第9話 アリスとお米と小競り合い
雲ひとつ見当たらない爽やかな蒼天。それだけでいつもよりも空が高い。冷たく乾いた秋風が爽やかに吹きすさぶ、それが身体だけではなく、心までも凍えさせてしまう、屋内から聞こえるアリスの爽やかな哄笑。そいつがなにかを、明確ななにかを与えてくれる──殺意──人はそう呼ぶのかもしれない。
そんなさわやか3組に囲まれて、爽やかでない男がひとり、殺意を滲ませて。
「くっそ〜、なんか納得いかねえ」
赤く膨らんだ左頬を擦りながら、クリスが毒づく。
「さっきまでのしおらしさは、どこいったんだよ! ったく」
クリスは玄関を出てすぐの所で立ち尽くし、天を仰ぎ見ていた。秋の嵐を全身で受け取り、殺意は脇へと捨てずに取っておく、あとで必ず使うはずだと、彼は独り無言でうなずいてから、今の状況を再確認するように壁のない玄関周りと、近くの茂みに積まれている壁板、それとその横に放置されている釘を見やり。
「……にしても、母さんのことで頭がいっぱいで、昨日は気づかなかったが」
クリスはぶつぶつとつぶやきながら、独り困惑していた。玄関周りの壁板は破壊されている──と言うよりも、ただ単にはずされているだけだった。所々はずされた壁は破壊されたものだと思っていたが──違う。はずされた壁板は脇の茂みの中に綺麗に積まれ、釘もその横に山積みにされていた。それらをひと通り見回して、クリスが憮然と言う。
「これはどう理解すればいいのか……いや本当まったく分からん」
玄関ドアは破壊され穴をあけられている、壁も数箇所ほど蹴られたのか、それともなにかで叩き壊したのか、風通しをよくしてもらっていた。外壁の損傷は玄関周りを中心とした表側だけで、家の裏側は無事な姿をとどめていた。
家の中も竈やテーブルに部屋のドアなどが破壊されていた──にもかかわらず、ここだけ壁板が綺麗にはずされ、綺麗に野積みされているのか? 帝国兵はなにがしたかったのか、その意図が分からずに、クリスは外に出てからずっと頭を悩ませていた。
「あははは。お兄ちゃんはほんっと弱っちいんだから、これがお母さんの言っていた。こいつYOEEEってやつなのね」
ついでに家の中から嫌でも聞こえてくる、咆哮にも似た、アリスの嘲笑に苦汁を飲まされる──どころか頭から浴びせられている気分にさえなる、そこはぐっと拳を握りしめてクリスは堪えていた──今のところは。
アリスの罵声は無視して、クリスが指を1本立てて本題へと入る。
「考察その1。帝国兵はなにかをしようとしたが、中断せざるを得ない事態に陥り、そのまま放置することとなった」
「自分からなんでもありのじゃんけんで決着をつけようぜ。って言っときながら、負けた途端に手のひら返して、今のは卑怯だ、反則だ、無効試合だ! なんて言うんだもん。私は笑いを堪えるのに必死でしたよ? これが正真正銘の負け犬の遠吠えなんだね──ふっふっ。わたし初めて聞いたかもしれないな」
さきほどよりも、さらに拳に力がこもる。2本目の指を立てると、クリスは苦々しく口を開き、あとを続けた。
「考察その2。なにかしらの隠蔽工作のために使用しようとした、もしくは、この無意味と思える行為に目を向けさせて、注意を引くこと自体が隠蔽工作となっている」
「わたしは神経を極限まで研ぎ澄まし、聞くことにのみ専念した。勝機を掴むために、だけど、これは私にとっても賭けだったわ、勝算は五分、でも私はやってのけたの! あのインチキ詐欺師のイカ野郎の言葉を聞き逃さなかった」
──さいしょっから。
「このかけ声を聞いた瞬間、わたしは勝利を確信したの、だってお兄ちゃんはいつも同じ手口なんだもん。過去に32回も引っかかっているのよ、いい加減わたしも学習するっつーの!」
