2話:正しい家族
みわの実家の食卓は、毎日ほとんど同じ形をしている。
白いテーブルクロス。
中央に置かれた大皿。
取り分け用の小皿は、いつも人数分きっちり。
父は決まった席に座り、新聞を広げる。
母はその斜め向かいで、味噌汁をよそう。
みわの席は母の隣。
三人家族の、配置が変わった記憶はない。
「今日は、大学どうだったの?」
母は湯気の向こうから、何でもないことのように尋ねる。
「普通だよ」
みわは箸を揃えながら答えた。
普通という言葉が、この家ではいちばん安全だ。
「ゼミの発表、そろそろよね。準備は?」
「うん。先生にも褒められた」
嘘ではない。
でも、本当のことでもない。
褒められたのは内容ではなく、無難さだった。
けれど、母が欲しいのは細部ではなく、結果だけだ。
「さすがね。みわだから安心してたけどね」
安心、という言葉が、食卓の上に置かれる。
それは、母にとっての最大の賛辞だった。
母は、みわを見ている。
みわが問題を起こさない存在であることを、確認している。
「大学でも、ちゃんと周りとやってる?」
沈黙は、この家では母の質問タイムになる。
「やってるよ」
即答する。
間を置くと、余計な心配をさせてしまうから。
「この前ね、困ってる子がいて。少し声かけてあげたの」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
言うべき台詞を、体が先に覚えている。
母の目元が、わずかに緩む。
「まあ、優しいのね」
その反応を見て、みわはようやく息をする。
「あなたは昔から、気がつく子だったもの。空気を読むのが上手で」
(空気、ね)
みわは曖昧に笑った。
小さい頃、母の機嫌が悪い日は、家の中の音が変わった。
ドアの閉まる音が少し大きくなり、食器の置き方が乱暴になる。
そんなとき、みわは静かに部屋に戻り、声を出さずに遊んだ。
母は怒鳴らなかった。
叩きもしなかった。
ただ、疲れた顔で言うだけだ。
「今日は、ちょっと静かにしててくれる?」
それだけで、十分だった。
みわは「いい子」でいる方法を覚えた。
静かで、邪魔をせず、求められる前に動く。
最近「更年期だから」と繰り返す母は、その不機嫌を、理由のあるものとして扱うようになっていた。
「みわみたいな、優しい子がいてくれて、お母さん助かってるわ」
助かっている。
それは感謝の言葉で、役割の確認でもあった。
「そういえば」
母が箸を置き、思い出したように顔を上げた。
「ネットで少し見たんだけど、あなたの大学、なんだか騒がしいんですって? 」
みわの指先が、ぴくりと跳ねる。
味噌汁の表面に、細かな波紋が広がった。
みわの指が止まる。
「昔のスキャンダルを蒸し返されたアイドルと関係してる子がいるんでしょう?」
母の声には、心配の色が混じっている。
ただし、それは距離を保った安全な心配だ。
母はただ、自慢の娘が、不潔なものに触れてしまわないかだけを危惧していた。
「その子の写真をきっかけに、昔の悪い噂が蒸し返されたらしいじゃない。本当に、そういう目立ちたがり屋な子がいると、周りは迷惑よね。みわ、あなた巻き込まれたりしていない?」
母の瞳は、一点の曇りもなくみわを見つめている。 そこにあるのは、娘を信じている、守りたいという傲慢なまでの善意だ。
「……大丈夫だよ。私は、ただ遠くから見てるだけだから」
みわは、喉の奥にへばりつくような嘘を飲み込んだ。
「見てるだけ」というのは、半分は本当だ。
昨夜、スマートフォンを握りしめ、暗い部屋で今泉氷彗の住所を特定しようとするスレッドに《同じ大学だけど、この子性格悪いよ》と、ありもしない事実を書き込んだ。画面の光に照らされた自分の顔は、きっと今の母には見せられないほど醜く、歪んでいただろう。
「みわは、関わってないのよね?」
