3話:好きだったもの
みわがそれを好きだった、と言える時間は短い。
好きだと思った瞬間、それは「よくないかもしれないもの」に変わる。そうやって判断する癖は、いつの間にか身についていた。
高校時代、みわの自室は異様なほど整っていた。
母が扉を開けたとき、眉をひそめる理由が一つも見つからないように。
「勉強しているの?」と問われたとき、迷いなく肯定できる空間であるように。
そこには、説明が必要なものがなかった。
みわは、自分の生活から余分なものを削り続けた。
級友たちの部屋を占領している色鮮やかなアイドルも、意味もなく可愛らしいぬいぐるみも、感情を主張する装飾品も置かなかった。
それらは、いつか理由を求められる。
理由を言葉にできないものは、この家では扱いにくい。
みわが求めたのは、誰にも咎められず、誰の視線にも引っかからない場所だった。
清潔で、静かで、少しだけ空っぽな空間。
*
みわは、自分で進路を選んだ。それは、大きな決断というほどのものではなかった。
母が勧める女子大のパンフレットを机の端に寄せ、映像学科の文字が並ぶページを、少しだけ長く眺めただけだ。
別に、表現したいものがあったわけじゃない。
声を張らなくて、笑顔を作らなくていい。
自分が評価される側に立たなくていい。
ただ、記録する側でいられる。
好きだと言わなくても、残るものがある。
そういう場所なら、自分は呼吸できる気がした。
だから映像学科を受験した。
でも、その理由をうまく説明できる言葉を持っていなかったみわは、母に「将来の選択肢が広がるって、先生に言われたから」と、伝えた。安心してもらうための、摩擦の少ない答えだ。
母は少し黙ってから、「ちゃんと考えたなら、いいと思うわ」と返した。
対する父は、何も言わなかった。
その沈黙は、賛成ではなく、明らかに判断の放棄だった。
母の望みとは違う進路を選んだことは、みわを解放する何かにはならなかった。
喉の奥に、小さな異物が残っている。
痛みというほどではない。けれど、飲み込もうとするたび、そこにある。
(お母さんの言う通りにしなかった)
その事実が、何度も胸の内を通過する。
(だから、それ以外では、ちゃんとしていなければならない)
その考えは、いつの間にか前提になっていた。
淡い色の服を選び、角の立たない言葉を使い、母が誇れる「娘」の形を、少しずつ体に馴染ませていく。
自分で選んだという記憶は、その代償として、内側を静かに削っていった。気づけば、残ったのは、期待の型に流し込まれた抜け殻だけだった。
そんな中、イヤホンだけは机の引き出しにしまってあった。
見えないところに置いておけるものなら、視線を煩わせずに済む。主張しなければ、持っていても許される気がした。
引き出しを開けると、絡まったコードがいつも同じ位置にある。きちんと巻き直すこともせず、捨てることもできず、ただ、そこにある。
夜、家の灯りがすべて落ちてから、みわはベッドに横になり、イヤホンを耳に差し込む。
音量は最小限。
隣の部屋に漏れない程度。
自分の心拍と、ぎりぎり重なるくらい。
音楽が流れると、世界の境界が少しだけ曖昧になる。
誰にも見られていない。
誰にも評価されていない。
「ちゃんとしているかどうか」を確かめられない時間。
五人組の男性アイドルグループ、ECHO-ISM。
揃いすぎるダンスと、削られたようなまっすぐな歌声。
みわは、その名前を声に出さない。
画面の文字を、指でなぞるだけだ。
特に好きだったのは、センターのトワ。
歌っているとき、彼は観客を見ていない。
媚びる視線も、期待する仕草もない。
それが、不思議だった。
どうして怖くないのだろう。
どうして嫌われることを考えないのだろう。
そう思うたび、みわは音量をほんの少し下げた。
好きだと自覚すると、それは危うくなる。
だから、この時間に名前はつけない。
イヤホンを外せば、なかったことにできる距離。
やがて音楽が終わる。
再生ボタンを押すかどうか、少しだけ迷う。
迷っている時間のほうが長いことには、気づかないふりをした。
イヤホンを引き出しに戻すと、部屋はまた静かになる。
何も主張しない空間。
何も問われない自分。
これなら、大丈夫だと思った。
誰も困らない。
誰も傷つかない。
母は、みわが音楽を聴いていることを知っていた。
イヤホンを外し忘れた夜、何度か注意されたことがある。
「遅くまで起きてると、体に悪いわよ」
責める声ではなかった。
みわは「うん」と答えて、音量を下げた。
それ以上、何も言われなかった。
だから、そのまま聴き続けた。
ある日、ニュースが流れた。
年上の女優。
既婚者。
画面の中で「裏切り」という言葉が使われ、世界は一斉に同じ方向を向いた。
そして、トワが、スキャンダルで活動を休止した。
みわは、スマートフォンを握ったまま動けなかった。
何が悪いのかは、分からない。
ただ、石が投げられていることだけは分かった。
その夜、母が言った。
「やっぱりね。アイドルなんて、作り物よ」
何気ない口調だった。
「真面目そうな顔してても、裏では分からないものね」
母に同意するように、父も頷いた。
それで話は終わったから、みわは、何も言わなかった。
言えば、理由を聞かれる。
理由を説明できないものは、この家では扱いにくい。
翌日から、ECHO-ISMの曲は聴かなくなった。
イヤホンは引き出しの奥にしまった。
誰かに止められたわけではない。
自分で、そうした。
トワは、しばらくして姿を消した。
それを世界の終わりだと呼ぶ人はいなかった。
みわも、呼ばなかった。
大学に入ってから、その記憶は静かに沈められていた。
それなのに――今泉氷彗。
彼女の名前が添えられた写真が、みわの心に沈殿していたものを揺らした。
何を写しているのか、よく分からない。
それでも、目を離せなかった一枚の写真。
理由を言葉にできないものに触れたときの、あの感じ。
そこに、トワと同じ匂いがあった。
自分で選んだ映像学科。カメラは、自分を消すための道具でしかないみわは、「評価されやすい構図」ばかりを探している。
でも、氷彗の写真は違う。
消そうとしていない。
覆ってもいない。
それが、どうしても目についた。さらに、その先にトワがいると知ったとき、胸の奥が冷えた。
自分は捨てた。
彼らは、捨てていない。
それだけの違いが、耐え難かった。
(私は、ちゃんとしていたのに)
その言葉が、沈む。
氷彗が叩かれ、トワの過去が掘り返される。それを見ながら、胸の奥が少しだけ静かになる。
そうでなければ、自分の選択が揺らいでしまう。
好きだったものは、みわが初めて選びかけたものだった。だから、長く持てなかった。理由を言えないものを、抱え続ける勇気がなかったからだ。
ベッドに横になり、目を閉じる。
イヤホンは、もう使っていない。
それでも、耳の奥には声が残っている。
誰にも向けられていない歌声。
触れなければ、失くしたことにはならない。
みわは、そう思いながら静かに息を吐いた。
好きだったものは、まだ胸の奥にある。
ただ、もう名前を呼ばないだけだ。