鼻息荒く、3本目の指をぷるぷると立たせて。
「考察その3。軍事物資として調達しようとした、が、単純に荷馬車に積みきれなかった、または、運搬手段を確保できなかった」
「お兄ちゃんがパーをだすよりも速く、わたしのさいしょっからのグーパンチが、空を切り裂き嵐を呼んだ──そう、ちょうど今日みたいな秋の嵐よ。嵐を纏いしわたしの渾身の一撃が、あの悪逆非道の男の左頬に突き刺さった! そしたらお兄ちゃん。ホンゲ〜って悲鳴──あは! 情けない声だったね。だけど拍子抜けもいいとこよ、まさかワンパンで決着がつくとは思わなかったもん」
あまり笑顔になっていない笑顔を作り、自分の感情を誤魔化して、なんとか耐え忍んだクリスは、重々しく4本目の指を上げた。
「考察その4。とりあえず必要数は集まったので途中で止めた。あとは──」
「それでも負けを認めないの、グーよりもパーのほうが強いんだぞって、しつこく言いきるんだもん、だからわたし言ってやったのよ、わたしが立っててお兄ちゃんが倒れているんだから、誰が見てもわたしの圧勝よってね」
アリスの独り言のような語り口調が、いつの間にか熱弁へと変わっていた。先ほどの死闘を再現しているのか裾の擦れる音が微かに聞こえてくる。
外にいるクリスからは視認できないが、そこはなんとなく気配で知れた。それを背中越しから聞く、まるで後ろ指を指されているかのような心持ちになり、どこか後ろ暗ささえ覚えてしまう。
クリスが言葉を探していると、追い打ちをかけるように、アリスの軽快な口調が滑り込んでくる。
「お兄ちゃんもバカよね、黙ってればいいものを、鍋の底のお焦げが美味うまいんだぞって、無駄に知識をひけらかすから悪いのよ、こういうのなんて言うんだったかしら?」
アリスが悩むようにうめく。
すぐに思い出したのか、ぱっと表情を明るくして手を打ち鳴らすと、妙に嬉しそうな高い声で、あとを続けた。
「──あぁそうそう、俺SUGEEEだったわね。ぷっ、弱え〜にスゲ~にポエラーとお兄ちゃんも多才なひとだね! いや違うか、こんなの才能じゃない、ただのバカ三冠王。う〜ん、もうひと声かな? バカの極み──はい決定」
「くっ……」
吐息とともに声が漏れる、大きくかぶりを振ってから、反論する意味がないことは認めた。もちろん彼女の言動を認めたわけではない、悲しいほどにひとの意見を聞き入れない性分なのは理解しているからだ、それはともかくとして、クリスはなかば投げやりに最後の言葉を口にした。
「考察その5。あんなダサい鎧を装備している奴がいたんだ、ちょっとぐらい異常な行動を取っていたからって、なんら不思議じゃない、むしろ……謎めいていたかった。とか?──なわけないっか」
思いつく限りの答えを羅列してみたが、結局のところ分かったことといえば──理解できないことを理解した。と打算的な考えでとっつきだしたが、この上ないくらい無駄な時間を使ったことに、後悔を覚えつつ、クリスが苦い表情でうめく。
「いっそうのこと、壊してもらっていたほうが悩まずにすんだのに──なにかの謎かけかよっ!」
とりあえずクリスはひとりツッコミを入れておいた。いろいろな感情のこもった、深いため息などを吐きながら視線を下げた。庭の端から端に視線を這わせる、ふと目を止めて、見つけた物をおもむろに拾い上げた。クリスが手にしたのは平ぺったい石だった、べつに誰かに投げつけるためではなく──そういった衝動がないわけでもなかったが、その石を確かめるようにぺたぺたと触り。
「まっ、これでいっか」
ぼそりとつぶやき作業へと取りかかる。背後から聞こえていた罵声もいつの間にやら止み、話題が変わっていた。それがよかったかどうかは分からなかったが。