「うん」
嘘ではない。
「そうよね。あなたは、そういう面倒なことに首、突っ込まないもの」
母は安心したように身体の力を抜いた。
「でも、困ってる子がいたら、優しくしてあげなさい。見て見ぬふりはよくないわ」
その二つは、母の中で矛盾していない。
みわなら、両立できるはずだから。
「……分かってる」
そう答えるしかなかった。
「みわは、ちゃんとしてるからな」
父は新聞から顔を上げず、当然のことのように母の意見に補完する。新聞のページをめくる乾いた音だけが、やけに大きくリビングに響く。
ちゃんとしているかどうか。
それで、この家の判断は終わる。
「ご馳走さま」
食後、みわは黙って食器を下げる。
「ありがとう」
母の声が背中にかかる。
ありがとう、という言葉は、ここでは褒美であり、みわをいい子にさせる拘束具だった。
「おいしかったよ。お母さん、いつもありがとね」
思い出したように、付け加えておく。すると母は、とても誇らしげに笑った。
✳︎
みわの部屋は、まるでモデルハウスの展示室のように、生活の体温が切り捨てられている。
カーテンは、母が「飽きのこない、落ち着いた色だから」と選んだアイボリー。机の上には、一ミリのズレもなく並べられた鉛筆立てと、埃ひとつない卓上ライト。 そこには、「無駄なもの」は何一つ存在していない。
自室に戻り、母が整えてくれたベッドに腰を下ろし、スマートフォンを手に取る。
昼間送ったメッセージ。
まだ、既読はついていない。
みわは画面を見ながら、母の言葉をなぞる。
見て見ぬふりはよくない。
優しくしなさい。
ちゃんとしていなさい。
それらは命令ではない。
ただ、正解として置かれているだけだ。
(私は、ちゃんとしている)
だから、間違っていない。
スマホを手にし、アプリを開く。
《過去をロンダリングする男も、それを「エモい」とか言って担ぎ上げるカメラマンも、どっちもどっちで不潔》
みわの投稿に、いいねのハートが、まるで降り止まない黒い雪のように増えていく。
画面をスクロールするたび、吐き出した言葉が、知らない誰かの指先で「正論」に変わっていく。その数字の重みが、みわの空っぽな胸を満たしていく。
(そうだよ。私は、間違ってない)
母の言う「優しさ」は、正しい人のためのものだ。
母の言う「清潔」を汚した者たちに、慈悲を与える必要なんてない。
《今泉氷彗って、写真の加工が上手いだけじゃね?》
掲示板に並ぶ新しい書き込みに、みわはそっと「いいね」を押した。自分を縛り付けている正しい家への呪いと、氷彗への嫉妬が混ざり合い、真っ黒な快感となって指先を震わせる。
「……かわいそう、氷彗ちゃん」
ふと、画面の端に映り込んだ自分の顔を見る。完璧に整えられた眉。少しだけ巻いた、品の良い髪。母が選んだアイボリーのカーテンに溶け込むような、透明な顔。
鏡を見なくてもわかる。今の私は、お母さんが誇れる「いい子」の形をしている。
きちんとした部屋。きちんとした娘。その裏側で、自分を殺してまで守っている「白さ」を、誰にも侵させはしない。
特に、氷彗のように、汚れさえも武器にするような女には。
みわはスマートフォンを伏せると、何も入っていないゴミ箱を見つめた。
明日、また「いい子」を携えて大学へ行こう。そして、氷彗に囁いてあげるのだ。
「私にできることがあったら言ってね」と。
その時、氷彗がどんな顔をするのか。それを想像するだけで、みわの唇は、母が「上品ね」と褒めてくれた桜色のリップのまま、静かに弧を描いた。
この家は今日も静かで、壊れる気配がない。
誰も怒らず、誰も責めない。
正しくて、優しくて、安心できる家。
だからこそ、みわは知っている。
ここで覚えた振る舞いを、外で捨てることはできない。
それを失った瞬間、自分が何になるのか。
考えないようにして、目を閉じた。




