カレーの匂いと赤い月
またか。
下半身に悍ましい手の感触。人と人に押し潰されて、今自分がどういう体勢になっているのかさえ分からない。
どうしてそんな状況で、そんなことができるのか。
あなただってぎゅうぎゅうに押し潰されているはずでしょう?
大体、間違えてはいませんか?
傍にもっときれいなお姉さんがいるでしょう?
目がおかしいのですか?
誰でもいいのですか?
ああ、気持ちが悪い。
意識が遠のく。
上手く息ができない。
ようやく扉が開き、私は飛び出すように電車を降りた。
荒い息を吐く私の横を、綺麗なお姉さんが涼しい顔で通っていく。
私が犠牲になることで、その綺麗なお姉さんを守れたのかもしれない。
とんだ自己犠牲、自己満足だけれど、役に立てたのならよかった。
それならよかった。
「大丈夫?」
綺羅が心配そうな声でそう聞いた。
「大丈夫」
私は答える。
スマホで時刻を確認する。
南改札口で菜津ちゃんが待っている。
「綺羅、急ごう」
私たちは早足で階段を降り始めた。
南改札口で菜津ちゃんと合流して、学校へと向かう。
何の目的もなく、奨学金で通う女子大。
それでも卒業後はどこかに就職ができて、どうにか食べてはいけるだろう。
私は人と関わるのが苦手だ。
たまたま前の席だった私に声をかけてくれた、笑顔が可愛い菜津ちゃん。
彼女はとても面倒見のいい性格で、同じ駅を利用していると知ってから、改札口で待ち合わせをして、一緒に通学するようになった。
授業は適当に聞き流し、あっという間にお昼休憩の時間になる。
私は菜津ちゃんと一緒にカフェテラスに移動する。
この大学に入って、いいなと思えた唯一の場所。緑に囲まれた全面ガラス張りの窓は、とても綺麗で開放的だ。
「カレーっていつ食べても美味しいよね」
菜津ちゃんが言った。
「私、苦手なんだ」
「私も」
私に続いて綺羅が言った。
「カレーが苦手ってなんか珍しいね」
私は曖昧に笑う。
迷った挙句、私は定番のきつねうどんを頼んだ。
うどんを食べ終わり、食後のアイスレモネードを飲みながら談笑していると、急に綺羅がペンとメモ帳を取り出した。
「何よ、また?」
私は綺羅に尋ねる。
「観察、観察」
綺羅は飄々と答える。
それからしばらくして、綺羅はペンをカチカチと出したり引っ込めたりしだした。
止めたくても止められない、綺羅の癖だ。
「ちょっとー、うるさい」
菜津ちゃんに言われ、綺羅は肩をすくめる。
「ごめんね」
私が代わりに答える。
全く綺羅は自分勝手だ。
帰り道は嫌い。
だから駅からなるべく近いアパートを選びたかった。
でも、最寄り駅から徒歩20分、それが予算の限界で、私は今日も早足で家路に向かう。
どこからか晩御飯のカレーの匂いが漂っている。
あの日と同じ匂い。
緩やかな風が冷たくて、仄かにカレーの匂いがした。
遠い、記憶。
暗い方へは行きたくない。
叩かれて、叢へ。
気持ちの悪い息遣い。
熱い手のひら。
それに痛み。
酷い痛み。
泣きながら、赤みがかった上弦の月がゆっくりと雲に隠れていくのを見ていた。
でも、これは私の記憶ではない。
「こんばんは」
突然、電柱の影から可愛らしい少女が現れた。
一瞬体が強張る。
彼女は長い髪で右目を覆っていた。
「友達だよ」
楽しそうに肩を揺らしながら、綺羅が言った。
「帰り道、1人より2人、2人より3人、でしょう」
そう続ける。
綺羅が呼んだらしい。
「お名前は?」
「実花」
「実花ちゃん、よろしくね」
私は実花ちゃんに笑いかける。
実花ちゃんは頷きながら、自分の長い髪を押さえつける。
負傷している右半身を気にしているのだ。
綺羅は異常なまでに霊感が強い。
また朝になれば、南改札口で菜津ちゃんが待っていることだろう。
菜津ちゃんは大学と駅までしか自由に行動ができない。
長い間、自殺したあの大学に縛られているのだ。
怖くなんてない。
彼女はとても優しい。
優しくて、脆い。
本当に怖いのは、生きている人間の方なのだから。
帰り道、綺羅と実花ちゃんと歩く。
「カフェテラスの北側にずっと白衣の男の霊が立っているんだけど、どうやらあそこから1歩も動けないらしいね。でも悪いことをして殺されたんだから、彼の場合は自業自得だよ」
綺羅は言った。
「分かった。北側には寄らないようにするね」
私は答える。
街灯の下に映る影は1つだけ。
綺羅は霊ではない。
彼女はあの赤い月の夜から、ずっと私の中にいる。
お読みいただきありがとうございました。