スイセン
青年が教えてくれるまで、消しゴムを落としたことさえ、気付いてなかった。他人からこんなに親切にされたのも、久しぶりのように思えた。白石和奏は、学校ではみんなから避けられるようになった。理由は分からないが、気付いたら、そうなっていた。それもあと少しの辛抱だから――一年もすれば、みんな別々の進路に分かれていってしまうのだ。
高校三年生になって、みんなは放課後図書室に集まって、勉強するようになった。その中に一人、ぽつんといるのも寂しいので、こうやって近くの図書館まで足を運んでいた。平日の図書館にもグループ連れは何組か見られるが、学校ほどではない。一つ空いた隣の席で勉強していた青年も一人だった。あの紺のブレザーは一体、どこの高校のだろうか――制服は不思議なものだ。一人でいても、集団に属しているという安心感がある。そのことに最初に気付かせてくれたのは、柴田葵衣だった。
わかなは小学校三年生の時に彼女と出会った――とは言っても、同じクラスになっただけで、特に仲良しというわけではなかった。それでも、あおいはわかなにとって特別な存在だった。ただニコニコと笑っているだけでも、彼女の周囲にはいつも誰かがいて、その子達の持ち物をやたらと真似していた。あおいの筆箱の中の消しゴムはわかなの真似だったに違いない。彼女の優れた点は何の隔たりもなく、誰にでも合わせようとしていたことだった。
五年生になって、あおいとクラスが離れてしまうと、わかなも他人の真似をするようになった。実際に三、四年の時より友達が増えたような気がして、いつの間にかに、あおいを「目標」にして、何でもかんでも他人に合わせるようになったが、いくら合わせても、差を付けられるばかりで、空しくなった。
中学二年生になったある日、あおいが転校したことが聞かされた。中学になっても、再びあおいと一緒のクラスにはなれなかったが、中二のクラス替えで一年生まであおいと同じクラスだった子と一緒になり、仲良くなった。
「転校ってどこに?」
「どこだったかな~ あの子、いい子ぶってるところあるし、あんまり好きじゃなかったから、いちいち覚えてないよ」
そう返されても、その子ぐらいしか手掛かりはなく、何度か同じ質問をしていたら、その子も次第にわかなから離れていくようになった。わかなは「目標」と同時に、友達を失ったことに気付いた。
それで憂鬱になったのも一年くらいで、三年生に上がる頃には自力で立ち直っていた。なんとなく高校ではあおいと一緒になれるという期待があったからだ。わかなが目指すところにはいつもあおいがいるという――高校に入って、すぐあおいを探し回ったが、どのクラスにもその姿はなかった。その代わりに、新しい「目標」を見つけた。
結花先輩は昨年まで、わかなが所属する文芸部で部長をやっていて、部員からも信頼されていた。これこそわかなが目指すべき姿だと思って、その先輩と同じ国立大に進学するために頑張って勉強しているわけだ。
「アオ入試?」
聞いたこともない言葉だったが、あおいのアオでピンときた。
「変な読み方するね~ やっぱ、わかなは変わってるわ」
先輩は自分が受験することにしたAO入試について教えてくれた。わかなも先輩と同じAO入試を受験するつもりだったが、「わかなは勉強ができるから、どちらかというとスイセン向きかもね」という先輩の一言で、変わった。
結花先輩が部長をやっている時はまだよかった。部長がわかな達の学年の子に代わると、急に冷たい視線を感じるようになった。でも、これもあと少し――文芸部なんて個人で活動することだし、出たくなければ、出なくもいいのだから。この部活に執着はないが、内申点にも影響するので、なるべくなら続けておきたかった。だから、今はほとんどユーレイ部員だった。
「なんか腐れ縁でね、ずっとついてくるの。中学の時なんかもっとひどかったにだから――ユーレイみたいで、うっとうしくて」
そんな悪口を言っていたのも、中二の時に仲良くしていた子だった。一緒の部活ではないが、高三になり、また一緒のクラスになった。
「生身の人間だとなおさらじゃない? あの子の作品なんか、私の話を皮肉ったようなものだから」
そう話すのは文芸部の女の子の一人だったが、何のことを言っているのか、さっぱり分からなかった。その子は以前、わかなに相談事を持ちかけてきたぐらいだから、信頼してくれていると思っていた。
「第一、なんであんな子に相談したわけ?」
「誰かに聞いてほしかったの。ウチの部員の中では一番関係なさそうだったし、あの子が書くのはホラーばかりだし、恋愛とか噂話に興味なさそうだったから――小説だから、ホラ話書くのは勝手だけど、なんか私のことを書かれてる気がしてならないのよね」
「そんなに腹立つなら、本人に言ってみれば? どーせ気付いてもいないんだから」
「言っても無駄よ。結花先輩の言うことぐらいしか、聞きやしないもん」
「確かに、自己チューだから、感覚ズレてるし――中学の時のダンスなんか自分で作ってたんだから――それも気付いてないみたいだから、こっちが合わせて、なんとかやっていったら、あの子のダンスになって、リーダーの子もカンカンで――でも、そんなのユーレイみたいにこの世にいないものと思っちゃえば、なんとも思わなくなった」