──コンコンコン。
硬質的な音が庭先に響く、まるで石で釘を打っているかのような、かん高い音。
アリスが音源を探る──簡単だった。小難しい顔をしたクリスが、ひょこっと外から顔を覗かせた、左手で釘をもち右手で持った石で釘を打ち付けていた。外から聞こえてくるかん高い音は、思った通り石で釘を打っている音だった。
興味がなかったわけではないが、今は取り込み中なので、アリスはあっさりと無視すると、目の前の食卓に視線を引き戻した、スプーンでご飯をすくい、口へと運ぶ。
「う〜ん美味しい〜、お米ってこんなにも甘くて美味しいものなんだね。炊く前と後とでこんなにも違うなんて信じられないよ、それにこのお焦げ! カリッと香ばしくて絶品です──あっ! だけどまっ黒に炭化したのは不味いから、お兄ちゃんの器の中にふりかけておこっと」
──カンカンカン。
聞こえてくる音質が変わった。ちらりと視線を向ける、なんてことはない、クリスは石から剣に持ち替えて、柄頭の部分を使い釘を叩いていた。しばし黙考した後に──アリスはきっぱりと放置することにした。
「うーん、この美味しさときたらすでにおかずだね。これなら軽く3杯は食べれるかも」
──ゴン、ゴン、ゴン。
乱暴に壁を叩く音が聞こえてくる、アリスは眼球だけ動かし、外を見やる。
クリスはガシガシと壁板にかぶりついていて、これ見よがしに高く掲げられた右手には、ちょびっとばかし赤く染まった石が握れれている。
彼はグラグラと煮えたぎるような眼差しで──もしかしたら泣いているのかもしれないが──アリスを睨みつけていた。壁に密着したままの姿勢で器用に釘を打ち続けている、その姿は少々哀れにも見えた、が、アリスはくるりと背を向けて、気に留めることもなく、あとを続けた。
「水につけて炊くだけで、こんなにも美味しくなるなんて、これぞ魔法だね! 手軽で美味しい、まさに主婦の味方です」
──ドン、ドン、ドン。
けたたましく壁を叩きつける音が鳴り響く。もう振り返ることすらせずに、アリスは素知らぬふりをして喋り続けた。
「うんうん、今からお昼ご飯が楽しみになってきたよ、あっ! ご飯を使ったアレンジ料理なんかも考えてみよっかな」
──ダンダンダン、ゴキッ。
「痛ぅぅぅぅ〜、うおぉらぁー」
──ガコン、ガコン、ガコン、バキン。
ここまできてようやく、アリスが鬱陶しそうに騒音の元凶に視線を向けた。ドンっと机代わりの木箱の上に器を置いて、パタパタと埃を払う仕草を見せてから、不機嫌に眉をしかめて口を尖らせた。
「もう雑なんだから! 貴重な壁板を割らないでよ、それにさっきからうるさいよ、私は食事中なんだから静かにしてよ砂埃もたつんだし、もう少し気を遣ってよね」
「うぉい! どの口くちが言う、て言うか直したいって言ったのはアリスだぞ」
壁のすき間から顔を出してクリスが怒鳴る。が、すぐに顔を引っ込めて、ドタドタと足早に玄関へとまわって行く。
「──だいたいさっきからずぅーと食ってばっかじゃないか、それになんだよ主婦でもないのに主婦の味方って、おかしいだろ。つーか朝メシ食いながら昼メシをなににするのか気にしてる暇があるなら、とっとと手伝え」
ぜえはあとクリスが疲労の色を浮かべて、ドカドカと屋内に入って来るなり、息継ぎもなしにがなりたてる。突きつけた指は脱力しきって、腕ごと下を指していたりもするが。
「…………」
アリスには涼しいよりも、少し肌寒い気温に感じているのだが、目の前まで来たクリスを確認すると、いつの間にか上着を脱いでシャツ1枚しか着ておらず、衣服もびっしょりと汗で濡れていた。それをなじるように眺め回す。
「とりあえず、むさいわね」
