機械の心臓
「臓器移植すると、食べ物の好物が移るって、言うじゃん?」
まるで誰でも知ってることのように、明子は自分で持ってきたお見舞い用のクッキーを摘みなが言った。彼女の口の端からポロポロと溢れるクッキーの粉が床に落ちていくのが、ちょっと嫌だった。
「移るって、何?」
ちょっとぶっきらぼうな感じで言ってしまったけれど、ただでさえ手術のことで不安な上に、クッキーのせいでモヤついた気持ちが重なっている今の状態を思えば、まだヒステリックになったりしてない分だけマシだと思うようにした。
そんなことを考える私など気にしてないかのように、明子はクッキーを頬張りながら「なんか、テレビで言ってたんだけどね」と応える。
「ドナーが好きだった食べ物とか習慣の記憶が、臓器と一緒に移ってきて、移植した人の好みとかが変わるって」
そういう話、と締めくくり、指についた粉を床へ向けて払った。また、モヤつきが増えていく。
「でもそれは、生きた人間の臓器の話でしょ?」
そう、だから私には関係のない話だ。
だって私に移植される心臓は、機械なんだから。
どういう仕組みかは知らない。多分、父さんと母さんは理解してるんだろうけど、私は正直、詳しいことを聞く気にはなれなかった。
生身の臓器にしろ機械にしろ、この不安は大して変わりはしない。
「んーでもさ、もしかしたら機械にも記憶あるかも知んないじゃん?例えば、電気が好きになるとか?」
なるほど明子にとって、私の心臓は電池か何かで動くと思っているのだろう。ただ、そうだった場合電池切れはイコール私の死だ。
「それで私がコンセントをよだれ垂らしながら見るっていうの?バカみたい」
私はいよいよ明子の話について行くのが嫌になり、そっぽを向いた。窓の外では、小さな白い粒が灰色の空から舞い降りている。
あぁ、やになっちゃう。
明子も、外の景色も、まるで私を慰めてはくれない。それどころか、不安は募るばかりだ。
何よう、と明子は不満げな声をあげる。
「今の状況がちょっとでも面白くなればいいな〜と思っただけなのに」
そりゃ、明子にとっては面白いだろうね。
私にとっては、命に関わることだったとしても。
別にそんなことで喧嘩をする訳でもなく、明子は学校のこととか、宿題のこととか、そういう世間話を一通りして、クッキーをあらかた食べ終え満足すると帰っていった。
「手術、絶対大丈夫だよ」
そんな聞きたいようで聞きたくない、ありきたりな文字を並べて。
出会う人みんなから、そんな慰めの言葉を言われるけれど、結局他人事なんだろうなと思ってしまう自分が居る。だって病院を出れば、そういう人たちには健康で退屈な日常が待っているのだから。
おまけに、明子の土産話は、私を一層不安にした。
機械の臓器。機械の心臓。
別に電気が好きになるとか、そんなことを心配してる訳じゃないし、機械の臓器移植は私が初めて、という訳でもない。
でも、臓器に記憶が宿るのなら、それを取り出した私はその記憶を失うことになってしまう。生身の臓器なら、そこに宿る別の誰かの記憶が補ってくれる部分を、まっさらな機械は埋めてくれるのだろうか。
それとも、その機械にも明子の言ったような記憶があって、例えば作られた工場での記憶だとか、そんなものが代わりに私に入り込んでくるのだろうか。
人間じゃない、ましてや生物でもないものの記憶。
私の背筋がぞわり、と粟立つ。
きっと考えすぎなんだ。私はそう考え、箱の中に僅かに残ったクッキーを一つ摘み、口に放った。
アーモンドとココアの素朴な、甘い味。
この味が好きだと思う私。記憶する臓器。
どうか、このことだけは、忘れませんように。
私はゆっくりと、クッキーを噛み締めた。