「そう? でも、この話もどっかで聞いてそうで、怖いんだけど――あの三番目のトイレ怪しくない?」
「まさか――」
「あそこで次の作品のネタでも考えてたりして――」
冗談で言っているようだが、図星だったので、その場を動けなかった。
「白石さんは成績もいいことだし、一般でもいいじゃないかしら」
二者面談で担任の先生は遠慮がちではあるが、一般入試をススメてきた。成績が悪いからなら、仕方ないが、一般入試でも受かるからという理由で、成績のいい子より悪い子を推薦する意味が分からなかった。これこそ皮肉な話だが、先生の言うことを聞いた。ここで意地を張っても推薦してくれるのも学校で、それを決めるのも先生達だから。
「国立大が無理って言ってるわけじゃないの。何があるか分からないから、安全な私立も一つぐらい考えておかないと」
そう話す先生の口紅はいつもより濃く、これこそ危険な感じがした。
「でも、他に受けたいところがないんです。落ちたら、その時に考えます」
そう言っても、国立大の結果が出る頃には私立大の入試はほとんど終わっているらしく、先生が合格実績ばかり気にしているのは目に見えていた。
わかなは誰でも受かるところに「希望」なんてなかった。それは「可能」であって、「希望」ではなかった。もっと運命的なものを求めていた。そんな理屈が通用する人でもなかったので、それ以上何も言わなかった。どんな方法でも無事に国立大に入ることさえできれば、文芸部の女の子の話も、担任の先生のことも、結花先輩に聞いてもらえるわけだから。
学校の帰り道、チラシが配られていた。高校の前で配られているのは、塾やら予備校のものが多く、それをまともに読んだことなかった。塾や予備校でテストに出るところを教えてもらっても、それが自分の実力だと思えない。テスト本来の目的はそれらを試すことで、他人と争うための道具ではない。二者面談でそんな屁理屈を言っていると、担任の先生はこう言った。
「入試で実力を試してる余裕はないの。みんな過去問を解いて、入試傾向を調べた上で受験するんだから」
あんなふうに言われると、わかなもさすがに不安になってきた。定期テストでいつも学年トップの子も、二位を独占している子も、頭がいいというより要領がよく、まるで宗教でも信仰しているかのように、先生の教えに従っていた。たぶん、推薦もその子達のところにいくのだろう。わかなは三位になるのがやっとのところで、運が悪ければ、後ろから三位になることもあるので、先生が私立の滑り止めをススメるわけだ。高校入試を自力でいけたのも、運がよかったのだ。
そのチラシは、やはり予備校のものだった。わかなはそこに「浪人生の体験談」が載っているのを発見した。予備校だから、浪人生がいるのは当然のことだが、わかなの周囲にはそういう人はいなかったので、浪人という選択肢はなかった。それを読んで、予備校に行く気になったかと思うと、そうではなかった。今は色々なところに手を出すより、一つのことに専念したかった。だからと言って、今までのようにそのチラシを丸めてポイすることはなかった。担任の先生の言うように安全なところを受けておかないと、精神的に辛いのは確かだった。それで予備校を武器には使いたくないが、落ちても予備校があると思えば、気持ちが楽になるのかもしれない。部活のように二重、三重所属は面倒なだけだが、高校を卒業して、属するところがなくなるのは不安だった。そのチラシは落ちた時のために「お守り」としてとっておこうと思った。
「お守り」のおかげで、次の二者面談で自分の意志を通すことができたが、その「お守り」がないことに気付いたのは、二者面談の数日後だった。心当たりのところは全て探したつもりだが、どこにも見つからなかった。これだけ探しても、見つからなかったってことは二者面談の時はすでになかったのかもしれない。
わかなの行動範囲は狭いもので、学校と家と図書館くらいだった。最初は学校で誰かが意地悪して、捨てたのだと思ったが、ただのチラシを「お守り」にしていることは誰も知らなかった。それをわざわざ取り出して、捨てるくらいなら、もっと困るものにするはずだ。例えば、靴とか、弁当とか――もしくは、もっと価値のあるもの――幸いにそんなことは一度もなかった。彼女達はわかなのいないところで悪口を言うだけで関わろうとしなかった。
家で失くしたという可能性もゼロではないが、わかなは家の中でそれを広げることはなかった。予備校はあくまでも国立大に落ちた時の手段で、それまでは両親に相談するつもりはなかった。
図書館は両親が差し入れを持ってくることもないので、眺めていたことはあるが、きちんとバッグにしまったはずだ。しかし、消しゴムのように入れたつもりでも忘れてしまったのかもしれない。わかなはそういう不注意なところがあった。消しゴムなら、あの時みたいに親切な人がいたら、教えてくれるだろうが、チラシは捨てていったと思われれば、それまでだ。念のために落とし物係を覗いても、それと扱われるものは使えるものだけだった。わかなにとっては「お守り」であっても、他人から見れば、ゴミとしか言いようがなかった。それに、チラシなら、いつか配られることだし、そんな神経質にならなくてもいいのかもしれない。