すっぱりと、アリスは思ったことを口に出した。
「……ほーう、なかなか──言って……くれるじゃねーか」
両手を膝につけて息も絶え絶えな様子で、クリスが言葉を押し出した。
クリスの刺々しい問いかけにも、かまうことなく睨むように目を細めて、アリスは陰険な口調で抗弁した。
「食ってるなんて下品な言葉を使わないでよ、私は味わって食事をしているの、それに早口で食べるとお腹が痛くなるんだから、ゆっくり食べさせてくれたっていいじゃない。それにね、お兄ちゃんは知らないの? 私だって家事手伝いぐらいはしてるよ、家事手伝いも主婦の仕事もたいして変わらないんだから、主婦って言葉はただの揶揄よ! それぐらい察してよね」
「手伝わないのと、昼メシの反論は?」
クリスが半眼で促す、ぎくりとしたアリスが身じろぎして、焦りの色を滲ませた。目を泳がせてクリスと視線を合わせずに、言い訳じみた声をあげる。
「手伝わないなんて言ってないもん、ちゃんと朝食が済んだら、手伝うつもりでいたんだよ」
「昼メシ発言の反論が抜けてるぞ」
ひあ汗を垂らしてそっぽを向いたアリスが、ふーふーと吹けもしない口笛の真似をして、白を切って誤魔化そうとする。アリスの頭をがしっと鷲掴みにしたクリスは、ぎりぎりと力任せに正面を向かせて、険悪な顔を近づけると、にっこりと微笑を浮かべて言う。
「なあアリス、もしかしてとは思うんだけどよ、聞いてもいいか?」
「な、なーに」
動揺したアリスが裏声で返事を返した。
クリスもひび割れそうな理性を、割れないように努力してみたが、先ほど捨てなかった殺意がぴょこっと顔を出し──殺っちゃいなよ。と口くちを出す──こめかみに疼くものを感じながら、無意味に立たせた指を、ずいっとアリスの目の前に持っていき。
「このままゆっくりダラダラと昼まで朝食とやらを続けて、そのままの流れで昼メシにありつこうって、魂胆かい? まぁ、あわよくば手伝うことなく補修作業も完了していれば、一石二鳥って感じ?」
にこやかに告げる。
「ひどい! なに言ってるのお兄ちゃん。それは誤解よ!」
心外とばかりに胸に手を当てて、アリスは大げさなリアクションをいれた。さり気なくクリスの腕をふりほどき、距離をとる。
「ほーん、誤解だって? なら聞こうか。どういうつもりだったのか」
「さすがの私も間食もなしに、朝食を昼まで引っ張るのはしんどいよ」
「うぐっ……ま、まぁ、いろいろと引っかかる部分はあるが、いいだろう。ほいで?」
「いや……だからね」
「だから? なんだよ。もったいぶるなよ」
意を決したのか、アリスは唇を引き絞り、真剣な表情を作る。そして……
「しっかりと食後の休憩を挟んでから、昼食にしようと思ってたのよ」
言葉を濁すことなく、彼女はあっけらかんと言い切った。
「ことさら悪いわ!」
顔を紅潮させたクリスが、怒鳴りつける。
「だからその過程で私が手伝い損ねても、まったくこれっぽっちも責任はないよね……それはともかくとして、お兄ちゃんの腹案もいいかも。特に一石二鳥ってとことか」
「ア〜リ〜ス〜、なんでいつもそうなんだ。泣きべそかいて直すの手伝ってよ。っていってたのは自分だろうが! 自分の言葉には責任を持ちましょう──だったけか? なら、今すべきことはもちろん分かってるよな?」
クリスが威嚇のポーズをとりながら、にじり寄っていく。
「当然わかってるわよ! この半べそおとこ。残りの朝ごはんを食べ終えたら、水を飲みながら勝利の一服よ! 私がちゃーんと監督しててあげるから、お兄ちゃんはしっかりと──ってきゃあ」
「だぁぁーらっしゃい。この自分本位爆進鼻タレ娘の減らず口が!」
怒鳴りながら、片手でアリスの頬をつねり上げる。
