それでも、信じている
エマとライの視点が交互です。
夕方。
エマは家路を急いでいた。
日が落ちれば冷える。
そうでなくとも町の雰囲気は空々しく空虚だ。
無意識に腕輪を握る。
簡素な紐を組んだ腕輪だ。
自分で編んだ。
エマの分ともう一つ。
きっと今も変わらず彼の腕にあるはずだ。
祈りを込めて編んだ。
それが彼を守ってくれるはずだ。
そう思わないと心を黒く塗りつぶされてしまう。
家が見えてきて歩調を緩める。
暗くなる前に帰りつけた。
闇に囚われる前に。
鍵を開けて取っ手に手をかける。
家に入る前に無意識に隣の家を見る。
明かりのない家。
今は誰もいない家。
そこに住んでいた彼を思う。
家族ぐるみで付き合っていた彼とはずっと一緒にいた。
物心などつく前から。
当たり前のように傍にいた存在だった。
幼い頃には当然のように結婚の約束をした。
当たり前のようにずっと一緒にいられると思っていた。
このまま何事もなく結婚して子供を持ってーー
そんな当たり前の未来が来ると信じていた。
そこに、戦争が入り込んだ。
彼は徴兵されて戦地に赴くことになった。
何となくそろそろ結婚をとお互いに考えているような空気のあった頃のことだった。
戦地に赴く前に結婚する者は多かった。
だけど二人はそうしなかった。
彼が「君を寡婦にはしたくないから」と言ったから。
「帰ってきたら結婚しよう」とも言わなかった。
言ってはくれなかった。
まるで生きて帰ってこれないと思っているかのようだった。
それを指摘するのも怖くて。
そうだと肯定されるのもまた怖くて。
何も言えなかった。
彼も何も言わなかった。
言葉を探してみても言ってはいけない言葉ばかり思い浮かんで、結局は何も言うことができなかった。
それは彼のほうも同じだったのかもしれない。
何の約束もできなかった。
代わりにただ抱き合ってしばらくそのままでいた。
ーーライ、無事でいて。
エマが望むのはそれだけだ。
無理矢理視線を外してエマは家の扉を開けた。
*
この戦争に意味はあるのか。
そんな問いが浮かんでは消えるのは夜寝る前だ。
そんな詮なきことを考えるだけの余裕があるのはその時だけだ。
毎日緊張感漂う中で過ごしている。
とうに感情は凍りついてしまった。
毎日生きるか死ぬか。
殺るか殺られるかだ。
感情を凍りつかせなければとっくに心は壊れている。
いつまでこんなことが続くのか。
無意識に腕につけた紐で作られた腕輪に触れる。
戦地に送られる前にエマが作ってつけてくれたもの。
何も言わなかったけど、間違いなく無事を祈ってくれていた。
それくらい言葉がなくてもわかっていた。
言葉に出せなかったのだということも。
エマのことを考える時だけ僅かに人間に戻れる気がする。
ーーエマ、君は元気でいるだろうか?
そうであってほしい。
その願いだけを抱いてライは束の間の眠りに身を預けた。
*
町から音が消えていく。
通りに響いていた子供たちの声も。
賑やかに聞こえていた呼び込みの声も。
明るく朗らかであった女たちの井戸端会議も。
いつの間にか聞こえなくなっていた。
息を殺しているのではない。
ただ、もうそんな気力がないのだ。
誰かが始めた戦争は町から男をーー彼女らの大切な父や夫や息子、兄弟や恋人や友人を奪っただけではない。
日常の中で確かにあった生きる力までもを奪ったのだ。
誰が望んだ戦争なのだろう?
