第1話 チラミー婦人の授業
その兵営は戦の前の緊張感と熱気で沸き返っていた。
ハンフーン・エロボンが戦場に到着したのは、まさにギリギリのタイミングであったらしい。
空を飛び姿は完全に見えぬ船『デーヴァガーメ』を使って飛んで来たというのに、全く余裕の無い普段通りの有り様にハンフーンはため息が出そうになった。
「モロミエール殿! お急ぎ下さい。軍議が始まります」
ハンフーンの視線の先では、先刻から2人の全身鎧を着た騎士が忙しない会話の最中であった。それもようやく終わるようだ。
「分かった。ありがとう。すぐに向かう」
そう言い返した清々しい顔の若い騎士は、何故か先程からずっと用が無いはずの鎧櫃の蓋に手をかけて握りしめていた。
「フム……ここに有ったか。ダレモヨマンデス、見つけたぞ」
ハンフーンは周囲に聞こえない様な声でここに居ない相手に告げた。
ハンフーンと繋がるデーヴァガーメの探査機能は、あの鎧櫃の蓋の裏に隠された挿し絵小説『チラミー婦人の授業』の存在を確認したのだ。
【朗報です。挿し絵小説が出てくることは滅多にありません。必ずや回収してください。芸術性皆無で趣味全開の官能書籍は現存数も少ないのです】
「それなんだがな……画像データだけあれば良いんじゃないか?」
【現物は重要です。その時代の者に記され描かれたソレが重要なのです。画像データは最後の手段であり、それは書籍が存在したという情報でしかありません】
ハンフーンは再度ため息が出そうになった。意思ある図書館である『ダレモヨマンデス大文殿』に収蔵された官能小説と官能絵画集は二万冊以上にのぼる。
「彼が手放すとは思えん。この戦で彼が死ぬとも限らん。あんたの趣味に付き合ってる俺の身にもなってくれ」
【所在が確認出来ました。今すぐである必要はありません。四十年後でも良いのです。そしてこれは文化保護活動です。あなたも故人の名誉を守りたくはないのですか】
「俺が守りたいのは故人の名誉じゃない。生きた人間が持っているソレが好きだという『想い』なんだ。それを秘密にしておきたいという『願い』もだ。アンタのは侵害行為だぞ。受け手を無視している」
【私の意見では官能作品において重要なのは書き手です。受け手はタンパク質を下から発射し、描かれた内容を脳内で上書きすることしか行いません。最悪の場合は本も汚れます】
「アンタは文化の話をしてるんだろう? 必要なのはどの時代においても理解者だ。継承されずに滅びることを心配してくれよ!」
【もちろん心配しています。私に収蔵されることにより作品は滅びないでしょう。世界が終わるまで!】
「誰も読みに来ねーだろ! 世界が終わるまで!」
【最高の泥棒対策は所在地が不明であることです。とにかく彼の監視を頼みましたよ。官能書籍担当者よ】
「仕方がない。約束は守る」
非常に高速で交わされる、彼と雇用主との不毛な会話もようやく終わった。
今回の対象者である騎士『モロミエール・スキディスン』は軍議に向かう為に鎧櫃から離れたが、チラチラと目立たない様に気にして歩いているのはハンフーン達に丸分かりであった。
本来は清々しい顔が原型を留めぬレベルで左右に下がり、鼻まで横に拡がる勢いで崩れるのは心中に偽りの無い証拠でもある。
「所有者としては文句のつけようが無い若者だ。出来れば助けたいが……」
不思議なことに、兵営内にあってハンフーンは全くと言って良いほど注目を集めなかった。
黒く短めの髪の上には、硬い木の枝を編んだ黒い麦わら帽子の様な物が乗っている。シャツとズボンも黒く、さらにその上から真後ろに深いスリットの空いたコートの様な物を着ている。
防具は手甲と脚絆のみで材質は不明の黒。武器は腰に差した緩いカーブを描く長剣が1本のみという有り様だ。
戦装束というよりは旅装と言った方がよい格好だった。
もちろんハンフーンの呟きは喧騒にかき消されて誰にも届かなかった。
ここは地図上では最西端に位置し、何故か西側三分の一は切れてしまって記載も無い『スミノホーニミュエル連合王国』の東側の国境で、その中でも中央部に位置する場所である。
そして外交的失敗と他国の発展の影響により、ここ数百年間で最も戦争の多発している地域でもあった。
天空よりもたらされ、現在はとっくに失われた技術により建造された『ダレモヨマンデス大文殿』はソレ自体が意思を持って活動している。
戦争により書籍消滅の危機を察知したダレモヨマンデスは、この連合王国の各地に各分野の担当者を派遣して書籍収集作業に入っていた。
