3話|なとくん@ピピドッター
握手会は、ライブよりも静かだ。
奈々子は、白いパーテションに囲まれた小さなブースの中にいる。蛍光灯が均一な光を落とし、靴が床を擦る音が反転して響く。
スタッフが、一定の声量で説明を繰り返す。
「前に詰めてください」
「撮影後は、速やかにお進みください」
時間は区切られている。
握手券一枚あたり七秒ほど。
それ以上でも、それ以下でもない。運営が見繕った、奈々子の価値がそれだから。
菜々子は、ピンクの衣装のまま、テーブルを挟んで立つ。
背筋を伸ばし、足を揃える。
視線は、正面より少し下。
カメラの位置。
スタッフの動線。
それらを確認してから、顔を上げる。
「はじめまーす」
最初の客が前に立つ。
名前を呼ぶ。
決められた距離で、手を伸ばす。
握手をしながら二言三言、話す。
「ありがとう。またね」
次。
違う顔がブースの中に現れる。
同じ動作をして、笑顔で会話。
時間になったら係員がファンを出口に誘導する。
それを、何度も繰り返す。
菜々子の視界の端で、ストップウォッチの数字が0.01秒単位で更新されていく。
剥き出しのコンクリートの床には、バミリ用の青い養生テープが直角に貼られ、客の靴がその縁を何度も踏みつけては通り過ぎていった。
途中で、手元のリストを確認したスタッフが、「少し押してます」と短く告げる。
菜々子は、笑顔の角度をほんのわずかに上げた。
問題があるときほど、印象は重要になる。
そのとき、見覚えのある顔が入室してきた。
見覚えがある、というより、識別できた、という方が正しい。
『なとくん@ピピドッター』こと、名取翔吾。
デビュー時代から応援してくれている彼は、SNSのアイコンと実物が少し違う。画面越しより、背が低くて、肩が少し丸まっている。
冴えない大学生……というわけではないけれど、特別に目を引く何かを持たない普通の人。
ブースの境界線を越え、彼が目の前に立つ。
スタッフがセットしたストップウォッチをチラリと確認する。
握手券二枚分。表示は十四秒。
「なとくん、お疲れさま。来てくれてありがとう」
奈々子は、練習通り、しかし彼にだけは特別に響くようなトーンで声をかけた。名取は一瞬、気圧されたように肩を揺らしたが、すぐに照れたような、それでいて必死な笑みを浮かべた。
「奈々子ちゃん、あの、新曲の……『プリズム・ステップ』、センター外れちゃったのは残念だけど、でもMVも毎日見てるよ」
奈々子は、相槌のタイミングを0.1秒だけ遅らせて、一度だけ瞬きをしてから、笑みを深めた。
「嬉しい。なとくん、SNSでもたくさん拡散してくれてたよね? ちゃんと見てるよ」
嘘ではない。エゴサーチの結果、彼のアイコンは嫌というほど目に焼き付いている。
菜々子の言葉に、彼は一瞬で顔を赤くした。自分が応援している対象に「認知」されているという事実は、彼にとって七秒数千円の対価を補って余りある報酬なのだ。
彼は何かを言いかけ、口を噤み、そして意を決したように身を乗り出した。
「でも、次は……次は絶対に、真ん中で踊るナナちゃんが見たいから。俺、もっと頑張るから」
名取は、握った手に少しだけ力を込めた。そのせいで彼の指先に、じっとりと汗が滲む。
「嬉しい。なとくんがそう言ってくれるなら、私、もっと頑張れる」
彼の言葉に合わせて、奈々子は声のトーンを0.5段階だけ落とす。
「お時間でーす」
スタッフの無機質な手が、名取の肩に添えられる。彼は「あ、」と情けない声を出し、ズルズルと出口の方へ引き剥がされていく。
「また、またリプするから! ナナちゃん!」
「うん、待ってるね」
去り際、彼は何度も振り返り、奈々子は彼が見えなくなるまで、口角を「アイドル」の位置に固定したまま手を振り続けた。
彼が消えた瞬間。奈々子は、テーブルの下で指先を小さく動かし、彼から移った汗の感触を、衣装のスカートで見えないように拭う。