紺のブレザーの青年は時々、この図書館に出没する。せめてどこの高校なのか知りたくて、この前本屋に行ったついでに、目についた高校受験の情報誌で、調べても、あの制服は見当たらなかった。もっと遠いところから来ているのか、そもそも高校の制服じゃないのかもしれない。今日は日曜日で、授業はないはずなのに、あの格好だから――わかなにはその理由を聞く勇気でさえなかった。学校のみんなのようにシラけて、まともに聞いてくれないかもしれない。
昼過ぎ、国立大らしい男子学生もやってきたが、席が一つ足りないらしく、「どーすっか?」と相談しはじめた。すると、一つ空いた隣の席の青年が「一人だから」と言って、詰めた。青年はわかなの気付かないところまで神経が行き届いていて、とても親切だった。しかし、その対象が自分だけでないことに気付かされ、席が近くなっても、勉強に集中することができず、早めに引き上げた。
意外なところに、あの制服の手掛かりがあった。明日、同窓会に行くからと母が学生時代のアルバムを開いている時だった。同じ制服を着た男の子を見つけたのだ。
「この制服はどこの?」
ビックリして、母に聞いた。
「この制服も最近、見かけないから、もうなくなったんじゃない?」
その男の子の一人が母の中学時代のボーイフレンドらしく、田舎へ引っ越してしまったそうだが、しばらく手紙などでやり取りしていたらしく、その時に友達と撮った写真を送ってくれたそうだ。しかし、その写真で高校に入学したという報告を最後にお互い忙しくて、音信不通になって、母もその高校のことはよく知らないのだと。
母が言った高校についてインターネットで調べてみたら、数年前にどこかの高校と統合されていて、あの制服は本当に使われていないようだった。しかも、その高校があったところは電車で一時間くらいかかるところだった。それなら、もっと近くに図書館くらいはあるはずだが、あの図書館を利用する青年は一体、何者だろうか――まさか、本物のユーレイとか――ちょっと変わったことをすると、ユーレイ扱いされるのはわかなも同じで、高校を卒業しても、属するところがなくて、その制服を着ているのなら、分からないでもない。卒業したら、制服を着たらいけない決まりはどこにもないのだから。
次に図書館で会った時に勇気を出して、聞いてみた。
「ただ着る服を考えるのが面倒だから」
どんな些細なことでも気遣う青年の言葉とは思えなかった。
「でも、その制服――」
わかながそのことを言いかけると、青年はゾッとした顔をして、席を離れていった。それ以来、青年が図書館に現れることはなかった。
父の実家が農家をやっているので、夏休みは毎年のようにそれを手伝いに行っていた。
「受験勉強で忙しいんだったら、別にいいんだよ。お母さんと二人で行ってくるから」
父はそう言ってくれたが、一人でこちらに残るのも嫌なので、一緒についていくことにした。去年、祖父を亡くしたばかりで、初盆でもあった。そのことがあって、祖母も落ち込んでいると思っていたら、割と元気で、祖父の分まで頑張らないとと無理をしているのかもしれない。
「大学なんか行かないで、いっそのこと、おばあちゃんのところで、農業でもやろうかな」
祖母を元気づけるためと、半分冗談だったが、本気に返された。
「農業を甘く見ちゃいかん、温室育ちのわかななんかがそう簡単にできるものでもない。それに、わかなは小説家になりたいんじゃなかったのかい? それなら、大学ぐらい出ておかないと」
それで小説家になりたいと言い出した経緯を説明した。
「それはただ、去年書いたのがウケて、演劇部の人達が文化祭でやりたいと言い出しただけで、文学的価値なんかないの」
「それでもすごいことじゃない」
それがどんなにすごいことでも、脚光を浴びるのは演劇部で主役を演じた人くらいで、面白かったとか、よかったという感想はわかなのところまで流れてこなかった。それは「わかなの」ではなくなり、主役の人の名前で呼ばれていた。小説家とはそんな地味な世界でひっそりと暮らしているかと思えば、誰にも干渉されず、一人で農業でもやって、自給自足でもしている方がマシな気がした。
祖母の家の庭先には、ヒマワリが咲いていた。ヒマワリ見ると、いつもあおいを思い出す。それは、漢字で「向日葵」と書くせいだろう。あおいは「太陽」のようなリーダー的存在ではなかったが、いつもその方角を向いて、「太陽」の光を吸収しているような子であった。
結花先輩がわかなはスイセン向きだと言ったのは、花のスイセンのことではないのか――結花先輩も文芸部だけあって、言葉には敏感だった。それに気付いたのも、図書館でふと、あおいのことを思い出し、花事典で調べていたら、「スイセン」という花を見つけたのだ。聞いたことはあっても、よく知らない花だったが、暖地の海岸に自生する多年草――まさに、自分のことではないかと思った。そして、『ギリシャ神話』のナルキッソスの話まで、図書館で調べた。
もう一つ、ヒマワリがあおいのイメージがあるのは、実際にあおいのウチでも毎年のようにヒマワリが植えてあったからだ。あおいのウチは、わかなが住むマンションの南側にある住宅街の一角で、わかなにとって、それ自体が庭みたいなものだった。それをマンションのバルコニーから見下すと、ウサギ小屋くらいにしか見えなかったが、広い庭がついていた。夏休みになると、親戚の子が来て、よく遊んでいた。その庭が雑草だか、芝生だか分からないが、とにかく青く見えた。