「あだだだ! ちょっとなによ、私はいつも自分に真っ直ぐど真ん中なだけだもん。鼻もタレてないし、て言うか垂らしてたのは、お兄ちゃんのほうでしょ」
「おや? そうかね」
言うが早いか、クリスは素早く両手で頬を掴みなおし、グリグリとこねくり回していく。
「いひゃひゃひゃ、ほへんにゃひゃい、ひゃめて、ひゃめて、いひゃいいひゃい」
「ああ〜そうだな俺も嘘ついた。垂れてるのは鼻水じゃなくて、ヨダレだったな、それよりも、なぁアリス。どうだ? 反省したか」
クリスは据えた目でアリスを見下ろす。もちろん手は止めずに。
「ごへんってゆっへっるじゃない。ひゃめてってば」
よだれを垂らしたアリスが、奇妙な悲鳴を上げて、珍しいことに素直に謝ってくる、クリスも餅のようによく伸びる、彼女のほっぺたに感動すら覚えたところで、我に返り手を放した。
「ほら、いつまでも遊んでないで、とっとと作業に取りかかるぞ。じゃないと向こうに着くのが、ほんとうに夜になっちまうからな」
うううっと頬を擦りながら、アリスが悶絶してうずくまる、ポタポタと垂らしたよだれを拭いてから、顔を上げて涙目で訴えかけてきた。それを見たクリスは、眉根を寄せて嫌そうな声を上げる。
「あんだよ」
「だってだって肉体労働なんかしたら、いまのお兄ちゃんみたいに汗だくになるじゃない、着替えもないのに、汗まみれの服のまま町まで行かされるなんて、清純な乙女の私からしたら、恥辱以外の何物でもないわ」
アリスがくぅーっと唸って首を横に振り、はらりと涙の粒を飛ばす、口惜しそうな渋い顔を見せてから、さらに続けてきた。
「ああ、なんてこと、これもきっと帝国兵の計略のひとつなのよ。これで私の動きを封じて……えぇっと、まあなんだかんだと妨害行為を企んだのよ、敵ながらあっぱれとしかいいようがないわね。なんてったって私は動けないんだから、手伝えれないのも必然ってことよ、そうよねお兄ちゃん」
同意を求めるような視線をクリスに向けた、向けてすぐに後悔した。アリスの顔色がサーと青ざめていく。
「──ヘッヘッヘッヘッ」
クリスは不敵な笑みを浮べて、ただ笑っている──血走った目で。
クリスの顔は明確な殺意を浮べていた。頭を横に傾けてケタケタと笑いながら、アリスに近寄っていく。
彼は胸の高さまでゆっくりと腕を上げると、そのまま前に突き出した。そして、その手を無言で固く握りしめた。
その意味を一瞬で理解したのか、アリスがシャキッと立ち上がった。反射的に敬礼のポーズを取ってから、了解しました! と高らかに叫んだ。
これでようやくふたり揃っての、家の補修作業が始まった。アリスが板を支えて、クリスが釘を打っていく、金槌など無いので、石やら剣の柄頭の部分やらを使ってとにかく叩く、はっきりと非効率ではあるが、さっきまでのひとり作業を考えれば、アリスに板を支えてもらっているだけで、かなり順調に進んでいく。
(たく、もっと早く手伝ってくれれば、あんなにも苦労はしなかったのによ、アリスが言い出したくせして、まさか言い出しっぺがサボるとは思わなかったぞ。つーかあいつ! こういう時に出てこいよ。俺が俺を見捨ててどうするんだよ)
クリスが胸中で毒づきながらアリスを見やる、ふっと、ついさっき忽然と現れ消えた、幼い自分を思い出す。
(そういやあいつ……なんで首にうっ血の痕があったんだ? あんな怪我をした覚えはないんだけどな)
──と、前方から弾き飛ばされたような罵声が、割り込んでくる。
「ちょっとお兄ちゃん! ちゃんと持ち上げてよ。ひとりじゃ重いんですけど」
「ん? ああ悪い」
言われて、手が止まっていたことに気づく。