その派遣された収集者の一人であるハンフーン・エロボンの担当は官能小説と官能絵画集である。
今回の目的である『チラミー婦人の授業』は珍しいことにそれらの中間的な作品であった。全62話の内容に対して、際どい衣装の家庭教師『チラミー婦人』と主人公の少年の絡みを描いた挿し絵が124枚もあるのだ。
慎みもへったくれも無い上に色んな意味でガバガバの内容だけに、これの所在を察知するのは人知を超えた能力を有するダレモヨマンデスでさえかなりの時間を要したのである。
当然ながら所有者のガードは非常に硬いものになるからだ。
ハンフーン・エロボンが戦場にまで出向いたのは、万が一にも所有者が亡くなった時に事後処理と書籍の回収を行う為であった。
今回の戦闘は小競り合いと呼ぶのが相応しい規模の物でしかない。
敵味方双方ともに、およそ百の騎兵に八百の歩兵しか連れてきていなかった。
起伏の多い地であっても見通しは良く、双方とも弓兵を持っていないこともあって、接近して戦う為に割とえげつない内容の戦いになりそうである。
ハンフーンは、連合王国側の陣営に潜みながら先程から悪い予感がしていた。
「これは出ていって、彼の『願い』を聞き届けることになるかもしれんな……その時まで手出し無用とかヒデェ話だ」
【我々は勝敗その物に関与出来ません。結果的にそうなってしまう場合は構いません】
「それはアンタが考えたルールだよな……いかん!」
それは両軍の騎兵が激突してしばらくのことだった。お互い策も無く、両軍とも揉み合いになっての乱戦が始まった時のこと、件のモロミエールは敵の騎士の再度の突撃が躱せず脇腹にもらってしまった。
そこからのハンフーンは早かった。乱闘を潜り抜け、敵の騎士に走って接近するまでが数瞬のことである。
そこから馬を超える高さまで跳ぶや、敵の騎士を拝み打ちの一刀で両断した。
「ファガダッ!」
叫んで後方に倒れる相手を無視して、すでに虫の息であるモロミエールの所まで駆け寄る。
「モロミエール殿! 気を確かに。最後の頼みがあれば聞こう。見られては困る物の処分とかな!」
「貴殿は!? そうか……ゴフッ、た、頼む。あれは……アレだけは燃やしてくれ……先生……今はそんなことしてる場合じゃな……」
それだけを告げると、ハンフーン・エロボンの腕のなかでその若い騎士は息絶えた。
「安心しな。そのブツは俺が必ずや引き受けてやる」
彼は立ち上がるや亡くなった者に背を向け、騎士の最後の心残り『鎧櫃のフタの裏に隠した官能挿し絵小説』を回収するため連合王国の陣営へと立ち去った。
兵営は人が出払っていることもあり静かだった。
「ヘッヘッへー、あの騎士様はどうやら死んだみてえだし、こん中にはきっとすげえ金が入ってるに違いねえ……」
不心得な従者の一人であろう。その男は、残された鎧櫃の蓋を開けた瞬間に付き合いの長い頭部とお別れした。
「価値の分からんヤツも色々だ。さて、回収は完了したぞ」
【これを燃やせとは。ずいぶんと酷い言葉でした】
「そうでもないと思うがね」
帰還の途中、ハンフーンは足代わりの飛行船『デーヴァガーメ』をモロミエール・スキディスンの故郷である『コシパン郷』で止めた。
農家の者達は全員が大きめのズボンを微妙な位置で履いている。何処にでもありそうだが裕福とは言い難い領地だった。
「きっと普通に教育を受けることも満足に出来なかったんだろうな……モロミエール」
この地に教師に来てくれる人は居ないだろう。彼は苦労したに違いない。
作中のチラミー婦人は、半分以上は主人公の少年に乗っかっていたからまともな授業になっていたかは怪しい。
しかも教壇では、全話で半裸状態であったから授業に集中できたかどうかも不明だ。
きっとモロミエールは、この本の中に自分の欲しかった物の全てを見たに違いない。
「教育と美しい女性と、限界を色々超えちゃってるプレイとか……じゃないな。慣習ってヤツが大嫌いだったのかもしれない」
モロミエールはそれを誰にも渡したくなかったのだ、とハンフーンは彼の故郷を眺めてそう感じた。
「いずれにせよ、この本が世にでることはもうない。良いことだとは思えないがな……」
【良いことに決まっています。これは世に出る時代を間違えています。保管するべきでしょう】
「世界が終わるまでか?」
【次の読むべき者が現れるまでです】
こうして『チラミー婦人の授業』はダレモヨマンデス大文殿に収蔵された。