あおいの両親もたぶんヒマワリが好きで、あおいは夏生まれでもあったから、名前もそこからとったのだと思っていたが、あおいの名前の由来は違った。クラスの誕生会で、一人ずつ名前の由来の紹介があった時に『源氏物語』の葵上だということを知った。確か、あおいの弟はこうしろーで、彼の名前のコウは光源氏の「光」だったのかもしれない。三つくらい離れていて、平仮名で書かれた名前しか見たことがなかったが、こうしろーはあおいの性格とは違い、こうしろー、あーしろーと人に指図するガキ大将的存在だったので、年上のわかなにもちょっかいを出してきた。
「お姉ちゃんのお友達に何してるの?」
あおいは普段はおとなしいが、彼の前では違った。
「友達って一回もウチに連れてきたことないじゃん」
「クラスの子はみんな友達なんだから――今度連れてきてあげるから」
反抗する弟にあおいがそう言ってくれたのが嬉しかったが、その約束が果たされることはなかった――いや、まだそう決まったわけではなかった。あおいが言う「今度」とはいつのことか分からなかった。あおいの「ウチ」もあのウサギ小屋とも限らない。これから新しいウチにわかなだけ特別招待されるのかもしれない。十年後とか二十年後とかの方がわかなの「希望」には近かった。それを探し求めるかのように『源氏物語』も読み漁っても、そんなことが過去の文学作品に書かれているはずがなかったが、いつしか図書館に通うようになり、葵上とあおいのイメージが重なって、遠い昔話の架空の存在へと変わっていった。
「もう少し仕事が落ち着いたら、サラリーマンやめて、こっちで手伝うよ。そういう約束だったし」
夕飯の時に父が祖母に話すのを何気なく、聞いていた。
「それは父さんとの約束だろ? わかなもあんたもそっくりなんだから――こっちのことは構わんで、せめてわかなが自立するまで向こうにおらんと」
父と祖父の約束なんて聞いたことなかったが、父は長男だから、跡を継ぐとか話なのだろう。わかなはマンション育ちだから、そういう面倒な話はないだろうと思っていたが、本当のルーツはここからなのだということを思い知らされた。あおいのウチもそういうのがあって、元の場所へ戻っていっただけかもしれない。
夏休みが明けると、毎年恒例の文化祭が待っていた。今年は後輩の世代が中心になって、行うはずなので、三年生はそれを見学するだけになっていた。文芸部の部長もいつの間にかに後輩に代わっていたので、部室でも覗いてみようと思った。
「色白で髪が長くて、最適だと思うけどな~」
「それを誰が頼みに行くんだよ。もうくじは嫌だからね」
「そうゆうけど、部長を決める時もじゃんけんは勝ち負けがあるから、あみだくじにしようと言い出したのは真人じゃなかったっけ?」
「それはそうだけど、勝ち負けも当たり外れも結局一緒だったし」
「またフェアじゃないとか言って、言い出しっぺにやらせようとするなら、あんたとはもう口きかないから」
「いや、そうゆうことじゃなくて、別の方法考えようと」
「あんたの別の方法はみんな飽きちゃって、当てにしてないだから」
何だか揉めているようだから、中に入るのはやめておいた。
数日後、あみだくじで部長になったという男の子が頼みにきたのはわかなのところだった。
「文化祭でお化け屋敷やろうということになったんだけど、女の子達がなかなかユーレイ役やってくれなくて――」
立ち聞きしていたので、話はなんとなく分かっていた。真人君はユーレイの格好をして、突っ立っているだけでいいと言ったので、引き受けることにした――というのも、彼の存在には何度か救われた。文芸部はそんなに部員がいるわけでもないが、そのほとんどが女子で男子というだけで少数派となった。普通だったら、多数決でパパっと決めてしまうことも、彼はわかなみたいな少数意見もじっくり聞き、誰も犠牲にならない方法を考え、部長としては最適だった。勝ち負けがあるものを避けようとするのも、真人君らしいやり方だ。
「ちゃんと説明してないんじゃない? いくらわかな先輩でもユーレイはあんまりでしょ?」
この前までユーレイに最適だと話していた女の子達は、今度は真人君を責めるかのように口々にそう言った。だから、女の子は嫌いなのだ。どちらが本心なのか、まるで分からなかった。また揉めるのが嫌だったのか、それともわかなが傷をつくとでも思ったのか、真人君はこの前の話は持ち出してこなかった。快く引き受けたわけではなかったが、真人君が困っていることは分かっていたし、わかなにはこれくらいしか恩返しできなくて、主役になれるチャンスだと割り切っていた。
ユーレイは本当に突っ立っておくだけでよかった。陰でこそこそ「怖い」とかウワサされるよりは、目の前で「キャー」と悲鳴を上げられる方がずっとよかった。対象が見える恐怖よりも、先の見えない不安が大きく、不確実ほど怖いものはない――あおいの現在の居場所、紺のブレザーの青年の正体、わかなには分からないものだらけだった。しかし、もっと知りたいのは自分自身なのかもしれない。それは他人を見習っても、受験勉強を頑張っても、見えてこないことだ。
