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逆光のまま、名前を呼ばずに  作者: 月食ぱんな
均一な光に、名前を与える
19/27

5話|アルゴリズムは、正直な想いを隠せない2

「ナナ、本当にもう大丈夫? 」


 梨花の声で弾かれたように、菜々子は肩を震わせて現実に引き戻される。


「顔色、さっきより悪いよ」


 イヤホンの片方を外し、怪訝そうにこちらを見ている梨花と目が合う。


「……大丈夫。ただ、ちょっと光に酔っただけ」


 菜々子は、強張った頬の筋肉を無理やりほぐし、いつもの「黄金比」の位置に口角を戻す。


「光に?」


「心配してくれて、ありがとね」


 話は終わりという意味を込めて、スマホを裏返して検索窓を見つめた。


 菜々子は、肺の奥に溜まった濁った空気をすべて入れ替えるように、膝の上で深く息を吐き出す。それから、指先に力を込めた。


『今泉氷彗』


 一文字ずつ、慎重に打ち込んでいく。それは、自分を縛り付ける「完璧」という名の平らな世界に、自ら亀裂を入れるような背徳的な作業だった。


 画面が切り替わる。検索エンジンの最上位に現れたのは、淡々としたポートフォリオサイトだった。


 今泉氷彗。都内にある美大の三年生。特段目立つ受賞歴はない。個展の記録も、有名な仕事のクレジットもない。そこにあるのは、ずらりと並ぶ写真と、連絡先用のメールアドレスだけ。


 撮影者である、今泉氷彗の顔はどこにもない。


 普段は、撮影者の名前や顔なんて、気に留めない。知らなくても写真は成立するし、売れる写真なら、誰が撮ったかなんて奈々子には関係ないから。


 菜々子の指先は、彼女のポートフォリオに並ぶ写真をスクロールする。どれもが残酷なほどに静かで、どこか影を感じる写真だった。

 都会の喧騒、雨に濡れたアスファルト、猫、先の丸まった鉛筆、人が踏みつけたペットボトル。そんな写真の並びの中に、唐突に椎名冬羽が現れた。


 きっとそれは、彼がそこにいると気付く人の方が少ない写真。


 雑踏の中に溶け込む、あるいは消え入りそうな冬羽。 ピントは彼ではなく、手前の雨粒に濡れたフェンスに合っている。背景の光に紛れるようにして、彼はただそこに立っていた。


 意志を持ってそこにいるのではなく、まるで最初から風景の一部として配置されていたかのような、圧倒的な希薄さ。それは、見る者が目を凝らして初めて「彼」という存在を認識できる、あまりにも静かな、そして孤独な一枚だった。


 でも、菜々子は気づいてしまう。

 奈々子の記憶より少し大人になった彼が四角い枠にそこにしっかり収まっていた。


 彼はレンズを見ていない。微笑んでもいない。ただ、そこに在ることの重みから、視線を遠くへ逃がしているように見えた。


 丁寧に、余計な皮膜を剥いでいくような彼を捉えた写真に、奈々子は夢中で視線を落とす。


(なんで?)


 さっきと同じ疑問を抱く。


 別に今の冬羽のことを知りたいわけじゃない。


 スキャンダルで消えた人なんて、恋や尊敬を抱くに値しない。

 ただ、あの写真が人を惹きつける理由が、分からないだけだ。


 奈々子は、分からないままなのが、嫌だ。でも、嫌だと思う気持ち自体が感情で、アイドルには必要のない、ノイズだ。


 菜々子は、膝の上で自分の指を一本ずつ折りたたんだ。 感情を、データとして処理できない。その事実が、均一な光の中で生きてきた彼女のプライドをじわじわと侵食していく。


(なぜ、私は一枚の写真にこれほど動揺しているの?)