(センターから外れたことくらい、言われなくてもわかってる)
誰よりも、自分が一番、数字で、列の長さで、そしてこの七秒の価値で、理解させられているのだから。
「次の方、どうぞー」
スタッフの呼び込みで、また新しい靴が青いテープを踏みつける。名取が残した熱は、冷たい蛍光灯の光の中ですぐに霧散した。
次の「顔」を識別し、データベースから最適な言葉を引き出す。
それが、今の奈々子の時給だ。
「こんにちは! 初めましてだよね?」
奈々子は、0.01秒を刻むタイマーの横で、再び完璧な「ナナちゃん」を起動させた。
列は、止まらない。
次の接触まで、あと三秒。
*
休憩時間になって、控え室に戻る。
パイプ椅子に腰を落ち着けた奈々子は、硬くなった膝を伸ばした。ペットボトルの水を一口飲む。喉を通る冷たさが、張り付いた笑顔で乾いた口内をわずかに潤してくれた。
衣装のポケットからスマホを取り出す。
《握手会参加ありがとうございます!二部も頑張るからよろしくね!# Pipi☆Dot 握手会》
あらかじめ用意しておいた自撮り写真と一緒に、定型文を投稿する。
機械的な作業で投稿した途端、今まさに壁の向こう側にいるファンたちが、リプやコメントを飛ばしてくる。
タイムラインは、彼らの熱狂と承認欲求で、濁流のように埋め尽くされた。
コメント欄から、特定の文字列で画面をなぞる手を止める。
——なとくん@ピピドッター。
《ナナちゃんの握手会、いつも緊張して頭真っ白。とにかく可愛かったよ》
最新のポストは数秒前。他のファンと先を急ぐように打ち込んだであろう、新鮮でいてどこか手垢のついた言葉が綴られていた。
奈々子は無表情のまま、その画面をさらに数回スクロールする。
あった。
《生誕のために、彼女と別れました。ナナちゃんに会えるなら、後悔はないです》
数日前のポスト。先ほどブースで彼の汗ばんだ手を受け止めたとき、脳内のデータベースから即座に引き出されていた情報だ。
奈々子は光る画面を数秒だけ見つめ、そしてテーブルの上にスマホを伏せた。
誰かの人生の区切りを、理由として消費している。
女性として見れば、ひどく身勝手で、薄っぺらい文章だ。
でも、アイドルという職業につく奈々子にとって、それは極めて「正しい」市場原理に基づいた行動だった。
彼女と別れる。浮いた時間と金が、自分の生誕祭へ流れる。
奈々子の生誕チケットが売れ、グッズが捌け、七秒数千円の価値が維持される。
それ以上でも、それ以下でもない。
そういう仕組みの中で、数字は回っている。だから、名取が自分の人生をどう切り売りしようと、それは奈々子が感知するところではない。
「……あ、お疲れー」
不意に投げかけられた声に、思考が止まる。
顔を上げると、赤色担当の真緒がいた。
彼女は、少し乱れた髪を雑にまとめながら、奈々子の隣のパイプ椅子にドサリと座る。
「お疲れさま」
「なとくん」
真緒は自分のスマホを弄りながら、何気なくその名を口にした。
「私のところにも並んでたよ。あの人、いっつも『ナナちゃんが一番だけど、真緒ちゃんのパフォーマンスも好きだよ』とか言ってくるんだよね。律儀っていうか、なんというか」
真緒はケラケラと笑う。 奈々子の指先が、わずかにスマホの縁を強く握った。
名取が交際相手と別れて捻出した、推しと握手する数秒は、真緒にも分配されている。その分散された熱量を、真緒は「律儀」という言葉で片付けていた。
「……彼、彼女と別れたんだって。私の生誕があるから」
奈々子が抑揚を抑えて告げると、真緒は「え、重」と短く漏らす。
「ウケるんだけど。それナナに直接言ったの? 恩着せがましくない?」
「ううん、SNSで呟いてた」
「ふーん。まあ、そうやって人生狂わせてこそアイドルって感じ? お互い様だよね」