それでも今は「高校三年生」という身分がある。ただ、来年はどうだろうか――「大学一年生」になっている確信はなかった。いっそのこと、留年して、もう一年「高校三年生」でいられたら、真人君達と一緒に卒業できる。彼がいれば、一年近く離れていた文芸部にも復帰できそうだ。それでも女の子達は同じ学年の子と変わらず、同じになるのかもしれない。今は「先輩」と言って、少しは気を遣っているみたいだが、同じ学年になっても、そんな関係でいられるはずはなかった。そこにはもう、わかなの居場所は存在しないのだ。
昔から年上の人に可愛がられることはあっても、同じ年頃の子の間ではいつも浮いていた。わかなは一人っ子で、親戚の人も大人ばかりだったので、幼稚園に行くまで同世代の子がこんなに落ち着きがないことを知らなかった。大人の模倣はたくさんいても、子どもの中でモデルとして採用できるのはあおいに出会うまでいなかった――というのも、あおいは無駄な動きが一切なく、モデルとして最適だった。わかなも外見は落ち着いた雰囲気を持っていたので、最初は何が違うのか分からなかった。唯一、違った点を言えば、あおいは大人も子どもも、男の子も女の子も、誰にでも適応できることだった。いつもは女の子の中でニコニコと笑っているだけと思ったら、親戚の男の子が来ると庭で野球をやっていたし、先生の前ではいつもいい子だった。わかながあおいみたいになれないことに気付いたのは、つい最近のことだ。それまで中学のダンスも合っているものだと思っていたし、わかながいい子になれるのは好きな先生や先輩の前だけだった。そんな感じだから、同世代の子とは上手くやっていけなかった。これは一種の才能のようなもので、どう頑張っても無理だった。
年が明けると、学校の授業も減り、図書館で勉強することが増えたが、紺のブレザーの青年を見かけることはなかった。周囲でも進路が決まった人が出てきても、その情報はわかなのところには流れてこなくて、逆にプレッシャーにならずに済んだ。それは目の前にある大きな壁に守られているようだった。それから試験までに一騒ぎあった――とは言っても、わかな一人で騒いでいるようなものだった。出願書類の点検をしていたところで、一つだけそれができないものがあった。調査書には封がしてあり、中身を確認することができなかった。中が気になって、光を当てても、特別活動の欄が空白だった。嫌な予感がして、開封してみると、案の定、そこに何も記されてなかった。これでは最後まで部活をやめなかった意味がないと、担任の先生に抗議に行った。
「白石さんとは連絡が取れなくて、一応部員の子に確認したら、とっくの前にやめてるってことだったから――調査書なんてほとんど大学側は見てないし、気にすることじゃなかったのに」
先生は忙しい中、仕事を増やしてと、面倒そうに言ったが、大学側が見る、見ないの問題ではなかった。誰の仕業か分からないが、本人の意思なしに、勝手に外されているのが気に入らなかった。今度は文芸部の活動を確認した上で封をしてもらった。
無事に出願でき、試験の日が来た。受験は争いごとじゃないとあれほど言っていたのに、縁起がいいからと、弁当にカツが入れてあった。昼間から、脂っこいものを食べたせいか、胃がムカムカしてきて、飲み物を買いに行った時だった。紺のブレザーを着ていない、あの親切な青年を見かけたのだ。わかなはその格好に違和感を覚えたが、考えてみれば、あの青年はもう高校生ではないのだから、制服を着ている方がおかしいのだ。あちらもわかなのことに気付いてなのか、逃げるように行ってしまった。あの青年も国立大を目指しているという予感は前からあった。あの図書館は国立大から最も近い図書館だったから――わかなのウチの近く図書館と言ったら、そこぐらいしかなかったが、志望校から一番近い場所で勉強したい気持ちは同じだった。
合格発表には行くか、行かないか迷った。試験の日、午前中までは調子はよかったが、午後からはカツのせいか、あの青年のせいか、本調子ではなかった。一種のカケだった。迷った末に、午前中にカケてみることにした。そこでもあの予備校のチラシが配られていたので、「お守り」にもらおうと思ったら、必要ないことを意味するのか、渡されなかった。それで引き返すわけにはいかず、そのまま結果を見に行くことにした。結果が悪ければ、帰りにもらえばいいことだ。それに、いざ必要になれば、調べることくらい簡単にできた。
そうこうしている間に時間が来て、番号が貼り出された。一つ一つ確認して、探していた番号を見つけた。これで帰りはチラシを受け取らなくていいと安心していると、そばでそれとは対称的に不安そうな表情している彼女はあおいではないか――紺のセーラー服がよく似合い、別人とは疑いようがないほどイメージ通りで逆に驚いてしまった。ただ、その顔にはあの頃の笑顔はなく、何度も同じところを目で追っていくが、探していたものは見つからなかったらしく、目を伏せてしまった。声をかける間もなく、キャンパスのどこかへ消えてしまった。
「わかなの話も、もうちょっと聞いていたいけど、授業はじまっちゃうわ」
初回の授業で、30分くらいは早めに来たのに、結花先輩にばったり会い、立ち話していたら、20分は経過していた。
「私は友達が席を取ってくれてるから、いいけど、わかなは大丈夫?」
