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逆光のまま、名前を呼ばずに  作者: 月食ぱんな
現像できない色のままで
11/12

3話:好きだったもの

 みわがそれを好きだった、と言える時間は短い。


 好きだと思った瞬間、それは「よくないかもしれないもの」に変わる。そうやって判断する癖は、いつの間にか身についていた。


 高校時代、みわの自室は異様なほど整っていた。


 母が扉を開けたとき、眉をひそめる理由が一つも見つからないように。

「勉強しているの?」と問われたとき、迷いなく肯定できる空間であるように。


 そこには、説明が必要なものがなかった。


 みわは、自分の生活から余分なものを削り続けた。

 級友たちの部屋を占領している色鮮やかなアイドルも、意味もなく可愛らしいぬいぐるみも、感情を主張する装飾品も置かなかった。


 それらは、いつか理由を求められる。

 理由を言葉にできないものは、この家では扱いにくい。


 みわが求めたのは、誰にも咎められず、誰の視線にも引っかからない場所だった。


 清潔で、静かで、少しだけ空っぽな空間。



 *



 みわは、自分で進路を選んだ。それは、大きな決断というほどのものではなかった。


 母が勧める女子大のパンフレットを机の端に寄せ、映像学科の文字が並ぶページを、少しだけ長く眺めただけだ。


 別に、表現したいものがあったわけじゃない。


 声を張らなくて、笑顔を作らなくていい。

 自分が評価される側に立たなくていい。


 ただ、記録する側でいられる。

 好きだと言わなくても、残るものがある。


 そういう場所なら、自分は呼吸できる気がした。

 だから映像学科を受験した。


 でも、その理由をうまく説明できる言葉を持っていなかったみわは、母に「将来の選択肢が広がるって、先生に言われたから」と、伝えた。安心してもらうための、摩擦の少ない答えだ。


 母は少し黙ってから、「ちゃんと考えたなら、いいと思うわ」と返した。


 対する父は、何も言わなかった。

 その沈黙は、賛成ではなく、明らかに判断の放棄だった。


 母の望みとは違う進路を選んだことは、みわを解放する何かにはならなかった。


 喉の奥に、小さな異物が残っている。

 痛みというほどではない。けれど、飲み込もうとするたび、そこにある。


(お母さんの言う通りにしなかった)


 その事実が、何度も胸の内を通過する。


(だから、それ以外では、ちゃんとしていなければならない)


 その考えは、いつの間にか前提になっていた。


 淡い色の服を選び、角の立たない言葉を使い、母が誇れる「娘」の形を、少しずつ体に馴染ませていく。


 自分で選んだという記憶は、その代償として、内側を静かに削っていった。気づけば、残ったのは、期待の型に流し込まれた抜け殻だけだった。


 そんな中、イヤホンだけは机の引き出しにしまってあった。


 見えないところに置いておけるものなら、視線を煩わせずに済む。主張しなければ、持っていても許される気がした。


 引き出しを開けると、絡まったコードがいつも同じ位置にある。きちんと巻き直すこともせず、捨てることもできず、ただ、そこにある。


 夜、家の灯りがすべて落ちてから、みわはベッドに横になり、イヤホンを耳に差し込む。


 音量は最小限。

 隣の部屋に漏れない程度。

 自分の心拍と、ぎりぎり重なるくらい。


 音楽が流れると、世界の境界が少しだけ曖昧になる。


 誰にも見られていない。

 誰にも評価されていない。

「ちゃんとしているかどうか」を確かめられない時間。


 五人組の男性アイドルグループ、ECHO-ISM。

 揃いすぎるダンスと、削られたようなまっすぐな歌声。


 みわは、その名前を声に出さない。

 画面の文字を、指でなぞるだけだ。


 特に好きだったのは、センターのトワ。


 歌っているとき、彼は観客を見ていない。

 媚びる視線も、期待する仕草もない。


 それが、不思議だった。


 どうして怖くないのだろう。

 どうして嫌われることを考えないのだろう。


 そう思うたび、みわは音量をほんの少し下げた。


 好きだと自覚すると、それは危うくなる。

 だから、この時間に名前はつけない。


 イヤホンを外せば、なかったことにできる距離。


 やがて音楽が終わる。

 再生ボタンを押すかどうか、少しだけ迷う。


 迷っている時間のほうが長いことには、気づかないふりをした。


 イヤホンを引き出しに戻すと、部屋はまた静かになる。


 何も主張しない空間。

 何も問われない自分。


 これなら、大丈夫だと思った。


 誰も困らない。

 誰も傷つかない。


 母は、みわが音楽を聴いていることを知っていた。


 イヤホンを外し忘れた夜、何度か注意されたことがある。


「遅くまで起きてると、体に悪いわよ」


 責める声ではなかった。

 みわは「うん」と答えて、音量を下げた。


 それ以上、何も言われなかった。

 だから、そのまま聴き続けた。


 ある日、ニュースが流れた。


 年上の女優。

 既婚者。


 画面の中で「裏切り」という言葉が使われ、世界は一斉に同じ方向を向いた。

 そして、トワが、スキャンダルで活動を休止した。


 みわは、スマートフォンを握ったまま動けなかった。


 何が悪いのかは、分からない。

 ただ、石が投げられていることだけは分かった。


 その夜、母が言った。


「やっぱりね。アイドルなんて、作り物よ」


 何気ない口調だった。


「真面目そうな顔してても、裏では分からないものね」


 母に同意するように、父も頷いた。


 それで話は終わったから、みわは、何も言わなかった。


 言えば、理由を聞かれる。

 理由を説明できないものは、この家では扱いにくい。


 翌日から、ECHO-ISMの曲は聴かなくなった。

 イヤホンは引き出しの奥にしまった。


 誰かに止められたわけではない。

 自分で、そうした。


 トワは、しばらくして姿を消した。


 それを世界の終わりだと呼ぶ人はいなかった。

 みわも、呼ばなかった。


 大学に入ってから、その記憶は静かに沈められていた。


 それなのに――今泉氷彗。


 彼女の名前が添えられた写真が、みわの心に沈殿していたものを揺らした。


 何を写しているのか、よく分からない。

 それでも、目を離せなかった一枚の写真。


 理由を言葉にできないものに触れたときの、あの感じ。


 そこに、トワと同じ匂いがあった。


 自分で選んだ映像学科。カメラは、自分を消すための道具でしかないみわは、「評価されやすい構図」ばかりを探している。


 でも、氷彗の写真は違う。


 消そうとしていない。

 覆ってもいない。


 それが、どうしても目についた。さらに、その先にトワがいると知ったとき、胸の奥が冷えた。


 自分は捨てた。

 彼らは、捨てていない。


 それだけの違いが、耐え難かった。


(私は、ちゃんとしていたのに)


 その言葉が、沈む。


 氷彗が叩かれ、トワの過去が掘り返される。それを見ながら、胸の奥が少しだけ静かになる。


 そうでなければ、自分の選択が揺らいでしまう。


 好きだったものは、みわが初めて選びかけたものだった。だから、長く持てなかった。理由を言えないものを、抱え続ける勇気がなかったからだ。


 ベッドに横になり、目を閉じる。


 イヤホンは、もう使っていない。

 それでも、耳の奥には声が残っている。


 誰にも向けられていない歌声。

 触れなければ、失くしたことにはならない。


 みわは、そう思いながら静かに息を吐いた。


 好きだったものは、まだ胸の奥にある。

 ただ、もう名前を呼ばないだけだ。


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