エマたち平民は誰もそんなものを望んでいなかったのに。
ただ大切な人たちと生きていく、そんな当たり前だった日常こそを望んでいたというのに。
どうしてそれさえも奪うのだろう。
エマたちが何かしたというのだろうか。
いやそんなはずはない。
これはただ国のお偉方が何かしらの理由をつけて始めたことなのだ。
エマたち平民のことなど彼らには関係ないのだろう。
ただ自分たちの都合だけなのだ。
犠牲になる者たちのことなどきっと何も考えていないのだ。
*
この戦争は上が勝手に決めて勝手に始めたことだ。
誰も望んでなどいなかった。
ただささやかと呼ばれる幸せな日常を過ごし続けていたかっただけなのに。
こんな、命のやりとりをするような場は望んでいなかった。
決して望んでいなかった。
*
エマの父親は足を悪くしていて徴兵を免れた。
代わりのように兄のエリクが戦地へと送られた。
兄には妻と二歳になる息子がいるのに。
その甥はしばらくの間は父親を恋しがって泣いていた。
だがいつしか部屋の隅でじっとしているか、母親やエマにべったりとくっついて静かにしていた。
その小さな身体で何かを感じ取って耐えているようだった。
まだあんなに幼いのに。
戦争なんてなければ両親に囲まれて笑ってのびのびと育っているはずなのに。
戦争はこんな小さな子供の笑顔までもを奪い、我慢を強いている。
そのことをお偉いさん方はどう思っているのだろう?
何も思っているわけがないか。
平民のことなど上の者は気にもかけていないに違いない。
*
結婚したばかりだという男がいた。
「俺が死んだら彼女には見舞金が支払われる」
本当に支払われるといいが、と思ったが口にはしなかった。
戦争に勝っても負けても疲弊した国にどこまで支払う能力があるか。
下々のことまで果たして本当に目を配ることはあるのだろうか。
「今度子供が生まれるんだ」
そう言った男は嬉しさと悲しみの混じった複雑そうな顔をしていた。
ライは彼のそんな顔を見たら何も言うことはできなかった。
それなら生きて帰らないとな、とも口にすることはできなかった。
周りはおめでとう、とか、楽しみだな、とか、言っていたけれど。
ライにはどうしても言葉にすることができなかった。
*
生まれた我が子を母親となった女性が殺した。
「こんな時に生まれても不幸になるだけだから」
彼女は涙も溢さずに悲しみだけをその瞳に湛えていた。
子供ができたと幸せそうにお腹を撫でていたのに。
誰にも咎められない。
ただ代わる代わる彼女の背中を優しく撫でた。
この理不尽なことによってもたらされた悲劇はきっと上の者たちには届かない。
知ろうともしないのだろう。
だけど知られれば彼女は罰されるかもしれない。
どんな気持ちで、どんな事情でそのようなことをしたのかなど斟酌せず、ただ自分たちの正義だけを押しつけて処罰するのだろう。
それなら知られないほうがいい。
届かなくていい。
*
左腕につけた紐で編んだ腕輪を撫でる。
すっかりと癖になってしまった。
腕輪に触れている時だけ、人間に戻れる気がする。
一生懸命に祈りを込めて編んでくれたもの。
エマの温もりを感じられた。
心の中でそっと呟く。
ーー帰りたいな、エマ、君のもとに。
*
戦況が激しくなっていると聞く。
戦線はまだ遠い。
だが。
町の色が暗くなっていく。
人々からは感情が抜けていくようだ。
町の空気も重苦しい。
エマも家族も重たい鉛を飲み込んだような日々を過ごしている。
何の知らせもない。
兄もライも無事なのかわからない。
最初の頃は帰ってきていた遺体も今はほとんど帰ってきてはいない。
戦死する者が減ったなどと楽観的なことは到底考えられない。
帰す余裕がなくなったのだろう。
無事でいてほしい。
願うのはそれだけだ。
だけどどんな状況なのか、それを知る手立てもない。
戦争はどちらが優勢なのだろう?
そんなことすらわからない。
今はどの辺りで戦っているのだろう?
いずれこの町にも戦禍がやってくるのだろうか?
いつになれば戦争は終わるのだろう?
いつになったら、帰ってきてくれるのだろう?