授業より大事な話があったが、そのことを理由に先輩は話を打ち切ろうとしたので、仕方なく授業がある教室へ急いだ。先輩の言う通り、どこの席もいっぱいで、わかなの座る場所もなかった。女の子グループの隙間に一つだけ空席を見つけたので、そこに入れてもらうことにした。
もっと文学的価値のあるものを書きたいと、文学部を選んだ。高校の時に入っていた文芸部とはスケールが違っても、女子が多数派だった。高校で一緒だった子は一人もいないので、わかなを避けるような人もいなかった。特に親しい友達はできなくても、世間話をする程度の友達には不自由しないほどだった。
そんなことで最初の一ヶ月は充実していたが、五月に入ると、祖母が体調崩して、その度に両親は田舎に戻っていた。
『電子レンジで温めて、食べて下さい』
こんな書き置きなくても、焼きそばを冷凍庫で凍らせて食べたりはしなかった。それは単にわかながまた冷たいご飯と愚痴をこぼすことが分かっていたからだろう。わかなの不満はその冷たさではなく、母もそれに気付いていて、毎日のように書き置きしているのだ。食事が済んで、テレビを見ながら、両親の帰りを待っていたが、その気配もなさそうなので、風呂に入って、先に寝た。そんなすれ違いの生活が何日も続いた。
夕方、大学から帰ってくると、珍しく両親の姿があった。
「わかな――」
父の低い呼び声に、嫌な予感がした。
「いつまでもこういう生活続けていくわけにはいかないし、仕事を辞めて、おばあちゃんのところで、一緒に暮らそうと考えてるんだ」
わかなも一緒に行かないといけないと思っていたら、わかなには大学があるから、こちらに残るように言われた。それに反対することくらいできたが、大学が面白いと思い始めた矢先だったので、祖母のことが気になっても、父の言う通りにした。仕事や引っ越しの準備があって、両親はすぐ出ていくことはなかった。引っ越しも準備とは言ったが、生活に必要なものは祖母のところにもだいたい揃っていて、祖母の様子を見に行くついでに、父がちょこちょこ荷物を運んでいった。その間、一人でも困らないように母が料理の仕方など教えてくれた。
あおいを目撃したのも、そんな最中のことだった。あおいは国立大に受かっていたのか、キャンパス内にいた。わかなは今度こそ見失わないように正門を抜けていくあおいを追った。それで向かった先は大学の近くのアパートだった。
「どうせ一人になるなら、大学近くのアパートに引っ越したい」
わかなはすぐ両親に相談した。
「確かにここは一人には広すぎるな」
父ももう戻る気はなさそうで、住んでいるマンションを売り、わかながアパートで一人暮らしをするのを認めた。そうこうしている間に先に両親は出ていった。
両親がいなくなっても、すぐアパートに移れる状態ではなかった。大学では初めてのテスト前で、それどころではなく、手伝ってくれる人もいなかった。結局、引っ越すことができたのは、夏休みになってからだった。その頃にはほとんどの学生は実家に戻り、あおいも例外ではなかった。ちょうどあおいの隣の部屋が空いているということを知り、迷わず、そこに決めたが、隣で待っていても、あおいは夏休みの間中、実家から戻ってくることはなかった。こんなことなら、祖母の様子を見に一度田舎に行けばよかった。
授業が開始されて、まだ一ヶ月も経ってないというのに、わかなの頭の中にはあおいの時間割が入っていた。先週は授業に出ていて、いなかったはず――不審に思ったわかなはあおいのところに言いに行った。
「四限は授業じゃなかったっけ?」
「あっ、そうだった――空き時間に夕飯の支度でもしとこうと思ってたら、忘れてた」
あおいはわかなのものすごい記憶力に気持ち悪いとも思わず、そう言った。
「火見とこうか?」
火がつけっぱなしであることに気付き、そう伝えた。
「ありがとう。助かるわ」
そう言い残して、あおいは授業に出かけた。火は止めたものの、その後あおいが何を作ろうとしているのかも分からず、そばにあったオリジナルの研究ノートを見ても、同じだった。鍵を持っているわけでもなく、そのまま帰るわけにはいかず、それらを見ながら、あおいの帰りを待った。
「あおいは?」
あおいが帰ってくるには少し早いと思ったら、その声の主は、間違いなく、あの親切な青年だった。試験の日以来、見かけることなかったが、きっとこの青年も国立大に受かったのだ。青年はわかなのこと気付いているのか、いないのか、そんなことはどうでもいいという感じでそれだけを聞いてきた。
「あおいは授業だけど、何か?」
「行き違いになってしまったのかな――だったら、いい」
「せっかくだから、上がっていったら? あおいもすぐ戻ってくることだし」
「いいよ。俺は女の子達が集まって、キャーキャーやってるのがどうも苦手で――ちょっとしたトラウマがあって」
あおいとわかなはそんな関係じゃないと説明しようとしたら、それを聞こうともせずに出ていった。
あおいは何もなかったように戻ってきた。
「二人で作ったんだから、一緒に食べようよ」
「二人でって、火止めただけだよ」
「そんな細かいこと気にしなくても――たくろーみたいじゃない?」
「たくろー?」
「一緒の学部にいるのよ。ずいぶん助けられてるけどね」
