち葉と石の中間みたいな色で、ちゃんと見ていないと、そこにいることに気づけない。
猫は人を避ける距離感だけは正確で、氷彗がしゃがむと、それ以上もそれ以下も近づかなかった。
「……自由だね」
誰に聞かせるでもなく呟いて、デジカメのレンズを向ける。
見て、と言わなくても、奪おうとしなくても、一瞬だけこちらを向いてくれる存在。
そっとシャッターを切ると、猫は本当に一瞬だけ目を合わせ、すぐに視線を外した。
その一瞬で十分だ。
画像を確認しようとして、氷彗は指を止める。
ポケットの中で、スマートフォンが小さく震えたからだ。
嫌な予感がした。
元彼のタイムラインか、知らない誰かの幸せの切れ端か。
画面に出ていた名前は、予想外だった。
――今泉深雪。
七つ上の姉だ。
通話ボタンを押して、スマホを耳にあてる。
「……もしもし、お姉ちゃん?」
『氷彗、助けて』
普段はドライな姉の、切羽詰まった声が鼓膜を震わせる。
「……何、どうしたの?」
「今日、頼んでたカメラマンがインフルで倒れちゃってさ。もうすぐ入りなのに代わりが見つからないの。氷彗、今から来られない!? 大学の近くだから。バイト代、奮発するから!」
電話の向こうで、ガヤガヤとした喧騒と、焦燥した吐息が混じり合う。
氷彗は、石段の上で毛繕いを始めたキジトラ猫に目をやった。
自分の「一瞬」を求めて彷徨う氷彗には、他人の、それも仕事としての写真を撮るなんて、そんな自信も余裕もない。
「私、しがない大学生だよ。プロじゃないし……」
「分かってる。でも映像学科でしょ。素人じゃないじゃん」
深雪は、こちらの迷いを見透かしたように畳みかけてくる。
「氷彗の写真ってさ、被写体と自分の間に変な壁がないんだよね。それがいいの。お願い、相手、今SNSでバズりまくってるアーティストなんだから。これ飛ばしたら、私ほんとに仕事なくなる!」
氷彗は、息を吐いた。
「……分かった。場所、送って」
どうせここに居続けても、関係のない誰かの熱狂を覗き見して、自分の席のなさを確かめるだけだ。
他人の事情に、無理やりでも引きずり出された方が、今はまだマシかもしれない。
「ありがと!じゃ、また後で!」
プツリと通話が切れる。直後、地図アプリのリンクがメッセージで飛んできた。
氷彗は立ち上がり、デニムの膝についた砂を払う。
石段の上のキジトラ猫は、もう彼女に興味を失ったのか、丸まったまま眠りに落ちようとしていた。
「……行ってくるね」
誰ともなく呟き、歩き出す。
リュックのショルダーストラップが、お気に入りのモッズコート越しに、肩へ食い込んだ。




