第3話
その写真を見付けたのは、真咲が三つか四つの頃だったと思う。白い背景の中、小さく切り取られた若い女性は、見惚れるほどに綺麗な人だった。祖父母の家にある日本人形のような長い黒髪と白い肌。黒目がちな大きな眼。シンメトリーな完璧な美貌。そして、写真の中から真咲に向けられているのは、不思議な微笑だった。赤い唇が笑みの形をつくっていても、その瞳は深い悲しみを湛えているように見えた。悲し気な微笑を浮かべる美しい人。
「これは、だれ?」
無邪気に尋ねた真咲に、麻美は一瞬言葉を失い、しばらく黙り込んだ。やがて小さな溜息を洩らし、淋し気に笑った。
「これは、お母さん」
「……ふうん」
目の前にいる母親に、その女性は似ていなかった。けれどその理由を尋ねてはいけないような気がして、真咲は何も言わなかった。
翌週、幼稚園の終わりにお迎えを待っていた時、友達のお母さんが喋っているのを聞いて、謎が解けた気がした。
「子供を産むたびに五キロずつ増えちゃって。これでも昔はスリムでモテたのよ」
「本当? でも十五キロ増えたら、さすがに別人に見えるわよね」
なんだ、そうだったのか。麻美は真咲を産んで太ったから、違う人に見えたのだ。見付けた答えに安心して、真咲は迎えに現れた麻美に駆け寄った。
おばさんたちが言っている『だいえっと』というのをして、もう一度あんな風に綺麗になって欲しいと思ったけれど、それを伝えたかどうかは憶えていない。
あの写真はどこへいったのだろう。いつの間にか家の中から消えてしまった。
昼食を終え、キッチンで紅茶を淹れようとしている麻美に、少し疲れたから部屋で休むと伝え、真咲は立ち上がった。
「ヒヨコ残しといてね」
忘れずにそう声を掛ける。先に食べていいという意味だ。カウンターの向こうから「は~い」という明るい声に続き、冷蔵庫を開ける音が聞こえた。
階段を上がって自室に入り、真咲はベッドに仰向けに寝転がった。窓ガラス越しに綺麗な青空が見えた。
サウダージという言葉は、日本語に訳せない。昨日、音楽の授業で聞いた話だ。ポルトガルの民俗歌謡であるファドに歌われる感情表現であり、郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などと無理やり説明されるけれど、微妙に違うのだという。単なるノスタルジーでなく、温かい家庭や両親に守られ、無邪気に楽しい日々を過ごせた過去の自分への郷愁や、大人に成長した事で、もう得られない懐かしい感情を意味する言葉だと、先生は言っていた。それ以外にも、追い求めても叶わぬもの、『憧れ』といったニュアンスも含むのだという。
今の自分の感情は、それに近いような気がした。何を懐かしむというのだろう。何に憧れているというのだろう。
陽射しが顔に直撃する。カーテンを引こうと起き上がったとき、チェストの上の鏡が光を反射した。
覗き込んだ四角い枠の中には、悲し気な眼差しの少年がいた。細い髪を額に垂らした、幼さの抜けきらない輪郭。ふっくらした唇は微笑みを形作っているのに。
自分では気付かない鏡の中の憂い顔は、写真の中の女性によく似ていた。