あおいは軽く流したので、それ以上追及できなかったが、あおいが授業に行っている間に来た青年のことだろう。あおいは料理も上手くて、男の子からもモテるはずだから、そういう人がいても、おかしくなかった。それで青年が来たことは言い出せなくなったが、助けられたということは命の恩人なのかもしれない。
それから、あおいは頻繁に食事に誘ってくれるようになった。作り過ぎたのを捨てるのがもったいないとか――そのうち、わかなも自分で作れるものを手伝うようになった。そういうことを繰り返すうちに合わせているわけではないのに、味の好みが似ていることも分かってきた。
祖父母が農業をやっていた影響なのか、わかなのウチでもプランターでミニトマトが栽培されていた。
「トマトじゃなくて、ヒマワリとかにしようよ」
何度か両親に言ったことがあるが、反応はいつも一緒だった。大きすぎて、プランターでは無理だと。ミニトマトの世話はだいたいわかなに任せてあったが、夏休みにあおい達がやっていた野球の試合を見ようと、日中に何度も水やりして、腐らせたこともあった。わかなはトマトが嫌いだったから、態とやっているだろと怒られた。赤くて、プチプチしたものが何だか気持ち悪かった。給食の時には先生が見てない間に、こっそり捨てていたが、ウチでは両親の監視がすごくて、それができなかった。実際は両親の前では食べていたくらいだから、何ともないと思って、一人で食事してみると、酸っぱくて、吐き出してしまった。あおいが好き嫌いがないのは人だけでなく、小学校の時から何でも食べていた。あおいにも苦手なものくらいあるはずだと、給食の時に観察していたが、人を扱うのと同じで嫌いなものを捨てるという発想がなかった。
あおいもトマトが苦手だというのが分かったのも、そういう生活をしてからのことだった。あおいは野菜中心の食生活をしていたが、トマトだけは食べるのを見たことなかった。味付けも洋風のケチャップよりも、しょうゆとか和風のもの好んでいた。
「別に食べれないことはないけど、血を見てるみたいで色がダメで――」
ちょうどその日も外は肌寒くなって、はじめての鍋をしていた。わかなも白菜や大根は好きな方で、肉がないことにそれほど抵抗はなかった。食事中だから、それ以上のことは控えたのだろうが、あおいもトマトの赤さにいいイメージを持ってないことは確かだった。止まれのサインで、一歩も前には進めないような――もしかしたら、弱いものが強いものに抑えつけられる弱肉強食のイメージとか――真人君だったら、いくら食物連鎖だと言っても、弱者が犠牲にならない方法を考えるかもしれないが、わかなはそれが不合理だと分かっても、嫌いなものを捨てる感覚でただ逃げるだけだろう。
もちろん、あおいとは何でもかんでも一致したわけではなかった。わかなは嫌いなものは食べ物でも構わず、捨ててしまうくらい、さっぱりとした性格だったが、あおいはそういう味付けを好む割には、もったいないとかで要らないものでも、やたらと溜め込むクセがあった。
「そんなにとっていて、どうするの?」
「図書館でもできないかと思って――」
いつもの調子で、的外れ答えが返ってきたが、あおいは役に立たないものでも生かそうとしていた。わかなもあおいによって生かされていると思うと何も言えなくなった。あおいの口からはどこで誰から吸収したのか分からないような格言が次から次へと出てきた。あおいは、わかなが知らない間に、いい先生や先輩に出会ったのだろうなと思った。それらは全て合理的で、理に適っていて、結花先輩を上回っていたから、文句一つ言わずにあおいのやり方に従ったので、ケンカもせず、二人の生活は順調だった。
冬休みに入り、あおいは実家に戻ると言い出した。
「もしかして、ここで年越すつもり?」
あおいは不思議そうに聞いたが、わかなにはもう祖母の田舎くらいしか帰る場所がなかった。そこは父の実家であって、自分の実家とは思えなかった。あおいが実家に戻る前の晩に二人でクリスマスパーティーをした。二人なら、ピザとか少し豪華なものを頼んでもよかったが、二人ともピザがあまり好きではないことは分かっていたし、クリスマスイヴの夜に和食をとるのは変な気がして、結局コンビニで小さなケーキ買っただけであとは冷蔵庫にあるもので、あおいが作ってくれた。
「今日はあの人と一緒じゃなくて、よかったの?」
わかなは気になっていたことを聞いてみた。
「たくろーとかいう――」
「あぁ、たくろーはバイト――サンタクロースだったか、トナカイだったか、そんな格好しなくちゃいけないんだって――私はそんなガラでもないし」
また聞きたいことと違う答えが返ってきたが、それはもっともだった。あおいは流行には敏感な方で、食費を節約する代わり、ファッション雑誌も買い込んでいたが、そんな格好することはなかった。あおいが似合うのは合格発表の時に着ていた紺のセーラー服くらいで、そのことを自覚していたのだ。それをフォローしようと、高校の文化祭でユーレイの格好をしたことも話した。話の流れから、文芸部の女の子の話まですると、急にあおいが逃げていってしまうのではないかという不安に襲われてきた。その不安はあおいが明日実家に戻るせいだと分かっていても、落ち着けず、「あおいは違う――一生の友達でいられそう」と何度も言い聞かせるように、声に出して言っていた。それはもちろん本心で祖母の田舎に帰るまでは何とも思ってなかった。
