第4章 ep.23 規律の号令 ― 戻る場所はまだ遠い
太鼓が二度、乾いた音を打った。
砂の匂いと鉄の味がまだ舌に残る。だが戦は、あっけなく幕を下ろされた。
勇者一行も、反乱軍の兵も、スパルディアの精鋭も。
誰もが一瞬、呆けて立ち尽くした。
ガルドは剣を握ったまま、喉に柄頭を押しつけた感触を反芻していた。届いたはずの一撃。それを奪われたような虚脱。勝利と告げられても、胸の奥は空っぽだった。
その静寂を破ったのは、号令だった。
「――諸兵、静粛」
リリアの軍靴が砂を踏む。
「スパルディア式決闘規定に基づき、第一戦の結果を確認。勝者、勇者ガルド。敗者、我が方。規定第二十五条――敗軍は勝者の指揮に服す。全員、武器を下ろし、膝をつけ」
ためらいは、ほんの一拍だけ。
黒鎧の兵たちは一斉に膝をつき、剣も槍も砂に突き立った。上官の命は絶対。心より先に身体が動く。
バルゴラスは白手袋を叩きながら進み出る。
ぱち、ぱち、と間の空いた拍手。
笑みは薄い。だが眼光は鋭く、獲物を舐め回すように細められていた。唇の端から涎が垂れ、それを拭うことすら忘れている。頬の筋肉が痙攣し、そのたびに目の奥がぎらりと光る。
酔っている。戦いに、流血に、規律に。すべてを肴にして、恍惚としている。
「規律は美しい。従順も、また美しい」
砂時計を弄びながら、愉悦をにじませた。
「だが、美は一夜にして咲かぬ。今日はここまで。諸君、明日――万全の状態で、全員でかかってきたまえ」
“全員”。その響きが、ガルドの胸を焼いた。
(舐めやがって……)
喉に苦さが広がる。
空洞の勝利。怒りが骨の内側で擦れ、血が熱を帯びる。
「今やるぞ、バルゴラス」
絞り出すように声を投げた。
「俺とお前、一対一だ。逃げるな」
バルゴラスは足を止め、角度だけ笑みを深める。
「提案は却下だ。不可。君は疲弊し、出血し、気勢を乱している。そんな賭け札は安っぽい。私が欲しいのは、美しい勝利だ。君を休ませ、整え、それでもなお勝つ――それが愉悦」
「怖いのか」
「逆だ」
声は穏やかだが、瞳に熱がある。
「私は私を倒しうる可能性を最大化した状態で、叩き潰されるかどうかを知りたい。だから今は拒否する」
苛立ちで喉が焼ける。だがその時、背から重みがかかった。
「ガルド」
カイの手だ。重いが温かい。
「今のお前じゃ、いいようにされるだけだ。限界だ。足も腕も震えてる」
「……そうよ」
モルティナは盾を磨く手を止め、低く言う。
「いま戦えば、守りきれない。整えてからでなきゃ、勝てるものも勝てない」
「お、俺も……! 今は退いた方がいいっすよ!」
ラッツは涙目で必死に頷いた。
ルナリアは刃を拭い、目を光らせた。
「今のガルドは危うい。血と怒りで狭まった目……」
最後の一言は妙に湿っていて、場を重くした。
リリアが一歩、前に出た。
直立した姿勢。軍人の顔。
「提案。明日の決闘――勇者ガルドの指揮を私が執る。敗軍は勝者に服す。従属兵はすべて指揮下に置く。許可を」
バルゴラスの笑みが揺らぐ。
「君が? 気は進まないな。だが……今ガルド殿を殺してしまうよりは面白い。よかろう」
「承認」
リリアは即答した。
その横顔は氷。だが、ガルドへ一瞬だけ視線を投げる。その奥に、かつての少女の影をガルドは見た気がした。
彼は舌打ちを堪え、渋々うなずく。
「……好きにしろ。勝つために使えるなら、何だって使う」
「了解」
リリアは踵を返し、兵たちに命令を飛ばす。
「列を整え、撤収。負傷者は後送。装備を点検し、報告は簡潔に」
即座に返る「了解」。
黒鎧の兵は素早く列を組み直し、昨日まで敵だった彼らが勇者軍の列に吸い込まれていく。規律が、境界線を塗り替えていた。
夜。拠点に戻った仲間たちは、それぞれ作業に没頭しながらも、何度もリリアを見やった。
砂を広げ、戦術を描く彼女。
短く鋭い命令口調。
冗談も微笑みもない。かつてお茶らけて場を和ませた仲間の面影は消えていた。
「……なぁ」
ラッツが焚き火をつつきながら呟いた。
「やっぱ変っすよ。ほんとにリリアなんすかね」
モルティナも眉を寄せる。
「わたしも……違和感がある。前はもっと、柔らかかったのに」
カイは低く言った。
「今は、無理に戻そうとするな。洗脳か、何か強い影響だ。気長に待つしかない」
その言葉に、一同は黙った。
しかし――
「救えた。それで十分」
ルナリアが顔を上げた。刃を研ぎながら、目を爛々と光らせる。
「リリアはここにいる。私の隣にいる。あとは誰にも渡さない。バルゴラスにも……ガルドにも」
「お、おいおい……」
ラッツが慌てて笑うが、誰も空気を軽くできなかった。
リリア本人は、気づいていないのか無視しているのか、砂の上に線を描き続けていた。




