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1話:履歴書の余白

 《今月は彼女とナナちゃんの誕生日が近いから金欠 (つд⊂)エーン》


 液晶の光が、網膜を薄く削る。


 氷彗ひすいは、彼氏の裏垢に投稿されたその一文を、もう何度目か分からないほどなぞっていた。文字面はふざけているのに、綴られた中身はナイフのように鋭く、彼女の胸の真ん中を正確に抉ってくる。


 彼に「推し」がいると知ったのは、付き合い始めてしばらく経ってからだ。


『 Pipi☆Dot のナナちゃんに似てるね』


 彼から最初の褒め言葉をもらった時。意味がわからなくて、後で調べた。


 現れたのは、自分と似た顔のパーツを持ちながら、決定的に「何かが」違うアイドルの姿。


 ただ、確かに似てる。


 氷彗が自覚した瞬間、多くの人に熱狂的に愛されている存在と、自分が重なった。その瞬間、理由のない万能感が胸に広がって、自分が選ばれる側の人間になった気がした。


 氷彗はその気持ちのまま、彼を好きな気持ちにアクセル全開で走り出した。


 その後、贈られたワンピースは、偶然にも彼女の愛用しているブランドだったし、定期的に訪れる「どうしても外せない用事」という名の、空白の時間。

 その一つひとつに、自分と会ったこともない「ナナちゃん」の名前が重なる。でもそれが、彼にとって愛情の示し方なのだと、氷彗は自分に言い聞かせてきた。


 けれど、氷彗が真に渇望していたのは、二個一の特売品のようなセット扱いの誕生日ではなかった。ただ、自分だけを網膜に焼き付けて笑ってくれる、そんな不純物のない時間だ。


 だから、その問いに指が滑ったのは、生存本能に近い。


 《アイドルの子と私、どっちが大事なの?》


 吹き出しの中で踊る文字は、彼にとっては趣味への無理解であり、氷彗にとっては自身の輪郭を確かめるための悲鳴だった。


 彼からの返信が来るまでの数分間、氷彗はスマートフォンを伏せたまま、ベッドの縁を見つめていた。


 シーツの皺が、気持ち悪いくらいきれいに平行に並んでいる。


 ――どっちが大事?


 それは問いの形をしているけれど、答えはもう決まっている。


 自分を選べ、と迫っているだけだ。


 でも、彼が誰を好きでもいい、なんて綺麗事は言えないし、ナナちゃんじゃない方として数えられるのは、もっと嫌だ。


 スマホがブルリと震え、クイズの早押しボタンを押すように掴む。


 《それ、俺に選ばせる質問じゃなくない?》


 短い一文。

 言い訳も、怒りもない、淡々とした温度。


 《俺はナナちゃんを恋愛対象として見てるわけじゃないよ。でも、氷彗は今、そういう話をしてるよね?》


 氷彗は、喉の奥がひくりと鳴るのを感じた。


 《推しと張り合われるの、正直しんどい。それ、俺の居場所を否定されてる気がするから》


「……なにそれ」


 不満が口をついて出た。


「日本は、一夫一婦制でしょう。それくらいのこと、守られているはずでしょ」


 独り言は、湿り気を帯びて部屋の隅に吸い込まれた。


 法的に守られているのは自分だ。戸籍にも、住民票にも、彼の日常にも、ナナちゃんの居場所なんてどこにもないはずなのに。それなのに、どうして自分の方が、不法侵入した不審者のような居心地の悪さを感じているのだろう。


 《氷彗って、いつも自分のことしか考えてないよね。俺が何で元気をもらってるか、わかろうともしないでさ》


 追撃のように届いた言葉が、追い打ちをかける。


 以前、彼がライブの遠征でデートをキャンセルしようとした時、不機嫌全開で泣いて縋り付いた氷彗に彼が吐き捨てた言葉だ。あの時も、彼は「俺の楽しみを奪うな」と、まるで氷彗が悪の組織の女幹部であるかのように、正当な怒りをぶつけてきた。


 彼が言う「趣味への理解」とは、彼が他の誰かを想って熱狂している間、氷彗が物分かりの良い人形のように微笑んで待っていることを指している。


 氷彗が心のどこかで「そうならなきゃ」と思ってしまうのは、自分自身もまた、ナナちゃんという「正解」に寄せることでしか彼に愛される術を知らない、空っぽな人間だと自覚しているから。


『ナナちゃんに似ている氷彗』でなければ、彼にとって自分の価値は暴落する。


 《俺、趣味の話まで全部否定される関係は無理だよ》


 正論だ。

 推しは恋人じゃない。

 比較されるべき存在じゃない。


 分かっている。

 分かっているのに。


(じゃあ、私は?)