その発言に後悔したのは、祖母の顔を見てからだった。祖母はキョトンとしていて、まるでわかなのことが誰か分かっていないようだった。
「おばあちゃん、少しボケてしまって、時々他人のことが思い出せなくなるのよ」
母はしばらく一緒にいたら、思い出すから、大丈夫と言ったが、祖母にとってわかなは赤の他人とは違うはずだ。文化祭の劇も演劇部の人達にいいように利用されたのだと思っていたが、祖母の一言で文学部を選んだ。それまで価値がないものを利用するなと思っていたが、利用されて初めて価値として認められるものだと教えてくれたのも、祖母だった。それで価値なんて人それぞれだから、他人がどうしようとも勝手だと思えるようになった。唯一価値を認めてくれていたように思う祖母が認知症になったことを知り、ショック受け、わかなも白髪が生えるようになった。
年が明け、荷物を取りに戻った時に大学もやめようと考えていることも、あおいに伝えた。わかなが経済的理由を持ち出すと、自分の部屋に一緒に住めばいいと言ったが、あおいの世話になんかなりたくなかった。その場限りの親切はあの青年と同じで、逆に迷惑だった。一緒に住んだからと言って、あおいとは身内にはなれないし、居候がいいところだ。男の子だったら、結婚して、身内になることも本気で考えたが、女の子とはいくら気が合うとはいえ、そういうわけにはいかなかった。わかなの身内は両親と祖母だけだから。それに、あおいが父の跡を継いで、一緒に農業をやる決断なんてできないだろう。
「女の子達が集まって、キャーキャーやってるのがどうも苦手で――ちょっとしたトラウマがあって」
あおいがいない間に来た青年の言葉をそのまま返しただけだったが、それも嘘ではなかった。女の子達が集まって、キャーキャーやって、いい思いしたことは一度もなかった。彼女達は仲間の絆を深めるために、そこにいない人の悪口を言うだけだ。それでどんなに嫌な思いをしたのか、あおいは分かっているのだろうか――もちろんあおいがそんな人間でないことは分かっていた。あおいは色の批判をしても、直接人の悪口を言うのは聞いたことなかった。歯に衣を着せたような言い方をして、肝心なことは笑い飛ばしていた。このまま去って、あおいを傷つけてしまっても構わなかった。あおいがどんなに目を赤くしていたとしても、目の前で血を流すところでも見ない限り平気だった。だから、なるべく正面から見ないようにして、話していたら、あおいはいつの間にかに消えていた。
あおいが本気に対決してくることはないことは分かっていたから、あんなに強気でいられたのかもしれない。血も涙もない人間の強みとは、勝てなくても、負けを認めなくていいところだった。あおいからも見離されて、これからどうやって生きていくのかも分からなかったが、とりあえず祖母に再認してもらうために一緒に暮してみよう。あそこなら、農業を手伝うこともできて、少しは役に立てるだろうから、それからのことはその時に考えればいいことだ。
五年後――あおいはもう大学を卒業して、就職しただろうか。それとも、あの親切な青年と結婚して、平凡な主婦でもやっているのだろうか。わかなは祖母のことが一段落して、また文章を書きはじめていた。あの時は毎日が忙しくて、小説どころか、日記すらつけていなかった。その時のことを完全に忘れてしまわぬように、文章にした。わかなにとって、あおいは今も「目標」のままだった。その「目標」に届くように、それらをブログで発信した。
『利用するなら、利用しても、構いません。カチがあるものだから』
これでは奇妙で、逆に誰も真似しないだろうなと思いながら、読み返していく。他人から見たら、自惚れていると思われても仕方ないくらい自己完結していたから、カチを認めてもらえないだけで、だれにも負けていないと思っていたが、そういう理想に負けていたのかもしれない。本当の自分――わかな――よりも、理想の自分――あおい――の存在が強くて、とても敵わなかった。
大学をやめようと思った時もそうだった。あおいには学費が払えないと言ってしまったが、いざという時のために貯金はしてあったので、国立大の学費くらいはなんとかなった。一人っ子のせいか、お年玉はけっこうもらっていて、それらに手をつけず、取っていた。祖母はよく「宝の持ち腐れ」という言葉を使っていたが、それをはっきり聞いたのは高校三年生の夏が最後だった。正月は受験前で忙しく、とうとう祖母のところへは行かなかった。祖母の話をきちんと聞いていたら、大学をやめることもなかったかもしれない。わかなはあおいのように何でも溜め込むタイプではないと思っていたが、気付いていないだけで、結局同じだった。
あおいと再会することで、定まっていた「目標」が動き出し、どこかへ行ってしまわないか、不安だった。あおいには小学校の時の動かぬモデルのままでいて欲しかった。書くことがなくなり、これからの二人のことを想像しながら、小説にしていった。あおいはヒマワリのように、太陽の下でぐるぐると回って――そう書くと、またどこかであおいと巡り会えるような気がしてきた。
あおいのストーリーも順次発信したいと思います