第4章 ep.27 破軍一線 ― 三の型
砂は焼け、空気は鋼の線で裂かれているのに――決着は落ちてこない。
人の姿になったバルゴラスは、速い。重さはそのまま、機動だけが羽根を得た。
拳が消え、影が遅れてついてくる。受ければ骨に響き、いなせば風を削ぎ、追いすがる二撃目が必ず間に合う。
ガルドは防戦一方だった。
剣を盾に、肩で押し、肘で引き、残光で目を眩ませ――それでも、間に合わない。
リリアの号令が飛ぶより早く、拳が来る。
「左回り――」「前傾禁止――」
声が落ちきる前に、次の衝撃が内臓を揺さぶる。
(くそ……! 声が、間に合わねえ)
背後は信頼の温度で満ちている。だが、戦場が要求するのは呼吸より速い即応だった。
間合いが密になった。指揮の“拍”より短い、無音の拍が生まれている。
そこで――ガルドは、初めて声の外へ踏み出した。
「ガルド、後退――」
号令が言い切る前に、彼は踏んだ。
右足を砂に噛ませ、左足を半歩だけ前へ。肩を落として視界の高さを変え、刃を静かに上げる。
剣は鳴らない。残光も灯さない。
リリアの指揮に頼らず、自分の目だけでバルゴラスの肩と腰、足の指の角度を読む。
拳が来る。
脛の筋がわずかに膨らみ、踵が砂を噛む。次に来るのは左の外回し――肘の張りで弧が読める。
(見えてる。見える。……間に合う)
ガルドは初動を殺した。
肩で押さず、手首であおらず、刃をただ“そこ”に置く。
拳が通るべき空間に、あらかじめ刃を置く。
音のない金属音。拳の皮が浅く裂け、紅が滲む。
バルゴラスの口角が上がる。「よろしい」
次は肘、その次は膝、そして掌底――
速さの上に組み立てられた連環が、刃の“置き”で一つずつ空転していく。
小さな成功がリズムを変え、ガルドの体内で、別の拍が鳴り始めた。
(任せるだけじゃ、届かねえ。
任せないだけじゃ、勝てねえ。
――両方だ。声と俺の目、あわせて叩き込む)
バルゴラスの拳が織り成す黒い網をかいくぐりながら、ガルドは視界の端に筋肉の記憶を呼び戻した。
回想
鉄の匂い。汗の光。
背中で笑うバルドとゴルドの、馬鹿みたいに真っ直ぐな励まし。
「押せ」「引け」「地面から力を借りろ」「肩で支えるな、背で支えろ」
筋肉は、ただ太くなるだけじゃない。力の流れを教えてくれた。
地を噛み、骨で受け、腱で弾き、筋で束ねる。
剣は腕で振らない。全身で“通す”。
その感覚が、今、確かに戻ってきた。
リリアの拍子に合わせるのではなく、拍子を身体で“先取り”する。
声が指示する前に、既にそうしている。
声は確認。身体が先行。
その瞬間、ガルドの剣から残光が消えた。
黒銀の《ソル・エクリプス》は、最も静かに最も重くなる。
残光は便利だ。だが、光は読まれる。
バルゴラスは速い。目が良い。光の軌跡は合図になる。
なら、光を消す。刃筋だけで、通す。
拳が来た。
ガルドは肩で受けず、肘で方向を“受け流す”。
刃の腹を当て、拳の“線”を半度だけ滑らせる。
空いた心臓の側面へ――入れない。二撃目の肘が来るからだ。
ならば、肘の“線”そのものを壊す。
柄で。
石を砕く鈍い音。肘の軌道が一瞬だけ“折れる”。
その瞬間、リリアの声が重なった。
「今、左側面――押せ」
「了解」
ガルドはすでに押していた。
声と身体が、初めて同時になった。
バルゴラスは僅かに目を細める。
「ほう。声の外でも踊れるか。――良い」
速さの密度がさらに上がる。
足裏の砂が鳴り、空気がぜいぜいと喘ぎはじめる。
拳は雨。だが、ガルドもまた雨になった。
残光のない雨。音のない雨。直線だけの雨。
観覧の端で、ラッツが息を詰める。
「あ、兄貴……なんか、静かなのに速い……!」
モルティナは盾を抱え、目を見開いた。(刃が――消えてる。いや、見えないほどまっすぐに“通ってる”)
カイは顎を引き、確信する。(いける。だが、決め手がいる)
(決め手。――技じゃない。道だ)
頭の中に、筋肉で描いた線が一本、光る。
地から頭頂へ、真っ直ぐに貫く線。
そこへすべてを積む。
残光も、フェイントもいらない。
必要なのは、一点から一点へ通る“道”。
ガルドは静かに息を吸った。
右足を砂に沈め、左足は蹴らない。押す。
脊柱が一本の槍になり、背筋が弦になる。
肩は下げ、肘は内。手首は折らない。
刃を斜めに寝かせ、直線で――
(これが、俺の――)
「ヴァレリアン流剣術――三の型」
声は低く、闘技場の底に吸い込まれていく。
名を与える。生まれる。今、この瞬間に。
「――《破軍一線》」
踏んだ。
地面が鳴った。
蹴ったのではない。地に預けた体重が、全身を矢にした。
刃筋が一線。最短距離。“隙を作って入る”のではない。“線を作って通す”。