「もう、すぐに意識を宇宙の果てまで飛ばして、サボろうとするんだから、私を見習いなさいよ。こんなか細い腕で、重たい板を持ち上げているのよ、これからはおサボり禁止!」
「お触り禁止みたいに言うな! そもそもアリスが言えた義理じゃないだろうが、ずっとサボってたくせして」
「人間、過去にばかり囚われていても先には進めないわ。ほらほら明るい未来のために、手を動かした、動かした!」
あくまでも目は合わせずに、アリスが言う。それを半眼になって睨みやり。
「へいへい、わーてるよ。とっとと片付けるぞ」
クリスは煙を払う仕草をしてから、手を動かしだした。今までの騒がしさが嘘だったように、静まりかえる、アリスも真面目な顔で板を持ち上げ支えていた、なんとなく彼女の姿を横目で捉える。
アリスも上着を脱いで、クリスと似たような格好をしていた、板を支えているだけなのだが、それだけでも彼女にとっては重労働なのだろう、シャツの上からでも身体のラインが分かるほどには、汗をかいていた。
ひとの目が無いからか、アリスもはばかることなくシャツの胸元をつまんで、パタパタと内部に溜まった不快な空気を押し出している。
(15歳のガキんちょのくせして、いっちょ前にほどよく出るとこは出て、引っ込むところは引っ込みやがって……まてよ)
虚空を見上げ──なにげなく思う。再度アリスを視界に収めると、えも言われぬ不安が押し寄せ、心の隅を突っついてくる。
(こんなんでも見てくれは悪くないからな。町に移住したら厄介事が増えそうだな……いや心配事か。さてどうしたものか、おかしな奴は追っ払うとして、俺はどこまで口出しすべきなんだろう? こんなとき父さんだったらどうするかな……う〜ん。過保護もよくないし)
クリスが物思いに耽っていると、アリスからの奇妙な視線に気づく、彼女は自分の身体を抱き締めながら、いやいやと身体をくねらせていた。クリスはそれを半眼で見つめ。
「なんだよ! にやにやしながら、くねくねして」
クリスが呆れ顔で問いかけると、かまってもらえたからか、それともほかに理由があるのか、アリスは瞳を輝かせ、嬉々として語りだした。
「いまわたしの身体を見て楽しんでたでしょ、いくらわたしが可憐で美しく清楚でそこはかとなく奥床しくもありながら、たおやかなうえ容姿端麗でめみ麗しい才色兼備で、今が食べ頃お年頃だからって、そんな色眼鏡で見ないでよね、まぁ、お兄ちゃんがどうしてもって言うなら、考えてあげてもいいけど」
「いや、うん。まあなんだ」
どこをどう突っ込めばいいのか分からなくなり、クリスはとりあえず、一番最初に思いついた言葉を、冷たく添えた。
「自分で言ってて恥ずかしくないのか?」
「全然、へっちゃらよ」
「あっそう」
アリスのへっちゃら発言を受けて、本気で将来を心配したりもしたが、恥を知らないのなら、心配することもないかと結論付けて、クリスはすぐに作業へと戻る。
そして作業を終わらせ──残ったご飯も平らげたあと──ふたり仲良くデコボコの板壁を眺めていた、お互い顔を合わせる。同じことを思ったのだろう、確認を取るようにうなずき合い、自分たちを慰める言葉を口にした。
「これが俺たちの限界だよな。道具もない状況下で頑張ったよな。そうだよな」
「うん、そうね。ひとまず小動物は入ってこれないからいいと思う。お金が貯まったら、大工さんでも雇って直してもらおう」
「……そうだな」
ふたりが無言で歩き出す。少し歩いたところで兄妹がぴたりと足を止めた、一度だけ肩越しにわが家を一瞥すると、ふたりとも足早に村の出口へと向かっていった。兄妹の無駄なすったもんだ劇も相まって、出発できたのは正午を過ぎてからのことだった。
そしてふたりはいま──街道を南に進んでいる。