真緒はそう言って立ち上がると、鏡の前で赤い衣装を整え始めた。
奈々子は、彼女に向けていた視線を再びスマホの画面に落とす。
「いいね」は押さない、コメントもしない。
「……そうだね。お互い様だよね」
呟きは、空調の音にかき消された。
ファンの人生に、自分が長く関わることはない。だから、今は七秒分の夢を返せば充分だ。
奈々子はスマホをポケットにしまい、鏡に向かう。
七秒数千円の「ナナちゃん」を再起動するために。
*
休憩が終わる。
再び、椅子に座る。列は、まだ続いている。
同じ顔。
違う名前。
同じ言葉。
同じ距離。
一定の間隔でスタッフが、奈々子からファンを剥がす。
名取は、二部も二枚きっかり、十四秒。
「ナナちゃん、また来たよ。二部はもっと気合入れてきたから」
剥がされる寸前、彼はそう言って、少しだけ赤くなった顔で去っていった。
「……ありがと。嬉しい。ちゃんと見てたよ」
彼の背中にかけた声は、嘘ではない。ただ、見ていたのは彼本人というより、彼の手首に光る「当時追加購入者限定」のリストバンドだけれど。
アイドルという仕事において、その二つは分かちがたく結びついている。
七秒数千円、あるいはそれ以上のレートで、奈々子は機械的に、けれど完璧に、次のファンの手を取る。
たった十数秒のために、何時間も並び、何日分もの給料を吐き出し、時には人生の優先順位さえ踏み外す人たちの列は、まだ続く。
職業アイドルである菜々子は、ピンクのフリルを纏っている間、その列が途切れないようにすればいい。
入れ替わるたび、奈々子は口角の角度をリセットする。右手の掌には、何十人もの男たちの汗と体温が、薄い膜のようにこびり付いている。
それは、彼女にとって「労働の証」であり、決して生理的な嫌悪感として処理してはいけないものだった。
「……奈々子、あと五分。ラストスパート、いける?」
スタッフの指示に、奈々子は短く「了解です」と答えた。 声のトーンは低く、冷めている。けれど、次のファンがブースに入ってきた瞬間、その声は甘く、世界で一番優しい鈴の音へと変貌する。
「お待たせ! 会いたかったよ」
相手の瞳をじっと見つめ、少しだけ小首を傾げる。これだけで、相手の脳内には幸福物質が駆け巡る。コストパフォーマンスとしては、これ以上ないほど優秀な商売。
(感情の等価交換)
奈々子は心の中で、再びその言葉を反芻した。
握手会の終了を告げるベルが鳴り響く。 最後のファンを見送り、奈々子はゆっくりと両手を下ろした。 指先が、微かに震えている。
「……はぁ。終わった」
ブースの影に隠れた瞬間、顔から一切の表情が消えた。
まるで電池が切れた人形のように、奈々子はテーブルに両手をついて体重を預ける。
「ナナ、お疲れ! 手、大丈夫? 湿布貼る?」
陽葵が元気よく駆け寄ってくる。彼女の手も、きっと同じように誰かの体温で汚れているはずなのに、どうしてそんなに軽やかでいられるのか。
「大丈夫。……ねえ、陽葵」
「んー?」
「今日、いくら稼いだかな。私たち」
直球すぎる問いに、陽葵は一瞬だけ目を丸くし、それから「あはは!」と声を上げて笑った。
「さあ? でも、今夜のご飯を豪華にするくらいには、十分すぎるほど稼いだって確信してるよ!」
陽葵の楽天的な回答に、奈々子は小さく鼻で笑った。 そう。それでいい。 明日もまた、朝五時に起きて、加湿器の霧の中で喉を守り、この重いピンクの衣装を着る。
誰かの人生を少しずつ削り取って、自分の資産に変えていく。
それが菜々子の仕事だ。
「……そうだね。帰りに、高いケーキでも買って帰ろう」
奈々子は、手元の除菌シートで、入念に掌を拭き取った。 名取の、そして名もなき大勢の男たちの熱量が、白い不織布に吸い込まれて消えていく。
リセット。また次の「商談」が始まるまで。




