5話|剥がれる仮面
友人たちと解散して、カフェテラスを出る。眩しすぎる春の光から逃げるように、並木道の木陰へと足を踏み入れた。
スマホを自然な動作で見る。
母からのメッセージが入っていた。
《みわちゃん、電車が遅延してるみたい。大丈夫かな?》
画面に浮かんだ母からのメッセージは、娘を案じる優しい言葉だ。
《大丈夫。まだ大学にいるから》
「正解」の文章を打ち込み、送信ボタンを押す。
彼からの通知は、ない。
そもそも自分から連絡することはないし、彼からも不必要なメッセージは届かない。それがこの「楽な関係」の暗黙の了解だ。
画面を閉じようとした指が、一瞬、止まる。
反射した画面に、自分の顔が映っていた。 友人たちが「いい子」だと言い、彼が「優しい」と評した、あの微笑みの残骸がそこにある。
(……距離、近いんだ)
友人の言葉が、胸の奥で小さな棘のように刺さっていた。 相手の求める顔を見せ、相手の望む言葉を差し出し、相手の懐に音もなく滑り込む。
それは「配慮」だったはずなのに、他人から見れば、どこか不気味な、境界線のない侵食に見えるのだろうか。
スマホをバッグのポケットに滑り込ませ、前を向いて歩き出す。
不意に、鼓膜を震わせる声がした。
雑踏の中に溶け込んでいるはずなのに、その声だけが鋭い輪郭を持って、みわの思考を断ち切る。スマホから顔を上げると、視線の先、スクランブル交差点を見下ろす巨大な液晶ビジョンに、その姿が映し出されていた。
椎名冬羽。
みわが意識的に「触れない」と決めていた彼だ。
MVの中の冬羽は、鮮やかな色彩が洪水のように押し寄せる背景を背に、漆黒のシルエットとして浮かび上がっていた。表情は一切見えない。まるで心の奥底に抱える不安が具現化したかのように、ふわりとそこに立っている。
歌詞が、街のざわめきに溶けながら、確かに耳に残る。
意味を掴もうとする前に、音だけが胸の奥に沈んでいく。誰かのために書かれたはずの言葉なのに、なぜか自分の輪郭にぴたりと重なった。
みわは、足を止めた。
信号待ちの人波が、背中に触れては流れていく。
それでも、巨大なビジョンから目を逸らせない。
――何もしていないようで、何かを壊している。
何を、だろう。
歌詞の続きを追おうとして、みわはふと気づく。
自分が、いつもそうしてきたことを。
何もしていないふり。
ただ、話を聞いているだけ。
壊しているつもりなんて、なかった。
「……」
喉が、わずかに鳴った。
MVの中で、シルエットになった冬羽とは目が合うことはない。
観客を煽ることも、媚びることもない。
彼は、ただ、そこに立って、歌っている。
自分を差し出していないのに、奪っている。
守っているようで、何も隠していない。
みわは、急に息の仕方が分からなくなる。
(私は――)
言葉が続かない。
頭の中に、断片が浮かぶ。
「大丈夫?」
「大変ですね」
「味方だからね」
どれも、相手のために用意した言葉だった。
相手が欲しがりそうな顔。
相手が安心する距離。
少なくとも、そう信じてきた。
けれど。
MVの中で、冬羽のシルエットが、ゆっくりと横を向く。
光の中で、輪郭だけが際立つ。
――現像するのが難しそうな色。
その一節が、胸の奥で引っかかる。
難しい色。
扱いづらい色。
簡単に分類できない色。
みわは、思う。
自分は、誰かを「現像」しようとしてきただろうか。
分かりやすく、安心できる形に。
危険じゃない色に。
心配という名目で。
優しさという手触りで。
それが、もし、相手の輪郭を削り、自分の都合のいい像に閉じ込める行為だったとしたら。
みわの背中を、冷たいものが伝う。
信号が青に変わって、人の流れが、一斉に動き出す。
みわは、歩き出せない。
交差点の真ん中で、ひとり取り残されている気がした。
自分は、誰よりもうまくできると、ずっとそう思ってきた。
だから、踏み込んでいい。
だから、境界を曖昧にしていい。
それは、免罪符だった。
でも、境界を守らないことと、優しいことは、同じだっただろうか。
スマートフォンが、バッグの中で震えた気がした。
(気のせいだ)
そう思った直後、今度は確かに通知が鳴った。
『今夜、少しだけ時間作れるよ。ホテルのバーで待ってる』
ビジョンに映る冬羽の残像と、手元のスマホに表示された「楽な場所」への招待状。みわは、自分の指先がかすかに震えていることに気づき、それを隠すようにスマホを強く握りしめた。
オフにして暗くなった画面に映る自分の顔は、誰かに見せるための笑顔を、まだ貼り付けていた。
(……剥がれてる)
ひびが入っている。
冬羽の歌声が、サビを抜けて、遠ざかっていく。
ビジョンの映像が切り替わり、派手な広告が画面を埋め尽くす。
日常が、戻ってくる。
みわは、ゆっくりと息を吐いた。
今すぐ、何かを変えられるわけじゃない。
(それでも……)
もう、「何もしていない」とは言えない。
スマホをポケットに入れてみわは、信号を渡りきり、歩き出す。
人波の中で、肩がぶつかるけれど、誰も、彼女に特別な視線を向けない。
それが、少しだけ怖くて、少しだけ、楽だった。
仮面は、まだ顔にある。
けれど、その内側で、確かに軋む音がしている。
剥がれ落ちるのは、きっと、これからだ。
みわは、その音を聞きながら、何も持たない手を、強く握りしめた。




