第15話 梅雨の花は、かくも美しい
更新、大変遅れました…。
「はっ——はぁっ——」
一体どれだけ走ったのか。
後方からは激しい戦闘による、振動と音が響いてくる。
洞窟が揺れるたびに後ろ髪を引かれる思いだが、今はあいつらを信じて前に進むしかない。
頼むぜ神様。
これ以上大切なものを奪うってんなら、あんたを恨む…!
軽く湿り気を帯びた地面を踏み、光る苔を頼りに進んでゆくと。
中央に何やらぼんやりと浮かび上がってくる。
明かりの乏しい現状で人影のようにも見えたそれは、近くによることで鮮明になる。
「くそったれがぁ…!」
見えたそれは壁だった。だがただの壁ではない。
それを起点とし、走り抜けて来た通路は綺麗に真ん中で分たれていた。
ゆったりと近づき、過去の記憶が嫌でも想起される。
脳裏に浮かぶ、決して消える事のない悪夢。
焼きついた過去が、今、目の前の情景と重なる。
あの時、悩む事なくもう一方へ進んでいれば。
もっと良く周囲を観察していれば。
思い返せばきりが無いほど、今まで何度悔やんできたか。
そして目の前には、分かれ道。
再度、選択を迫られることになる。
もう後悔をしないために、慎重かつ迅速に道を選ばなければならない。
今もまだ、娘達の命は脅かされている。
一歩。
前へと、歩き出す。
呼吸が荒くなるのを感じる。
一歩。
また歩み出す。
視界が反転するかのようにぐらりと揺れる。
次の一歩は、踏み出せなかった。
足を上げようとしても、靴が地面から離れない。
そこには罠があるわけでも、異獣達の仕業によるものでも無い。
足は震え、己の意思とは関係無く、この場から動くことを拒んでいるようだった。
いや、自分でも分かっていた。
俺には選べない。選ぶことができない。
あの恐怖をもう一度味わいたくない。
がくりと力が抜け、その場に座り込んでしまいそうなる。
ここでシノアたちを待てば、観察力の高いあいつならきっと正解の道へと導いてくれるはずだ。
異獣の幼体たちとの戦闘で疲れているかもしれないが、ここの分かれ道だけ決めてもらえれば良い。
あとは、俺が力の限り走ってチビ共を助ければいい。
「——んなダセェこと出来るか…!」
あいつらは俺を信じて託したんだ。
折角切り開いてくれた道を、時間を無下にするなんてことは出来ない。
何より間違えた選択をしても、あわよくば責任をなすりつけようとしていた自分が愚かしい。
生きることを諦めかけていた俺に、再び生きる意味を与えてくれた可愛い娘達。
二人の顔を思い浮かべると、ただそれだけで胸の辺りがじんとなる。
両膝に拳を叩きつけ、喝を入れる。
簡単だ。簡単なことなんだ。
どちらか片方を選んで進むだけ。
ただそれだけのはずなのに。
「どうして動かないっ」
震えは止まっている。呼吸も正常に戻っているにも関わらず。
何故か足だけが動かない。
「クソ! 動け、動けっ!」
何度も己の足を叩くがピクリとも反応しない。
痛みは感じるため、感覚が無くなった訳ではない。
二人の顔を思い浮かべ、勇気をもらって尚、一歩踏み出すことの出来ない自分の弱さが腹立たしい。
「動けよぉ!!」
リンッ——
俺の声が木霊するのも束の間。
どこからか、鈴の音のようなものが響き渡る。
リンッ——
どこかの国の祭事を彷彿とさせるその音は、徐々にその音を大きくさせやがて前方のあたりで止まった。
『パパ!』
「っ——!?」
久しく聞くことの無かったその声に反射的に顔を上げてしまう。
何の変哲もない、土の壁。それに恐怖を覚えるほどの分かれ道があるはずだった。
しかし、顔を上げたそこにいたのは愛する自分の家族。
もう会えない、触れることすら叶わないと思っていた人物が、今目の前に立っている。
「リ、リィ…アイリス…?」
優しく微笑むように佇む妻と無邪気な笑顔を浮かべる娘。
自然と目頭が熱くなり、頬が濡れるのを感じる。
『——』
「な、なんて言ってんだ」
先程聞こえた声は幻聴だったのか、愛する娘の声が聞こえることは無く。
口が開いても音が響くことは無かった。
「ぐぅ……っ」
ぼやける視界の中で、優しくこちらを見つめる二人。
妻は美しいままで、娘は愛らしいままで。
分かっている、目の前にいる二人が現実のものではないことは。
知っている、自らが創り出した幻想だということを。
記憶の中のまま、変わらない姿。
二人がいなくなってから、色々なことが起きた。
話したいことが山ほどある。
いや、その前にまずは謝るところからか。
たとえ幻だろうと、亡くしたはずの愛しい人達と共にいたいという思いが込み上げてくる。
ここに留まって、言葉は聴こえずとも三人で語り明かしたい。
だがしかし、そんな幸福な時間を享受するのはこの瞬間では無い。
溢れる涙を無雑作に拭い、上を仰ぎ涙を止める。
「話したいことは沢山あるが、今は新しい家族を探さなくちゃならねぇんだ」
名残惜しいが、三人で話すのはもう少し先になりそうだ。
垂れる鼻水と涙の跡で、無理矢理に作った笑顔はとてもかっこいい父親とは言えないだろう。
「俺の記憶が生み出したものだっつうのは百も承知だ。だけど、こんな情けねぇ俺を助けちゃくんねぇか…?」
困ったような、嬉しいような表情を浮かべるアイリス。
生きている頃に何回も見たその表情は、やはり記憶のままで。
スッとリリィが左腕を上げる。
指さす方は俺から見て右に続く道。
まさか本当に娘達《チビ共》がいる方を教えてくれているのかと、驚愕に目を見開く。
目が合ったリリィはニコリと微笑むと、妻の手をそっと取る。
その流れのままリリィからアイリスへと視線を移すと、ゆっくりと首を縦に振る。
「——っ!」
何とも言えない感情が込み上げてくる。
また溢れそうになる涙を必死に堰き止め、二人を見つめる。
その瞳にはもう迷いは宿っていなかった。
「ありがとう」
気付けば足は自然と一歩、前に出ていた。
二人を抱きしめたい想いをぐっと堪え、指差した方へと走る。
すれ違う瞬間、僅かに聞こえる二人の声。
『妹たちをよろしくね』
風の音か、はたまた幻聴か。
しかししっかりと耳に残る二人の声。
愛しい人の声に思わず立ち止まり、振り返るがもうそこには二人の幻は無かった。
寂しさを感じる心とは裏腹に、温かい気持ちに包まれ身体は軽い。
また会える日に想いを馳せるが、今は託された妹達を助けなければ。
もう迷いも恐怖も無い。
踏み出す一歩は力強く、しがらみの無い足取りで前へと進む。
俺に生えていた根っこは、既に無くなっていた。
第15話 梅雨の花は、かくも美しい