 指先が震える。

 正しいことを言われた瞬間、人は反論の言葉を失う。


 氷彗は、自分が重いと言われる理由を、初めて具体的に理解してしまった。


 それでも、ここで引き下がったら、自分は永遠に「理解できない側」に置かれる。


 だから、氷彗はとっておきの一文を送った。


 《答えないと、死ぬ》


 送信ボタンを叩いた瞬間、指先からドロリとした醜い何かが溢れ出し、自分が取り返しのつかない化け物に変質していく感覚があった。


 重い、暗い、底なしの。


 これは質問じゃない。彼を困らせるための言葉だ。そうやって自分の血を泥に変えてでも、彼の瞳を独占している極彩色の偶像から、その視線を無理やり引き剥がしてやりたかった。


「だって、好きだし、一人は無理だもん」


 返ってきたのは、氷のように平坦な拒絶。


 《またメンヘラ発動。重すぎ。趣味を理解してくれない子とは、もう無理》


 それは、あまりにも鮮やかな「正論」だった。


 氷彗の中で、何かが切れる音がした。プツリ、というよりは、薄いガラスが静かにひび割れるような音。悲しみよりも先に、虚しさが視界を覆う。スマホを握る指先は、熱を失い、死人のように冷え切っていた。


 別れを告げられ、彼という存在が「恋人」というフォルダから振り落とされた後も、指は呪いのようにタイムラインを更新し続ける。


 《ナナちゃんの生誕二部も行けそう。誰かチケット余ってませんか?》


 数秒前の投稿。そこには、氷彗との別れを惜しむ余白など一ミリもなかった。死ぬほどの覚悟でナイフを突きつけた自分と、今この瞬間に推しに会うために、チケットの算段をしている彼。


「……バカみたい」


 今の時代、人の心はあまりにも透けて見えすぎる。かつては「神秘」であったはずの内心は、今やタイムラインという名の履歴書に、最新のログとして克明に記される。


 《ゴミ袋三つ分くらいの感情を捨てた。 誰か今日、祝杯付き合ってーw》


 通知が跳ねる。それは氷彗を「片付けた」という報告だった。自分という存在は、彼にとっては生活のノイズでしかなく、捨ててしまえば「スッキリ」する程度の不用品。ゴミ袋の数という具体的な数字が、彼の中にあった氷彗の容積を残酷に証明していた。


「……だよね」


 乾いた笑いがこぼれた。彼は泣いていない。後悔もしていない。氷彗という「重荷」を下ろした彼は、むしろ軽やかで、推しへの純粋な情熱に満ち溢れている。


 一対一の愛において、特等席に座りたいと願う。

 それは、それほどまでに傲慢な贅沢だったのだろうか。


 全てにおいてトップになりたいわけじゃない。ただ、彼の心という狭いワンルームの中でだけは、誰にも脅かされない場所が欲しかっただけだ。


「……見えすぎちゃうから、救いがないんだよ。この世界は」


 画面を暗転させる。鏡のようになった液晶に映るのは、涙で形を失った自分の顔。


 一対一の愛を求めた結果が、

 一対多数の熱狂に敗北する結末。


 液晶の光が、氷彗の顔を青白く照らし出す。


「ゴミ袋」として捨てられた自分。その対極で、今もなお彼に祝福され、愛を注がれている「ナナちゃん」。


 氷彗は、震える指で今まで一度も動かしたことのなかった自分の裏垢を開いた。プロフィール欄も真っ白な、ただ彼を監視するためだけに作った空っぽの箱。


 検索窓に『Pipi⭐︎Dot ナナ』と打ち込む。眩いばかりの笑顔、ファンからの熱烈なリプライ、そして運営が投稿した「生誕祭まであと三日!」のカウントダウン画像。


 そのすべてが、氷彗の逆撫でされた神経を逆方向に突き刺した。


「あんたのせいで、私はゴミになった」


 彼が、私をナナちゃんに似ていると言わなければ。

 ナナちゃんが、この世にいなければ。


 指先が、汚泥を吐き出すように画面を叩く。


 《Pipi⭐︎Dotのナナ、実物見たことあるけど全然違う。あれ、加工でしょ》


 最低だ、と分かっているのに、送信した。


 《笑い方も無理。わざとらしすぎ》


 一拍置いて、また打つ。


 《あの目、怖い。媚びてるのバレバレ》


 指が止まらない。


 《泣きぼくろとかさ。描いてるでしょ、あれ》


 息が荒くなる。


 《あんなのに金出してるオタク、正気?》


 消そうとして、消せなかった。


 《騙されてるの、気づいてないだけ》


「あんた」という言葉が、勝手に指から落ちた。


 指が勝手に動き、更新したタイムラインに流れてきたのは、彼の最新の呟きだった。


 《なんか変なアンチ湧いてるけど、ナナちゃんは俺たちが守るから大丈夫。推しへの愛は、ゴミみたいな嫉妬に負けない》


「……あはは」


 声が出ていた。結局、どこまで行っても自分は「ゴミ」なのだ。言葉を尽くして攻撃すればするほど、彼の「守りたい」という正義感を燃え上がらせ、二人の絆を強くするだけのスパイスにされてしまう。


「ナナちゃん、お誕生日おめでとう」


 氷彗は、コンシーラーを手に取ると、鏡も見ずに、自分の左目の下にある泣きぼくろを、皮膚が赤くなるほど強く、強く塗り潰した。


「……私の方が、マシ」


 その言葉が、誰に向けられたものなのか、氷彗自身にも、もう分からなかった。


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