バルゴラスの瞳孔がわずかに収縮する。
速さに対する反応は、もはや本能だ。
交差受け。前腕で刃を挟み、直線を殺す――はずだった。
だが、《破軍一線》は受けを拒否する。
刃は受けられる瞬間に角度を変えない。
変えないから、折れない。
受けの面に「一線」の重さがそのまま乗り、受けの骨格ごと破砕する。
骨の音だった。
前腕の骨が二重に軋み、皮の下で不自然に沈む。
次いで、肩の関節が外れ、胸郭が凹む。
刃は直線のまま、右鎖骨下から心臓の手前まで貫入し――止まる。
止める。殺さない。
“殺さず制圧”は、背中の指揮官と決めたルールだ。
遅れて、砂が裂けた。
空気が泣き、観覧が一拍遅れて悲鳴とも歓声ともつかぬ声を上げる。
バルゴラスの身体が一撃で散った――崩れ落ちる、のではない。
“線”の上に、すべての防御がまとめて落ちたのだ。
赤黒い霧が噴き、彼は片膝ではなく両膝をついた。
胸が浅く上下し、口角から血が一筋。
人型の顔に、獣の影が戻る。
「……見事」
その声は、真昼の影のようにうすく、しかし温かかった。
彼は壊れた前腕を見下ろし、胸の窪みを指先でなぞり、苦笑する。
「直線。簡素。ゆえに強靭……これが、貴殿の“道”か」
ガルドは答えない。刃を下げ、喉が上下するのを抑える。
腕が震えている。今の一線で、全身を使い切った。
「よくぞここまで連れてきてくれた」
バルゴラスはゆっくりと顔を上げた。紅の瞳が、どこか遠いものを映している。
「私は王であり、怪物であり、戦場の亡霊だ。
平和は私を腐らせた。魔王は私を赦した。
――そして、お前は私を満たした」
微笑に、涎はない。
理性と狂気が握手している穏やかな笑みだった。
「勝者は、勇者ガルド」
彼は自ら、それを宣言した。
次の瞬間、胸の奥で破裂の音がする。
再生の瘴気が一気に吹き上がり、それでも“線”の上だけは回復が拒まれる。
《破軍一線》が通した道は、治癒すら押し返す。
バルゴラスの上体が、音もなく前へ倒れた。
砂が柔らかく受け止め、黒髪がうつ伏せの肩に流れる。
その顔は、満足で満たされていた。
沈黙。
一拍。
もう一拍――
大歓声。
敵味方の区別は、今この瞬間だけ消えた。
反乱軍もスパルディア兵も、ただ戦いに喝采を送った。
バルドは担架の上で大の字になって泣き笑いし、ゴルドは包帯の上から拳を叩き付けて吠えた。
ラッツは鼻をすすり、「兄貴ぃぃ!」と叫び続け、モルティナは盾を抱えたまま膝から崩れてガッツポーズを作った。
カイは深く息を吐き、静かに頷く。(やった……!)
歓声の波が引き切る前に、リリアが歩み出た。
軍人の表情。氷の声。
だが、瞳の底にほんの一瞬だけ、溶けた氷の滴が光った。
「勝利を確認。勇者ガルド――見事だ」
賞賛は短い。余計な修辞はない。
それがかえって、どんな賛美よりも重く胸に落ちた。
ガルドは鼻を鳴らし、あさってを見た。
「……うるせぇ。お前の号令が、半分だ」
照れ隠しのぶっきらぼう。
リリアの睫毛が、かすかに震えた。
「了解。――では残り半分は、君の“道”だ」
ふたりの間に、熱のない風が通り、砂に小さな渦を描いた。
その渦がほどけるのを合図にしたかのように、闘技場全体の喧騒がふたたび爆ぜる。
誰もが叫び、笑い、泣き、肩をぶつけ合った。
勝者の名も、敗者の名も、輪の中では同じ熱で燃えた。
ガルドは《ソル・エクリプス》を静かに鞘へ戻した。
鞘鳴りは短く、心臓の鼓動もようやく落ち着き始める。
視線の先、砂の上に伏した人型の怪物は微動だにしない。
だが、その口元だけは、最期のままの満足をつづけていた。
肩の力が、抜ける。
背中の力も、抜ける。
「すべてが終わった」と、遅れて脳が理解する。
全身にまとわりついていた目に見えない棘が、一つずつ抜け落ちていく。
モルティナが駆け寄り、盾を脇に抱えたまま勢いよくガルドの腕を掴んだ。
「よ、よかった……ほんとによかった……!」
ラッツが鼻をぐすぐす言わせながら飛びつき、カイは苦笑して肩を叩く。
ルナリアは少し離れたところで、リリアの横顔だけを見つめていた。
その視線は危うく、だが今は刃を鞘に収めたままだ。
リリアが最後に一度だけ、短く告げる。
「撤収準備。負傷者、後送。――今日は終わりだ」
終わり。
その三文字が、闘技場にひろがり、砂の熱さをようやく現実に戻した。
青空はどこまでも高く、汗の塩が唇にわずかに甘い。
ガルドは空を見上げ、目を細め、低く笑った。
「……やっと、息ができる」
歓声は遠のき、焚き火の音が恋しくなった。
帰ろう。仲間の輪の中へ。
迎えに来た旅の、ひとつの章が、今、確かに閉じたのだ。