 理由は明白だった。あの写真には、菜々子が切り捨ててきた「影」が、何よりも雄弁にその美しさを主張していたからだ。


 影がなければ、光は同じ明るさのまま、ただ平らになる。


 そんな、教科書には載っているけれど、アイドル産業の最前線では「修正対象」とされる真理が、そこには剥き出しで転がっていた。


「その写真を撮影したの、今の彼女じゃないかって噂だよ」


 隣から、梨花の声が飛んでくる。


「そうなの?」


「だって、近くにいないと撮れないでしょ。そんな無防備な顔」


 梨花は欠伸を噛み殺しながら続ける。


「アイドルを辞めたらさ、過去に何があっても、彼女ができるって、逆に自由そうでいいよね。私も彼氏欲しいし、アイドル辞めようかなぁ」


 梨花は他人事のようにそう言って、笑った。


「バレたら、それなりにリスクはあるでしょ」


 菜々子は、自分に言い聞かせるように言葉を継いだ。


「グループの名前にも、他のメンバーの人生にも。もちろん、梨花自身のキャリアにも全部に『汚れ』がつく。それを背負えるなら、自由になればいいけど」


「わ、厳しい。ナナってば、今日もストイックだね」


 梨花は茶化すように肩をすくめる。


「でもさ、恋愛って禁止されてるからしない。そういうものじゃないじゃん? 」


 その瞬間、街灯の鈍いオレンジ色が梨花の横顔を斜めに切り取った。


「恋は落ちるものだからね。計算してできるなら、みんな苦労しないよ」


 梨花がふっと、力みの抜けた声で笑う。その顔には、いつもの「完璧なアイドル」の仮面は張り付いてなかった。


 頬の筋肉は弛緩し、口角は無理に上がっていない。ステージ上のキラキラした瞳とは違う、どこか頼りなく、けれど深い湿り気を帯びた瞳。均一な蛍光灯の下では決して見ることのできない、梨花の「素」の影。


(……キラキラしてる)


 菜々子は息を呑んだ。 皮肉なことに、何百枚もの宣材写真や、完璧にコントロールされたライブ映像よりも、今、このオフの瞬間。恋について夢みがちに語る梨花の方が、ずっと眩しく、生命力に溢れて見えた。


 それは、先ほど画面の中で見た椎名冬羽の姿と、どこか残酷なほどに似ている。


「ナナ?」


 梨花が不思議そうに奈々子の顔を覗き込む。 瞬時に、梨花の顔にいつもの「Pipi☆Dotの青担当」としての明るい表情が戻った。影が消え、平坦な、正しいアイドルの顔だ。


「……梨花、さっきの顔、すごく良かった」


「え、なにそれ。怖いんだけど」


 梨花は笑って、イヤホンを耳に押し込む。


 菜々子は、再び自分の膝の上にあるスマホを見つめた。

 画面は消えている。けれど、瞼の裏にはまだ焼き付いている。


 残酷で、もっと自由な、影に満ちた椎名冬羽。

 今、この一瞬だけ見せた梨花の、無防備な光。


 菜々子は、自分の右手に力を込めた。 七秒間の完璧を保つために鍛え抜かれた指先が、今は、その完璧さを壊してくれる何かを求めて震えている。


 菜々子は、検索欄を消して、スマホを伏せた。


 車が、大きなカーブを切る。遠心力に揺さぶられ、菜々子の体は深くシートに沈んだ。


 スモークガラスの向こう側、東京の夜景が歪んで流れていく。その光景は、もはや菜々子には、手の届かない遠い惑星の瞬きのように見えていた。




 *




「……到着しました」


 運転席のマネージャーが、短く告げる。 車が停まったのは、菜々子の住むマンションの前だ。


「お疲れ様でした。明日は十時入りです」


「はい。お疲れ様です」


 菜々子は、隣で眠そうに目をこすっている梨花に軽く手を振って、車を降りた。


 夜の空気は、車内の空調よりもずっと重く、湿っている。エントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。鏡張りの壁に映る自分を見る。 まだ「ナナちゃん」だ。口角は下がっていない。瞳の光も死んでいない。


 部屋に入り、玄関のスイッチを入れないままドアに背を預けた、その瞬間。暗闇の中で、ようやく菜々子は、張り付いたままの笑みを剥がした。


 頬が痛い。 筋肉が悲鳴を上げている。


 菜々子はバッグからスマホを取り出し、暗闇の中で再び画面を点けた。ブルーライトが、感情を殺して整えられた彼女のかたちを、残酷なほど鮮明に照らし出す。


 開いたのは、SNSでも、検索画面でもない。自分のカメラロール。


 そこには、スタッフが撮ったオフショット、ファンがアップした「神写真」、修正済みの宣材写真。何千枚もの「完璧な自分」が並んでいる。


 どれも綺麗だし、正しい。けれど、そのどれもが、今の菜々子の呼吸を助けてはくれない。


(……分からないよ)


 菜々子は、今泉氷彗のサイトをブックマークした。


 理由は分からない。

 必要かどうかも分からない。


 評価もしなかった。

 用途も、価値も、分類も。


 ただ、消さなかった。


 それだけの行動なのに、それまで一度もなかった選択だ。


 完璧に管理してきたはずのリストの中に、用途不明のデータが一つだけ残る。


 処理は、保留されたままにして、菜々子はスマホを伏せた。


 普段の奈々子なら、それで終わりのはずだった。


 けれど、胸の奥に残った違和感は、ログとしても、感情としても、正しい場所に格納できないまま、消えずに残り続けている。


 それは、今までの菜々子なら、決して選ばなかった行動だった。


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