*
上官たちのもとには手紙が届く。
彼らもまた返事を書いているようだった。
下っぱのライたちも手紙を書けば届けてくれると言われていたが、書いた者はいない。
手紙というのは双方に書かれていることがわからなければ意味のないものだ。
上官たちはわかっているのか。
平民のライたちのほとんどは文字を読むこともできないのだ。
伝えたいことも知りたいことも伝えられないし、知ることはできない。
大事な人にまだ生きていることを伝えることも、大事な人が元気でいるかを知ることもできないのだ。
その辺り、本当に気づいていないのだろう。
*
その知らせは唐突に届いた。
いやゆっくりと人伝に伝わってきてようやくエマのもとに届いたというほうが正しいかもしれない。
和平が成立した、らしい。
結局何のための戦争だったのか、どちらが攻めいったのか、平民のエマたちにはわからない。
どれくらいの被害が出たのか、も。
これから検証されるのかもしれないがそれを知ることはないだろう。
わかっていることは一つだけ。
これで戦争に連れていかれた人が帰ってくる。
近所の人や兄、それからライも。
……生きてさえいれば。
*
和平が成立した。
上官から伝えられ、あちこちから安堵の息が漏れるのが聞こえてくる。
ライもほっとして身体の力を抜いた。
これでいつ殺されるか、怯えずに済む。
誰かを殺さずに、済む。
戦況は硬直していた。
その分無謀な戦いも増えて犠牲者は増えていっていた。
その事態を重くみた者が双方の陣営の上層部にいたのだろう。
交渉がまとまって和平にこぎつけたのだと思われる。
よかった。
ぎゅっと腕輪を握る。
これでやっと帰れる。
エマのもとへ。
*
兄が帰ってきた。
五体満足だ。
よかった。
義姉と息子と抱き合った兄がエマにも両手を広げたので抱きつく。
「お帰りなさい」
「うん、ただいま」
ひとしきり抱きしめ合った後でエマの顔を見た兄は表情を曇らせた。
「ライは、まだ帰っていないのか?」
そう兄が訊くということは生きているのだろうか?
無意識に腕輪を握っていた。
無言で頷く。
「エマ、悪い。あいつとは別部隊になって、俺には安否がわからない
」
すっと血の気が引いていく。
兄が帰ってくればライも一緒に帰ってくる。
一緒じゃなくても安否くらいはわかる。
そう信じていた。
まさか安否もわからないなんて。
「ただ、死んだという話は聞いていない」
「そう」
辛うじて言えたのはそれだけ。
どこまでもどこまでも身体が冷えていく。
「エマ? エマ大丈夫か!?」
「ええ、ええ、大丈夫よ」
「座れ、な?」
「ええ……」
義姉が運んでくれた椅子に力なく座った。
義姉がぎゅっと抱きしめてくれる。
「きっと無事よ。大丈夫、大丈夫よ」
ライは義姉にとっても弟同然だ。
声が震えている。
それにエマは何も返すことはできなかった。
だらりと垂れた腕につけられた腕輪が静かに揺れていた。
*
もうエリクは帰り着いただろうか?
そう考えてはっとする。
エリクが無事だろうかと頭に浮かぶことは今までなかった。
それだけの余裕がなかった。
エリクとライは別部隊に配置された。
他の部隊にいる知人の安否など知ることはできなかった。
自分の命だけで精一杯だった。
きっとそれは誰もが同じだ。
今更ながらエリクの無事を祈った。
無事に帰り着いているといいとただ願う。
和平が成立しても油断するなと上官は言っていた。
それでも恨みから、あるいは和平が結ばれたことを知らされておらずこちらを襲撃する者がいるかもしれないから、と。
油断はできない。
それでも身体から強ばりは消えていた。
心も張り詰めてはいない。
疲弊はしていたが、安堵感に包まれている。
あとは、帰るだけだ。
歩くライの腕でエマの作った腕輪が揺れていた。
*
墓の前でエマは静かに佇んでいた。
この墓は、彼のーー
ぎゅっと腕につけた腕輪を握りしめる。
ーーどうか、
祈りを、願いを心の中で告げようとした時、後ろから強く抱きしめられた。
「ただいま」
その声が耳に届いた途端、エマの目から静かに涙が零れた。
「お帰りなさい、ライ。信じていたわ」
「うん」
ますます腕に力がこもり、肩に額を埋められる。
ーーライを守ってくれて、ありがとう。
心の中で告げる。
ここはライの両親の墓だ。
エマは暇を見つけてはここに通い、ライの無事を願っていた。
エマが供えた野の花が風に揺れる。
ライの無事を喜んでいるかのようだ。
二人はそのまましばらく抱き合っていた。
その二人の腕では、エマの編んだ腕輪がゆらゆらと揺れていた。
読んでいただき、ありがとうございました。
戦記、とは? と考えて出来上がったのがこの作品でした。
皆様の考えている戦記とはもしかしたら違うかもしれません。
ですが、戦争を記したもの、ということでしたら、これも戦争の一面かなと思いました。
読んでくださり、ありがとうございます。




