6話|いい子
朝はいつも通りに来た。
目覚ましが鳴り、みわは一度だけ目を閉じ、起き上がる。
洗面台で顔を洗い、鏡の前で口角を少し上げる。
上げすぎないで、ちょうどいいところで止める。
今日も、いい子だ。
コテで髪を軽く巻き、薄く化粧をする。
肌に馴染むピンクのアイシャドウに、血色を足す程度のリップ。
春らしく淡い色の服に袖を通す。
派手すぎず、地味すぎない。
誰の視線にも引っかからない色。
階段を降りると、実家のダイニングには既に完璧な朝の光が満ちていた。 テーブルの上には、並べられたトーストとサラダにヨーグルト。そして母が淹れた紅茶の香りが漂っている。
「おはよう、みわ。昨日は大変だったわね、電車の遅延に、お友達の急な呼び出し。でも、あなたなりに親切にしてあげたんでしょう?」
花がらのエプロンをつけた母が振り返る。その笑顔は、昨夜のメッセージと同じように優しく、そして逃げ場がないほどに明るい。
「うん。ちょっと困っていたみたいだから」
みわは椅子を引いて、定位置に腰を下ろした。昨夜、彼と過ごしたホテルの高い天井も、スマホの中で「いいね」を捧げた誰かの地獄も、今のこの食卓には存在しない。
(……いい子。私は、今日もいい子)
心の中でそう唱えながら、みわはフォークを手に取る。レタスの端が皿の縁からはみ出しているのを見つけ、無意識にそれを内側へ押し戻した。
「そう言えば、みわちゃん」
母が紅茶を注ぎながら、ふと声を落とす。
「先週の金曜日、渋谷で誰かと……男の人と話していたって、ご近所の佐藤さんが教えてくれたのだけど……大学の先生?」
フォークを持つ手が、一瞬だけ止まる。心臓が不快な音を立てる。けれど、顔に出ることはない。それは長年の訓練で身につけた「技術」だ。
「ああ、大学の教授と偶然会って道を聞かれていただけ。ほら、私、誰にでも親切だって言われるから」
みわは、鏡で練習した通りの口角で笑った。
「そうね。あなたは本当に、優しい子だもの」
母は満足そうに頷き、自分の席についた。
*
大学に向かう電車の中で、スマートフォンを見る。通知が少ないことに、寂しくて、でも安心した。
大学内では、いつも通り挨拶をする。
困っていそうな人がいれば、声をかける。
でも今日は、少し距離を保つ。
「みわ、ありがと」
その言葉を、きちんと受け取り、深く考えない。
みわは、うまくやっている。
昼休み、母からメッセージが来る。
《ちゃんと食べてる?》
みわはすぐに返信する。
《大丈夫だよ》
それが、正解だと知っている。
午後の講義では、後ろの席に座る。
ノートを取り、必要なときだけ発言する。
空気は、穏やかだ。
みわは、何も壊していない。
帰り道、駅前のカフェに寄った。
カウンター席に一人で座る。
コーヒーを待ちながら、スマートフォンを取り出す。
画面が光って、見覚えのある名前が飛び込んできた。
今泉氷彗。
一瞬だけ、指が止まる。
既読をつける前に、深呼吸をする。
メッセージは短かった。
『DMありがとう。でも大丈夫だから』
それだけだ。
絵文字も、余白もない。
みわは、その文を何度か読み返す。
ありがとう。でも、大丈夫。
丁寧で、はっきりしていて、拒絶でも、非難でもない。ただ、そこにはきっちり線が引かれているだけ。
みわは、スマートフォンを伏せた。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
痛みはないし、達成感もない。ただ、役割が終わったという感覚だけが残る。
みわは、心配しなくていい。
踏み込まなくていい。
距離を詰めなくていい。
それを、初めて許された気がした。
カウンターの向こうで、店員が名前を呼ぶ。
みわはカップを受け取り、席に戻る。
コーヒーは、少し苦いけれど、飲めないほどではない。
氷彗は、今日も一人で立っているだろう。
「私が、いなくても」
呟いた言葉がコーヒーの湯気に溶けて、消えていった。
それは、みわにとって新しい事実だった。
必要とされない。
全然、役に立たない。
それでも、世界は続く。
みわは、ふと思う。
(もし、誰の役にも立たなくなったら、私は何になるんだろう)
答えは出ない。だから、深く考えるのをやめた。
カップを持つ指先は、震えていない。
スマートフォンが、もう一度光る。
母からだ。
《今日は何時に帰るの?》
みわは、少し考えてから返信する。
《まだ分からないけど、ちゃんと帰るよ》
いい子の答えは、それでいい。
カフェを出ると、少し湿り気を帯びた夕方の風が吹いていた。
スクランブル交差点の巨大な液晶モニターを見上げると、そこにはもう、冬羽のあの鋭いシルエットはなかった。代わりに、知らないアイドルグループの女の子たちが、眩しいほどの笑顔を振りまいている。
そのなかの一人が、ふとした瞬間に見せた無防備な横顔が、ちょっとだけ氷彗に似ていると思った。
でも、氷彗とは決定的に「何か」が違う。
画面の中の彼女は、誰かに見られることを前提とした、完璧な光の中にいる。誰かの期待に応え、誰かを元気づけるために、その笑顔を消費されている。
それはかつてのみわが、そして今もまだ半分はそうであるように、誰かのための「正解」を演じている者の輝きだ。
けれど、氷彗は違うように見えた。
少なくとも、みわの知っている「誰かのための正解」ではない。たとえ誰にも理解されず、現像するのが難しい色だと言われても、彼女はただ、自分自身の足でそこに立っている。
アイドルが歌う明るいメロディが、雑踏の中に溶けていく。
みわはその喧騒を背に、人の流れに混じりながらゆっくりと歩き出す。
今日も、何も壊れなかった。
優しくて、正しくて、安心できる一日。
みわは、その中にいる。
それが、幸せかどうかは分からない。ただ一つ分かるのは、もう、氷彗に向かって、「大丈夫?」と打つことはない、ということだけだった。
みわは歩く。
今日も、いい子のままで。
明日も、たぶん。




