4話:境界の温度
大学のカフェテラスは、みわにとって「過剰」という言葉を煮詰めたような場所だった。
頭上から降り注ぐ春の日差しは、遠慮というものを知らない。遮光カーテン越しに濾過された実家の薄闇とは正反対の光だ。原色の服、剥き出しの笑い声、誰に見られているかを前提にした身振り。
ここでは、存在そのものが主張だった。
テーブルの上には、食べかけのパスタや、氷の溶けかけたプラスチックカップが並んでいる。配置に意味はなく、秩序もない。それが、ミリ単位で統制された実家の食卓を、わざと踏みにじっているように見えた。
それでも、みわはこの場所に座っている。この騒音の中にいないと、自分が「濁っていない」ことを確かめられないからだ。
「ねえ、この前さ」
向かいの席で、誰かが声を上げる。
「今泉さん、めっちゃイケメンと歩いてたらしいよ」
名前が出た瞬間、みわの指がストローを軽く押した。カップの中で、氷が小さく鳴る。
「え、まじ?彼氏?」
「いや、年上っぽかったって。モデルとか?」
「写真専攻だし、そういう繋がりあるんじゃない?」
噂は、自然に恋バナへと形を変える。
「みわはさ、恋人とか作らないの?」
「絶対モテるのに」
みわは、少しだけ考える素振りをしてから笑った。
「うーん、いい人いなくて」
当たり障りなく答えると、周囲が一斉に反応する。
「みわって、付き合う人が結婚する人になりそう」
「わかる。みわって、いい子だし優しいもんね」
「年上の誠実な人がお似合いって感じ」
「誠実、か」
みわは、口の中でその二文字を転がした。飲み込まず、吐き出しもせず、ただ苦いガムのように噛み締める。
「みわちゃんって、嘘とかつかなそうだもん」
隣でパスタを巻いていた友人が、無邪気に追い打ちをかける。
「そんなこと、ないよ」
穏やかに否定しながら、みわは視線をテーブルの上の「無秩序」に戻した。溶けきった氷のせいで、自分のカフェラテはもう、ひどく薄い色をしている。
(今も嘘ついてるし)
心の中でだけ、そう付け足す。
その人に家庭があることは、最初から分かっていた。どんなに都合よく振る舞っても、自分が「選ばれない側」であることも。
それでも、その関係は続いている。
理由は単純。楽だから。
相手は、みわに何も求めない。
将来の話もしない。
期待もしない。
責任も、持たない。
その代わり、みわは「いい時間」を用意すればいい。
笑って、話を聞いて、心配する。それは、ずっとやってきたことの延長で、みわの得意なことだった。
彼は、みわを「優しい子」だと言った。
家庭では言えない弱音を、みわにはこぼした。
「君といると、楽だ」
その言葉を聞くたび、みわは頷いた。
それが、正しい反応だと知っていたから。
会うのは、平日の夜。人目を忍ぶ必要がある彼が用意する場所はいつも、この街の喧騒をはるか下に見下ろすホテルの高層階の一室だった。
彼は、誰もがその名を知る企業の役員で、 仕立てのいいスーツを着て、磨き抜かれた靴を履いている。何より自分以外の人間を「選ぶ側」にいる者の余裕を持っている大人だ。
彼が身にまとっているのは、みわの実家にある「秩序」を、さらに洗練させ、巨大な富でコーティングしたような世界だった。
彼はみわといる間、必ずスマートフォンを伏せて置く。
通知が鳴ると、画面を見ずに謝る。
「家からかも」
みわは、何も言わない。
責めないことが、みわの役割だから。
「おいで」
そう呼ばれれば、迷いなくその腕の中に収まる。彼の指に光る結婚指輪が、間接照明を受けて鈍く光るのを見ても、心は波立たない。むしろ、彼がその指輪を外さずに自分を抱くとき、みわは奇妙な安堵を覚える。
「選ばれない」ということは、これ以上、誰にも自分の内側を侵食されないということだ。
正解を求められないから、この関係は続いている。
「妻がさ、最近うるさくて」
そう言われたときも、みわは黙って聞いた。
否定も、同意もしない。
「仕事も忙しいし、家に帰ると疲れるんだ」
「大変ですね」
それだけ。それ以上は、必要ないと知っているから。
彼は安心したように息を吐く。
その瞬間、自分は、誰かの休憩場所なのだと理解する。
役に立っている。
必要とされている。
それで、みわには十分だった。
終電前には必ず帰るという、彼が決めた境界線。それは「家庭」という彼の秩序を乱さないための、絶対的なルールだ。
彼と別れたあとに立つ、駅のホームは、いつもがらんとしている。
誰もいないベンチに座る時間が、みわにとって唯一、仮面を剥がせる時間だった。
スマホを手に持ち、SNSアプリを開く。
アカウントが誰にも教えていない裏垢になっていることを確認して、悲鳴をあげるサレ妻たちにいいねをする。
その瞬間だけ、みわの胸の奥にある黒い澱みが、心地よい温度を持って脈打つのを感じた。
画面の向こう側では、顔も知らない誰かが、夫の不実を呪い、裏切られた絶望を血を吐くような言葉で綴っている。
《許せない》
《死んでしまえばいい》
《子供を置いてどこへ行ったの》
執念深く、剥き出しの言葉たち。ミリ単位で整えられた実家の食卓では絶対に許されない、秩序の欠片もない感情。
ひとつずつ読んでいく。
読み終わるたび、なぜか指が軽くなる。
これは、報復ではない。ましてや、彼女たちへの同情でもない。
指先で「いいね」を押すたび、胸の奥に、確かな重さが残る。
それが何なのかを、みわは考えないことにしていた。
彼が「家からかも」と伏せたスマートフォンの向こう側には、きっとこういう絶望が広がっている。彼が「疲れるんだ」とこぼした安らぎのない場所には、こういう悲鳴が充満している。
自分が彼の「休憩場所」になればなるほど、どこかの誰かの「地獄」が深まっていく。それが、生きているという感覚なのかどうか、みわには分からなかった。
(ごめんなさい、でも)
口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
(あなたが壊れるほど、私は必要とされるの)
高層階の部屋に満ちていた、あのバニラのような甘い芳香。彼の指先の温度。それらはすべて、画面の向こうで叫んでいる彼女の欠落によって、みわに与えられた報酬だ。
電車が近づく轟音が、静まり返ったホームに響き渡る。 眩しいライトが、みわの無表情を白日の下にさらけ出す。
みわは素早くアプリを閉じ、何食わぬ顔でスマートフォンをバッグにしまう。いつものように。 濁り一つない、誠実で優しい「みわ」として、電車に乗り込むために。
みわは、サレ妻アカウントに、いいねを落とす。
カフェテラスで、誰かが笑い声を上げて、みわは現実に引き戻された。
「今泉さんさ、あんなに一人で平気そうなの、逆にすごくない?」
胸の奥が、わずかに引っかかる。
心配を受け取らない人。距離を保つ人。
自分は、形を変えて、境界を薄くして、ここにいるのに。
「みわってさ」
別の友人が、軽い調子で言った。
「優しいけど……ちょっと距離、近いよね」
笑いながらの指摘。
善意の形をした言葉。
みわは、その場でも笑った。
「そうかな?」
否定はしなかった。
そのまま、話題は次へ移る。
みわは、テーブルの上の溶けきった氷を見つめながら、ストローを一度、回した。




